2017年8月30日水曜日

邪馬台国はここにあったんだと思う

統計学だとか大学改革だとか考えるのも大事ですが,たまには趣味の世界も楽しみたいものです.
ときどき古代日本を妄想する記事も書いておりますので,今回はそれについて.

以前,邪馬台国の比定地をご紹介したことがありますけど,あれは私説へ強引に結びつけるところがありました.
その後も時間があるときに古代日本のことを調べていたのですが,今回,私なりに現時点で最も納得できる「邪馬台国があった場所」が見つかりましたので,その理由とともに取り上げたいと思います.

**邪馬台国はここにあった**
結論から言えば以下の通り.
(1)邪馬台国があった場所は,九州北部(福岡県〜大分県にかけての沿岸部)
(2)邪馬台国とは,「筑紫国」の前身となる連合国のこと
(3)一般的に邪馬台国と称される「女王国」があった場所は,福岡県行橋市周辺から宇佐市周辺
(4)邪馬台国に属さないとされる「狗奴国」とは,九州東部のことで,のちの「豊国」に相当する地域のこと
(5)邪馬台国への道中にあるとされている「投馬国」とは,九州西部のことで,のちの「肥国」のこと

図示すると以下のような感じ.

その理由を示していきます.魏志倭人伝の記述に沿って読み解いていきましょう.
魏志倭人伝の記述は,ウィキペディアから引用しました.

倭人が住んでいる場所
原文:倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
和訳:倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
この魏志における「倭人伝」を書いている人は,自分たちの支配している「帯方郡(韓国・ソウル周辺)」から南へ海を渡った島に「倭人(日本人)」が住んでいる国があって,大陸へ使者が来ていることは知っているのです.
全くの未知の領域というわけではないようですね.

でも,倭人がどんなところに住んでいるのか,詳しくは知らない.だから今回,偵察として使者を送り,その様子を記録したのだと思われます.
ここだけでなく,倭人伝全体を読んでみても,どうやらそんなニュアンスが伝わってくるんです.

ポイントなのは,この「魏志」における「倭人伝」は,あくまで「倭人伝」であり,邪馬台国のことをメインで紹介している記録ではないということ.
詳細は後述するとして,まずは倭人の国への道のりを解いていきます.


**九州上陸まで**
原文:從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
和訳:帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
図示するとこんな感じ.

この文章はシンプルに読み解けると思います.
帯方郡というのは,現在の韓国・ソウル周辺だとされています.
大陸から日本列島に渡るのも,対馬と壱岐島を経由するのが通常の感覚でしょうから,「狗邪韓国」とされているのは現在の韓国・釜山あたりとみてよいでしょう.

帯方郡(ソウル)とされる場所から狗邪韓国(釜山)に行くとすれば,海岸を伝って南下し,そして東に向かうことになりますから,この解釈が成り立ちます.

次は,狗邪韓国から対馬国に渡ります.
原文:始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
和訳:始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
これはそのものズバリ,現在の対馬のことでしょう.

ここからさらに南下します.
原文:又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
和訳:また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
一大国というのは,現在の壱岐島とみて良いと思います.対馬から南方に見える陸地は壱岐島です.
当時の船のテクノロジーからすれば,そこを目指すのが自然です.

一行はさらに南下.九州の東松浦半島に到着です.
原文:又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
和訳:また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
末盧国というのは,東松浦半島にあった国と考えられています.
これまでの道中を図示します.
ここで重要なことを一つ.
渡航者の距離感覚についてです.

当時はGPSや精密な測量器などありませんし,時間を測る時計もありませんから,距離はだいたいの感覚で測るしかないことが予想されます.
これについて,韓国〜対馬〜壱岐島〜東松浦半島のそれぞれの距離は異なるのに,全て「1000里」としているところに注目です.

当時の船はガレー船という手漕ぎボートですから,1日に進める距離は「体力×日照時間」で推定されることになります.
おそらく,1日に船で進めた距離を「1000里」として記録したのだと思うんです.
そう考えると,1000里は約60km〜80kmくらい,1里は約60〜80mですね.
これなら,帯方郡(ソウル)から狗邪韓国(釜山)の距離とも類似します.たぶん,帯方郡から釜山までは7日かけて来たと推定されます.

「壱岐島から末盧国までが1000里では短いのではないか」という記述を見ることもあるんですが,1日必死で漕いだものを1000里としてカウントするのは普通の感覚だと思いますし,天候が少しでも悪くなったら漂流の危険がある時代ですから,壱岐島から最も近い陸地を目指すのが常識的ではないでしょうか.

末盧国を東松浦半島の北端ではなく,現在の唐津市市街地だと考えることもできます.
船出した時に目指したのはの半島の北端.そこから流れの速い対馬海流を受けながら,唐津市市街地を目指すのが人力のガレー船での航行としては妥当かと思います.
それに,半島東部をまわって唐津湾から唐津市市街地へと入ったとすると,対馬から壱岐島へと至る距離と同程度になります.
しかも,この航路であれば,対馬海流に流されたとしても取り付く島があるので安全です.
これなら「船で1日かけて漕いだ距離が1000里」という解釈ができるのではないでしょうか.


**陸路で女王国を目指します(邪馬台国ではない)**
末廬国からは陸路です.
原文:東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
和訳:東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
南東に向かって歩き出したとすれば,やっぱり末盧国は唐津市市街地からやや北部にかけてだと考えられます.
以下のような感じです.
伊都国は末盧国のちょうど真東にあたりますが,御一行が歩き出した方向は南東なんですよ.
末盧国があったとされる唐津市周辺から,伊都国があったとされる糸島平野(および福岡市西部)までは約35km.
文中に示されている距離「500里」は妥当なものと考えられます.

ちなみに,当時は方角を知るには日の出日の入りを頼りにしていたはずです.
さらに,手漕ぎのガレー船で日本海を渡海できるのは7月〜8月にかけてだとされており,御一行は夏に来たものと考えられます
ですから,夏の日の出日の入りの方角を知ることで解釈できるはずです.
日の出日の入りマップというサイトで,7月の各地における「日の出日の入りの方角」を見ることができます.
試しに,7月15日の唐津市から見た日の出日の入りを以下に示してみました.

このように,唐津周辺から東進しようとすると,まずは唐津湾をまわるために南東に進むことになるのです.
もし冬に来ていたら「南東」ではなく,「東」と書いたのかもしれません.

次は大都市と考えられる奴国に至る道です.
原文:東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
和訳:東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
図示するとこんな感じ.
これも末盧国から伊都国と同様,夏季の日の出日の入りの方角からすれば「南東」に位置します.
そこから100里(約7km)という短い場所で想定されるのは福岡市西部になります.
さらに,この「奴国」というのは魏志倭人伝とは別の中国の文献でも福岡市周辺にあった国であることが知られています.
この奴国も,その奴国である可能性は高い.
原文:東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
和訳:東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
奴国は大きな都市とされていますから,きっと福岡市西部で広範囲に広がっているものと考えられます.
その郊外からスタートして,福岡市中心部を流れる川を渡った反対側にある国が不弥国だったのではないでしょうか.
現在ここには宇美町という地域があり,これが不弥国の名残ではないかとも言われています.


**邪馬台国までの道のりを示した謎の文章の解釈**
さて,不弥国までの道程は多くの研究や著作で同じものが語られていますが,そこから先が問題です.
原文:南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
和訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
そして,
原文:南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
和訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
いきなり距離が示されなくなり,「水行20日」などと日数が示されるのです.
その日数が非常に長いことから,これを根拠に「邪馬台国・近畿説」などが語られます.

さらにもう一つ重要なこと.
「邪馬台国」の国名が出るのはここが最初で最後です.
しかも,ここの人口(戸数)の記述だけ投馬国も邪馬台国も推定値になっています.
それまでの記述とは毛色が違っているんですよ.

こう考えることはできないでしょうか.
つまり,著者としては「奴国」という魏(中国)国内でも少しは知っている人がいるほどの,ちょっと有名な国までの距離を記述してきたので,ここで一旦文章をまとめ,『魏志倭人伝』としての全体像を示しているのです.

例えば,東京から京都の金閣寺へ旅行した人の旅行日誌として,こんな文章があっても不思議ではありません.
東京駅から京都駅まで新幹線を使い西へ約500km.
京都駅からは地下鉄で北上し,北大路駅まで約7km.
北大路駅からはバスに乗り換え西に約2.5km向かえば,金閣寺に到着します.
ちなみに,品川駅から大阪までなら「のぞみ号」を使って140分で,
京都の金閣寺までなら「のぞみ号」の120分と,電車と車の移動が60分かかります .
最後の2行のように,旅程を所要時間で示したり,比較対象と一緒に示すことがありますが,これが「投馬国まで水行20日」と「邪馬台国の女王国まで水行10日陸行1日」ではないかと思います.

そして,ここでいう「大阪」と「京都」が,上述した「投馬国」と「邪馬台国」になると考えられます.
ウィキペディアでは「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る」という訳文になっていますが,もしかすると「南に水行10日と陸行1月で邪馬台国(女王の都がある所)に至る」と解釈するのかもしれません.
魏志倭人伝の日本語訳は確定的ではないとされていますし.

そう考えると,投馬国と邪馬台国の戸数をあえて「推定値」として記述している理由も分かります.
つまり,投馬国と邪馬台国はいずれも連合国であり,ここ倭人の国に出向いた御一行は,その全てを見ているわけではないのです.
ですから,伊都国,奴国,不弥国といった女王国に属しているとされる「邪馬台国」の総戸数は7万戸であり,もう一つの倭人の連合国である「投馬国」は5万戸であると考えられます.
常識的に考えてみて,古代日本の一地域に5万戸や7万戸もあるのは不自然です.
逆に言えば,それだけ「奴国(2万戸)」が倭国を代表する巨大都市だったとも言えます.


**基本情報である「帯方郡から女王国まで1万2000里」**
「南至投馬国・・・」から「・・・自郡至女王國、萬二千餘里。」までの文章は,女王国の位置を説明している一連のものです.
ですから,それぞれ別々に解釈するのではなく,一連の文章として読む必要があるんです.
長いですが,そのまま掲載します.
原文:自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
自郡至女王國、萬二千餘里。
和訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
帯方郡(ソウル)から邪馬台国の女王国まで1万2000里だと明言しています.
不弥国までの総距離は1万700里です
ということは,女王国は不弥国から1300里(約80〜100km)のところにあるということになります.

これは長すぎても短すぎてもいけませんから,以下の緑色の領域内が有力候補です.

だとすると,その前に書かれている「水行10日 陸行1ヶ月」の意味も分かってきます.
上述したように,船で進める距離は「1日で1000里」でしたよね.
では,その計算で帯方郡から水行した日数はどれほどでしょうか?
帯方郡〜狗邪韓国:7000里(7日)
狗邪韓国〜対馬国:1000里(1日)
対馬国〜一大国:1000里(1日)
一大国〜末盧国:1000里(1日)
合計10日.つまり,水行10日なのです.


**羅列された21カ国にも掲載するだけの意味がある**
そして,陸行1ヶ月ですが,これを考えるためには「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない」のあとに紹介されている国の合計が21カ国であることがポイントです.

著者は「詳らかにすることはできない」と書いていますが,その後に書かれている国々は,女王国までの「陸行1ヶ月」の間に訪問できた国々のことではないでしょうか.
常識的に考えてみてください.彼らは偵察も兼ねた大陸からの使節団ですよね.1日毎に隣町まで移動して1泊し,その都度,現地の首長からのおもてなしを受けつつ,1ヶ月かけて女王国まで向かったと考えるのが普通でしょう.
そう考えれば,末盧国,伊都国,奴国,不弥国を加えれば25カ国です.
もちろん1日で辿り着けない時もあったでしょうから(末盧国から伊都国の間など),諸々あわせて約1ヶ月.
これが「水行10日,陸行1ヶ月」の正体ではないでしょうか.


**女王国(いわゆる邪馬台国とされた都市)はどこにあったのか**
では,女王国の場所はどこなのでしょうか?
「自女王國以北、其戸數道里可得略載・・・」とありますから,女王国から見て北方に土地があることになります.
さらに,位置を特定するためのヒントは以下の文章です.
原文:女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
和訳:女王国から東へ1000里渡ると,また倭人の国がある。
つまり,女王国の東には海があるのです.
北方に多数の国々を位置させることができて,東方に海を望む場所.
そこが女王国.
ということは関門海峡から東側,福岡県東部から大分県北部が有力候補になります.
これまでをまとめて図示するとこんな感じ.
福岡県行橋市から大分県豊前市辺りが,最もその条件を満たしています.
それに,この位置は不弥国から約1300里(約100km)にも位置しているのです.

さらに言えば,ここは地政学的にも重要です.
船を使った外交や商取引(特に鉄の輸入),情報交換などが活発になってきたこの時代において,関門海峡周辺を押さえることは日本列島の覇権を握ることを意味します.
日本海勢力と瀬戸内海勢力に睨みを効かせられるからです.
原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。
この記述は,現在の北九州市あたりに監察官を担う本部があったことを示していると考えられます.場所としても,ここにそれを置く意義は十分にある.
そして,その監察官は伊都国に常駐していたというわけです.

そう考えると,邪馬台国とは現在の糸島半島から宇佐市までを勢力下に置いていた連合国,つまり「筑前」から「豊前」までの領域に相当し,のちの「筑紫国」の前身になった国ではないかと思えます.


**投馬国はどこにあったのか**
もう一つの疑問を解釈してみましょう.
「南至投馬國、水行二十曰」の投馬国とはどこを指すのか?
東松浦半島までにかけた「水行10日」に追加して,さらに水行10日(合計20日)で行ける場所が投馬国ということになります.

私は,末盧国を分岐点として,九州西部に水行した先の国を差しているのだと思うんです.
理由は2つあります.
(1)魏志倭人伝では,女王国より東方を未知の倭人の土地として描いている.ゆえに「投馬国」が瀬戸内海勢力(安芸,吉備,伊予,讃岐など)や,日本海勢力(出雲,丹後,但馬など)とは考えにくい.
(2)より安全な陸行ではなく,危険でも水行した方が便利な場所にある

当時の大陸(中国・朝鮮)にとって「倭人の国」とは,邪馬台国と投馬国が有名所として知られていたのではないかと思われます.
だから,「魏志倭人伝」として「両国とも帯方郡から南下したところにある」と記した.
邪馬台国と投馬国の両国は,末盧国〜対馬国を経由して大陸と交流をしていたのかもしれません.

投馬国のことが詳しく記載されていない理由としては,大陸からの御一行は邪馬台国にしか行かなかったからではないかと考えられます.
そして,魏志倭人伝においては,詳しく偵察することができた邪馬台国の記録を記述した.
一方の投馬国については,末盧国で「ここから西側に船で10日くらい行けば,投馬国に着くよ.規模は邪馬台国よりちょっと小さいくらいだよ」という情報を集めただけなのかもしれない.
だから,「南へ水行20日で投馬国.同じく南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国の女王国に行ける」という文章になり,投馬国についての詳しい距離や首都の記述がないわけです.

陸行せずに,水行20日のみである理由も簡単です.
以下を御覧ください.

九州西部は,リアス式海岸と諸島が続いており,ここを陸路で旅することは困難です.
陸行は不可能というわけではないけど,船を使った移動の方が便利だった可能性があります.
なので,「水行20日」とだけ記述した.九州西部では陸行することはないと考えられたからです.

投馬国の中心地がどこだったのかは不明ですが,私の妄想としては「大村湾内・諫早市周辺」というロマンを描いています.
ここは川と平地が適度にあり,水路の確保が容易で,しかも有明海を越えて現在の佐賀県や熊本県との交流もできます.
その海洋航路技術も高かったでしょうから,大陸とのつながりも深かったのではないかと思うんです.


**狗奴国はどこにあったのか**
次に,「其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず」についても考えてみましょう.
女王国が行橋市周辺だとすると,その南方には大分県の別府市や大分市があります.豊後の国ですね.
位置関係をおさらいするため,冒頭に示した図を再掲します.
そのまんまです.狗奴国は九州東部の国だと考えられます.

おそらく,狗奴国としては大陸と通じて鉄などの希少資源や新しい技術・知識を欲しがっていたのではないかと思います.
そのためには,関門海峡を押さえている邪馬台国が目の上のタンコブだった.
私の妄想としては,きっと国東半島が九州の火薬庫だったと推察しています.

そんな九州の火薬庫のど真ん中に,日本の歴史上極めて重要で,武運の神「八幡神」を祀る八幡宮の総本社「宇佐神宮」が鎮座しているのも,何かを意味していると考えたくなります.

それに,「狗奴国は別府市・大分市周辺にあった」のだとすると,実は私のもう一つの妄想である「日本神話における『天孫降臨』は四国勢力による九州平定の物語だった」を別の形から説明してくれるんです.
詳細は■古代四国人・補足(国譲りと天孫降臨から空想する)を読んでほしいのですが,つまりは,
「邪馬台国(アマテラス)と争っている狗奴国(サルタヒコ)が,四国勢力(ニニギ)を導いて制圧に乗り出した」
ということです.
興味があったら上記リンク先をどうぞ.


**邪馬台国が近畿ではない最大の理由**
最後に,「邪馬台国九州説」の念押しをしておきます.
原文:參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
和訳:倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。
これって島ですよね.そこそこ小さめの.
本州じゃないですよ.
「一周するのに5000里(約400km)」というのは九州にしては小さいですけど,現地で情報収集したところからの分析ですから,精緻なものではないと考えられます.
ちなみに,グーグルマップで九州1周分を計測すると,約1000kmになります.
もしかすると,一番遠いところまでの距離と間違えたのかもしれませんね.


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2017年8月28日月曜日

マナーは守るものではありません

「記録は破るためにある」などと言われますが,これはマナーにも同じことが言えます.
場合によっては法律もそうかもしれませんが,誤解されると困るのでホドホドにしときます.

先週から立て続けに書いてきた「マナー」に関する記事ですが,ここらへんでまとめておきたいと思います.
ようするに何が言いたいのかというと,ちょっと刺激的な言い方をすれば,
「マナーは守るものではありません」
ということです.

前回と前々回に取り上げたウェブサイトが,ちょうどそれを考える上で便利です.
TOKYO GOOD MUSEUM(Tokyo Good Manner Projects)
「東京グッド・マナー」を世の中に発信するという,極めていかがわしいプロジェクトにそれを見ることができます.

サイトのトップページに,新しくこんな項目が追加されているようです.
「マナーに正解なんてない。だから、みんなで考えよう。『TOKYO GOOD会議』」

いえ,私はこれを否定しません.むしろ,マナーのことをよく分かっているじゃないかと思って感心しているのです.
でも,これは「TOKYO GOOD MUSEUM」の趣旨である,
東京をかたちのない美術館に見立て、東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する
に反しているのではないかと心配してしまいます.
もしくは,改心したのでしょうか.そのうちサイトの趣旨替えをするかもしれませんね.

上記のページに入ってみると,以下のような質問を見ることができます.
そこには,
・飲み会の席。唐揚げについてきたレモンは搾る?
・風邪でマスクをしている。人と話す時は外す?
・タクシーに乗車。上司の席はどこ?
などと,社会人1年生が気にしそうなことだけど,実際はどうでもいい話題がアンケート形式で展開されています.

たぶん,当初は勢いとかノリにまかせて「東京のグッドマナーを「作品」として可視化させ、発信する」ことを考えていたんだけど,あとになって「実は『マナー』ってそういうものじゃないんだよね・・・」ということに気がついて始めたのかもしれません.
でも,誤りを正すのは良いことです.

結局のところ,マナーとは「人々が暮らしやすくするために社会生活をする上での事前申し合わせ事項」でしかありません.
法律や条例といったルール(掟)ではない,柔軟性の高いもの.
トートロジーみたいになってしまいますが,マナーとは法律になっていないからこそマナーなのです.

むしろ問題なのは,マナーをルールと同一視しようとする奴や,マナーを守ることを「人間性」とか「民度」の現れと捉える人です.
所詮は「事前申し合わせ」なのですから,その都度いろいろ変更すればいいこと.
明日は海水浴場で遊ぼうと思って水着や浮き輪を用意していたとしても,朝起きたら雨だったということはよくあります.だったら自宅で映画鑑賞や焼肉パーティーに変更すればいいわけで,昨日決めたことだからと寒さに震えながら海水浴したり,水着で映画鑑賞してたらただのバカですよね.
でも,マナーを「ルール」と思い込みたい人や,これを「民度」の問題だと考える人は,寒さに震える海水浴と同じことをしています.
そういえば,新幹線のホームで4〜5人しか待っていないのに,指定席車両のところで何分も前から一列に並んでいる人がいます.これも水着で映画鑑賞しているようなものですね.まあ,あれはマナーというよりクセでしょうけど.

最近は,なんでもかんでも法律とか条例にしたがる人が散見されます.
むしろ,守らなければいけない法律が廃止になったりする.
今回はそんな話をしたいのではありませんから割愛させていただきますけど.
でも,ここで何が言いたいのかというと,マナーをマナーとして使うためのノウハウが軽んじられているのではないかということです.

現に今「マナー」として存在するのであれば,より暮らしやすくするためにも,誰もが文句を言えない「法律」にしてしまおう,という動きは,否定するつもりはありませんが「良い」動きとは思えません.

マナーはマナーとして存在すればいいんです.
なんとなく「そうした方がいいよね」っていう,ゆるい感じで.
でもそれは,「守られるべきもの」として存在してはいけません.
敢えて言うなら,マナーの本領が発揮されるのは,これを破る時にある.

例えば,上述したTOKYO GOOD MUSEUMの「タクシーに乗車。上司の席はどこ?」についてもそうです.
こんなもの,上司と普段どのように付き合っているかで回答は変わります.
ご案内の通り,マナーとしては運転手の後ろが上座ですが,私であれば上司がよく知った人なら「◯◯さん,どうぞ.助手席にいっちゃってくださいよ」とオススメします.実際はそこが最も楽だったりするので.
私も上司的な立場の時は,「じゃあ皆後ろに座って」と指示して助手席に座ります.代金を支払ったり領収書をとるのも楽ですから.

ビジネスマナーというのも,マナーなのかルールなのか不明瞭な場合が多いですね.
守らなければいけないのであれば,マナーじゃなくてルールにしておけばいいのだし,守らなくてもいいのであればマナーとして放っとけばいい.

こういうこと言うと,「君は教育業界しか知らないからだ.社会人のこと分かってないんだな」と不満を持つ人がいるかもしれませんけど,自分自身がこの世界のどこまでの領域の人と一緒に仕事をしているのか考えてみてほしいんです.
社会人=サラリーマンのような図式がありますが,そもそもサラリーマンなんて全職業における一部の人たちで,「サラリーマン(ビジネスマン)」と一括してメディアで取り上げられやすいことによる錯覚です.
日本の15歳以上人口は,約1億1000万人.そのうち労働力人口は約6700万人で,サラリーマンとして見られる「正規の職員・従業員」は,その半数の約3400万人です.しかもそのサラリーマンだって「典型的なサラリーマン」は少なくなるわけだし,業種も細分化されています.
サラリーマンの多くは,我々教育・研究業界を知らないし,医療,農家,職人,漁業,ラーメン屋や主婦のことも知らない.
世の中の圧倒的多数は,「いわゆるサラリーマン」以外の業種です.

そんなサラリーマンに求められるとされるビジネスマナーは,多分ですけど「一流企業」と呼ばれるところで発生したマナーが,その他の企業や業種でも広まっているんじゃないかと思うんです.
それが「オラんとこでも一流企業のマナーを取り入れよう」という俗物根性とあいまって,まるで「社会人」としてのルールの如く君臨している.
でも,そこでマナーと言われていることは,大規模な企業や限られた業務でしか意味をなさないものですし,マナーとして成り立っていない,すなわち「人々が暮らしやすくする(仕事しやすくする)ための事前申し合わせ事項」になっていない場合もあります.
時折ニュース等で見聞きする,そんな「面倒くさいビジネスマナー」を無視して独自の指示を出す企業や上司というのは,本来のビジネスマナーを再提起したい欲求の発露だと思うんです.

誤解を恐れずに言えば,マナーとは「目の前にした相手や従属する集団への配慮不足,およびコミュニケーション能力の不足を補うための滑り止め」とも言えます.
言い換えるならば,「相手の様子をうかがいながら,最適なものを提供するコミュニケーションが(不本意ながら)とれなくとも,とりあえず「これ」を実行しておけば罪悪感に苛まれなくても済む行為」それがマナーです.

先ほど私は「マナーをマナーとして使うためのノウハウが軽んじられているのではないか」という話をしましたが,マナーをより強固なものとして扱おうとするこの風潮は,それこそこの社会においてコミュニケーション能力が不足してきていることの象徴ではないかと思うのです.
すなわち,面倒なコミュニケーションを取りたくないことの裏返しとして,マナーをルールの如く運用し,その「コミュニケーション能力が求められる場」を乗り切ろうとすることです.

その典型が,昨今の就職活動において重視されている「コミュニケーション能力」です.
学生は,企業就職にしても教員採用試験にしても,とにかくコミュニケーション能力をアピールしようと必死です.
なかには,提出を求められた作文に「私にはコミュニケーション能力があります」とダイレクトに明記する者もいます.
どうして猫も杓子もコミュニケーション能力のアピールに注力するのかと言うと,もちろん企業側が就活生に求めているからです.
2017年現在,いまだ「コミュニケーション能力」が求められています.
求められる能力とは?就活を成功させる秘訣(キャリアパーク2017.7.20)

でも,企業や公務員の人事担当が求めているのは,学生が考えているようなコミュニケーション能力ではありません.
不幸なのは,それについて人事担当と学生の両者ともが勘違いしている可能性が高いこと.実は,企業の人事担当も「コミュニケーション能力」とは何を指すのかよく分かっていないのではないでしょうか.

細かい話はだいぶ前に記事にしたことがあるので,そちらも御一読ください.
子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
(我ながら,今読み返してみても勉強になります)

では,勘違いされている「コミュニケーション能力」とはなんでしょうか.
この記事から引用すれば,
(今,この現代社会では)人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
そんなような社会に新規参入していく若者からすると,その社会で認められるためには,当然のことながらマニュアルにそった模範解答のようなコミュニケーション能力を理想とし,鍛えるでしょう.
だって,クレームに追われ,失言で揚げ足を取られ,それに適切な対応をしたかではなく,事前に予期できなかったのかが問われる「大人」を見ていたら,子供のコミュニケーション能力もそちらにシフトするというものです.
それが若者のコミュニケーション能力が低下していると評されることの正体ではないでしょうか.
記事中にも書きましたが,コミュニケーション能力の低下は「若者」に起きていることではありません.社会全体の傾向ではないかと考えています.
今思えば,安倍政権のモリカケ問題で今年の流行語大賞候補となった「忖度」も,まさにこのマナー問題の行き着く果てと見れなくもない.


つまり, “誰も傷つかない適切な加減”を事前に予期し,それを正確に選択できるか否かが問われている社会にあって,「忖度」こそが最良のコミュニケーション能力として重視されるのは当然の帰結でしょう.

しかし,コミュニケーション能力とはそのようなものではありません.
今回の記事のテーマに沿えば,自分が事前に知っていたマナーで対処できなくなった際に,そのマナーを破る能力のことと言えます.
私が知っているマナーで事態が悪化していくのは,相手がマナー違反をしているからだ.私はマナーを守っているのだから,相手が悪いんだ.
それに対し,「いや,あなたの知っているマナーは最近は通用しない」とか「その場合,こうするのが本来のマナー」などと反論される場合もある.
マナーに関する議論で散見されるのが,こういうやつです.どっちのマナーが正しいのかの論じ合い.
でも,これは典型的なコミュニケーション能力の不足です.
どっちのマナーが正しいのかなんて無意味です.
マナーとはそういうものではありません.

私は「マナーなんて不要」と言いたいわけではありません.マナーは必要です.
しかし,マナーは守らなければいけないものではなく,あくまでコミュニケーション能力を発揮しなくても社会を円滑に進めるための装置として捉え,今その場で本当に必要とされていることが何なのか考える姿勢を失ってはいけません.

少し前に「飲み会の席でポテトフライを注文する」についてネットで話題になっていましたが,これは私の中ではマナー違反だと思います.
松本人志「飲み会でフライドポテト注文は腹立つ」(キャリコネニュース2017.8.7)
本音を言わせてもらえば,飲み屋でポテトフライが注文されないような法律を作ってほしいし,ポテトフライを注文するような奴は民度が低い.
だけど,ポテトフライをどうしても食べたい人がいて,それでなければお酒が飲めないというのであれば,私はそれを認めます.お酒もワインやウイスキーは頼まずに,安めのビールにすればいいんです.それで楽しく飲めるんならいいじゃないですか.
飲み会において必要とされていることとは,皆で楽しくコミュニケーションを図ることなのですから.

もちろん,一緒に飲むのが学生だったら教育的指導をします.
「じゃあ,ポテトフライ2つ」とか言おうもんなら,店員に優しく「あ,それキャンセルで」と断り,だし巻き玉子かホッケの塩焼きに変えさせます.

え? マナーは破るためにあるんじゃなかったのかって?
日本の社会がそんなことだから,今治に加計学園なんかの獣医学部が認められちゃうし,尖閣諸島も中国に乗っ取られるんですよ.
居酒屋でポテトフライを頼んでるような国は,そう遠くない将来崩壊します.



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2017年8月24日木曜日

「日本は諸外国と比べてマナーが良い」と言い放つマナー違反

本件について,もう少し詳細に書いてみます.
前回は,「日本は諸外国と比べてマナーが良い」という自慢こそマナー違反ではないか?
という話しました.
今回は,その「マナーが良い」という理由として挙げられている事例が,実は「マナー」とは関係ないのではないかという話題です.

例えば,最近では「日本人観光客はマナーが良い」と言われているそうですが,30年くらい前は「日本人観光客はマナーが悪い」と言われていました.
30年前の日本人観光客 マナーが悪いと海外で批判されたことも
主にどういった国々からの評価なのかは調べられませんでしたが,おそらく主な渡航先であるアメリカ,ヨーロッパ,中国・アジア方面といった場所であることが予想されます.

どうしてこの30年で日本人観光客のマナーが改善したのかというと,「旅行会社が渡航先のマナーについて指導するようになった」というのが主な理由なのでしょうけど,それにプラスして「一般的な日本人の生活様式やマナーの基準が欧米化した」というのがあると思います.
欧米以外の中国や東南アジアといった地域に渡航したとしても,そこでの宿泊施設は欧米式のものが多いですから.

ちなみに,「日本人観光客はマナーが良い」という話の出典元は,アメリカの旅行会社「エクスペディア」が2002年および2007〜2009年にホテルに対して行なった調査です.
細かい調査結果は以下のサイトで見ることができます.
「世界最良の観光客」2007-2009年度 国別ランキング

ところがネット等では,この調査結果を拡大解釈しているものが散見されます.
この調査は「国民のマナー意識の高さ」を総合的に判断しているものではないし,街行く人にインタビュー調査したものでもなく,「ホテルのマネージャーが選ぶ優良観光客」なんです.
「マナーの良さ」はその尺度のうちの一部に過ぎないのに(もちろんそれが1位なのだが),その他の「チップが多い」「苦情を言ってこない」などを含めて総合得点を出しているものです.

実際,この調査は旅行会社やホテル側の目線で選ばれているものであり,決して一般的な環境下でのマナー意識を調査したものではありません.
意地悪く見れば,「日本人には融通がきく」「カモりやすい客」ということの裏返しであるとも言えます.

それを推察できることとして,この調査では日本人は2007年〜2009年まで総合ランキング1位ですが,それ以外の国は年によってバラつきが大きいんです.前年にワーストだったかと思えば,次の年にはベストに入っていたりする.
ようするに,「海外旅行への積極性・主体性」の現れではないかとも考えられます.
日本人は言葉の壁を気にしたり,欧米コンプレックスがあるとされますので,ホテル側が提示したことに何でも「YES!」「OK!」などと言いがちなのかもしれません.それをもって「マナーが良い」と言われても,ちょっとバイアスがかかっているかと思います.

前回の記事でも書きましたが,なにも私は「日本人はマナーが悪い」と言いたいわけではありません.
「外国人から『マナーが良い』と言われている」という話があったとしても,簡単に受け取らず,もうちょっと慎重に受け止めなければいけないのではないかと言っているのです.

私自身,これまで海外経験を積んで,様々な国の外国人と仕事や交流をしてきた中で思うのは,各国それぞれ特徴があるのは感じますが,その素行や振る舞いに優劣はつけられないということです.
考えてみれば当たり前で面白くない話かもしれませんが,それが正直なところ.

ましてや「マナー」です.
繰り返しになりますが,マナーとは当該地域の定住者が暮らしやすくするために設けた慣習・技術です.全国一律,世界一律に「良い/悪い」と評価できる基準があるわけではありません.

例えば,「遺失物の扱い」もその典型です.
「日本では財布を落としても戻ってくる」ということが取り沙汰されることがありますが,これも慎重に考えてみれば「民度」や「マナー」と関係づけることも難しくなります.

警察の統計が示すように,日本で拾得物(拾って届けられた物)の件数が増加したのはここ最近の話です.昔から高かったわけではありません.
遺失物取扱状況(平成28年)(警視庁調べ)
もっと慎重に考えてみれば,どうして最近になって遺失物が増加したのか気になります.
おそらくは一億総中流と言われるほど日本国民の中間層が厚くなることで,ネコババすることに利益を感じない人が増えたことが考えられます.
貧すれば鈍すると言いますが,豊かになればその逆になります.

もっと直接的な要因も考えられます.法律です.
皆さんは遺失物(落とし物)を見つけたらどうしますか?
「警察に届け出る」とか「駅員などに渡す」というのが思いつくことでしょうか.
では,どうしてそんなことをするのですか?
「そんなの当たり前じゃないか.昔から落とし物は警察に届けましょうって教えられてるだろ?」って思われるかもしれませんけど,この思考パターンも疑ってかかる必要があります.

日本では落とし物を拾った人は,それを届け出なければ犯罪(遺失物横領罪)になります.
「落とし物が戻ってくる国,日本」を自慢したい人にとっては残念ですが,実は日本では落とし物は警察に届け出なければならない法律があります.自慢するもなにも,国民の義務なんです.
遺失物法(日本国)
しかも日本は結構厳しい法律でして,「拾得者は、速やかに、拾得をした物件を遺失者に返還し、又は警察署長に提出しなければならない。」となっています.
しかも,きちんと警察が捜査してきます.
つまり,日本では「落とし物を届ける」のはマナーなどではなくて,ルールなんですね.

そしてこれは,世界の常識的な考え方ではありません.

実は,落とし物の扱いって国によって違うものでして,こうした遺失物の管理や取り扱いが面倒なことになることを避けて「受け取らない」というシステムを採用し,法律やその運営方法も「拾った人に一任」しており,その代わりに「保険」で対応するようです.
遺失物に関する国際調査報告があります→■遺失物に関する法律

それによると,例えばフランスでは一応は「遺失物横領」の法律は存在するのですが,実際は採用していないのだとか.
イギリスでは,拾得物を警察に差し出さなかったからと言って罪に問われることはありません.拾ったもん勝ちです.

一方,カナダは日本と類似した状況のようです.実際,個人ブログではありますが,カナダでの落とし物は戻ってきやすいことを報告するネット記事があります.
バンクーバーでの落とし物は戻ってくるのか

アメリカでは州によって異なり,首都ワシントンでは拾得物の届け出義務は無く,ニューヨークでは厳しめです.
これもそれを裏付けるような調査があります.
世界の各都市で財布を12回落とし,何回戻ってくるかを検証した結果(海外の万国反応記)
ニューヨークでは遺失物が戻ってきやすいのですね.これがワシントンDCだと戻ってこない可能性が高い.

上記の調査では,フィンランドとインド,そしてロシア,ハンガリー,オランダも戻ってきやすい結果のようですが,これらの国も日本やカナダと同様に遺失物を返却しなきゃいけない法律があるのではないでしょうか?
私はフィンランド語はわからないのですが,ウィキペディア・フィンランド版を日本語訳と英訳して見る限り,どうやらフィンランドでも日本と同様「遺失物横領」については厳しい罰則があるようです.
だからフィンランドも遺失物が戻ってきやすいのかもしれません.
Löytö(「遺失物の拾得」wikipediaフィンランド版)

つまり,日本は「落とし物」や「忘れ物」は元の所有者に返さなければならないという思想を「採用」しており,それに基づく法律がある国に属していることが分かります.
そして,同じくそうした法律を厳密に採用している国や地域では,日本以外でも「落とし物が戻ってきやすい」のです.それだけのこと.
タネ明かしをすれば,どうってことはない話です.

それをいちいち「日本は落し物が戻ってくる素晴らしい国なんだ」と,自慢げに喜び呆けている.
恥ずかしいのでやめてほしいんですよ.

これについては,
「いや,日本人は『落とし物は元の人へ返す」を法律にするくらいマナー意識が高いと言えないか?」
などと粘る人もいるかもしれませんけど,事はそう簡単ではありません.

日本人にとっては当たり前のことでも,お国柄や伝統,歴史的経緯によっては,拾った物は拾った人の物という考え方にしておかなければ,また別のトラブルを生むという教訓を得てきた国だってあるでしょう.
ネットで調べてもたくさん出てきます.「謝礼でトラブる」とか「本当に拾ったものか疑われる」とか「犯罪に巻き込まれる可能性」とか.あと,遺失物の管理が膨大です.
それならいっそ,警察や公的機関はタッチしないと構えるのも一つの思想です.
これは人間性とか民度の話ではなく,各国の文化や事情,慣習です.優劣をつけられる話ではありません.

例えば,日本ではコンビニにポルノ雑誌が置けますが,諸外国では違法です.ポルノ雑誌の販売そのものが違法という国もあります.
日本では「ポルノ雑誌が入手しやすいことで性犯罪を防げている」という理屈を通そうとしますが,他に言わせれば「普通の本屋に置けばいいだろ」とか「目のつくところに置いておくこと自体が性犯罪だ」などと理屈を言う.
どちらが正しいとも言えません.
各国,それぞれに思想と理想,そして事情がある.それだけのこと.

さらに言えば,日本で遺失物が返ってきやすい背景には,警察や公共交通機関の人に負担をかけさせているからとも言えるのです.
届け出ても受け取ってくれない,届け出たらそれが町や国の財産になるような国で,あなたはそれでも拾得物を届け出るでしょうか?
その点,日本の警察や駅員は拾得物をきちんと管理してくれます.

遺失物の管理は非常に面倒です.維持管理費も莫大なものになるし,扱いに困る物もある.
例えば警視庁の統計では,2016年では約383万件の拾得物の届出がありますが,一方で,遺失物の届出は約100万件です.「落とし物をしちゃったんですけど,届いてないですか?」って聞いてくる人は,拾われて届いている件数の約25%しかないんですね.
そんなもののために,予算と人員とスペースを用意してくれているのが,日本の警察なんですよ.まあ,そういう法律を採用しているんだから仕方ないけど.

何度も繰り返しますが,だからって「日本人はダメ」と言っているわけじゃない.
落とし物を届け出る意識は大事です.それは否定しません.
遺失物は,元の所有者の手元に返ってくるべきだよね.っていう理想を実現するため,ネコババされにくいように「遺失物横領罪」を用意して社会を管理している,そういう国々の一つが日本なのだと思います.

それによって,日本は落とし物や忘れ物が所有者の手元に返ってきやすい国になっています.
ただしそれは,「マナー」として形作られているものではありません.
人間が「そういう行動」をするのには背景や理由があり,決して「人間性」とか「倫理・道徳性」の優劣ではないということです.

マナーというのは,そういうルールや法律を超えたところに現れるものです.

例えば,落とし物は自分のものにして良いはずのイギリス人にしても,それが持ち主にとって貴重な物だと感じれば返すようです.イギリスの大学の実験調査によると,財布に「赤ちゃんの写真」や「家族の写真」が挟んであると,返ってくる確率が高くなるとのこと.
驚きの効果!海外では赤ちゃんの写真をお財布に入れよう(日刊ニュージーライフ)
その確率,なんと88%.
拾ったら自分のものにして良いルール(法律)の国なのに,ですよ.

私は難しいことを言っているのではありません.
実は日本人の観光客はマナーが悪いのだとか,日本人は本当は落とし物を届け出ない奴が多いのだ,などと天邪鬼になりたいわけじゃない.
自分たち自身がマナーが良いということを,いちいち喧伝しなくてもいいと言っているのです.それこそマナー違反でしょう.

そしてなにより,自分たちが喜び喧伝している「マナー」とは,本当にマナーと言えるものなのかどうか,常に省みるべきだと思います.

2017年8月23日水曜日

恐怖!TOKYO GOOD MUSEUMとかいう謎のプロジェクト

「江戸しぐさ」がデタラメであることを先日の記事で取り上げましたが,その後,次から次へと芋づる式に出てきます.
今回は「TOKYO GOOD MUSEUM」という恐怖のプロジェクトについて.

これは前回の「整列乗車」の記事を書いている時に見つけました.
微妙にかっこつけたデザインのウェブサイトもあります.
TOKYO GOOD MUSEUM(Tokyo Good Manner Projects)

まだ「江戸しぐさ」みたいなものにシンパシーがあるのかもしれません.
懲りない東京人は,新たな「江戸しぐさ」を開発しているようです.

昨年の9月から始めたみたいです.
浮世への関心が低い私の目には止まっていませんでしたが,今回調べてみたら恐ろしいプロジェクトであることが判明しました.

TOKYO GOOD MUSEUMとは何か?
上記のサイトにはこうあります.
~東京をより魅力的な都市へ~
2016年9月、国際都市・東京を舞台とした新しいかたちのマナー向上プロジェクトの推進母体として、一般社団法人Tokyo Good Manners Project(略称TGMP)を設立しました。
(中略)
都市のマナー向上というと、世界の各都市で行われているような「ゴミを捨てない」、「交通規則を守ろう」といった公共マナー向上キャンペーンが思い起こされますが、本プロジェクトはこのようなマナー啓発をするものではありません。なぜなら、東京のマナーの良さは世界から認められ、評価されているからです。
この “書きぶり” からして,なんだか嫌な予感がします.
続きを読んでみましょう.
TGMPが実施した「東京のイメージ」に関する調査によると、「人のマナーが良い」と答えた外国人が全体の約7割(64.9%)に上りました。しかし、「人のマナーが良い」と答えた東京都民は3割以下(24.6%)にとどまり、マナーに対する東京都民と外国人の認識には大きなギャップがあり、都民の自己肯定意識が極めて低いということがみてとれます。
TGMPでは、東京で暮らす一人ひとりが自分たちのグッドマナーに誇りを持ち、東京を訪れる世界中の人々に文化としてのグッドマナーを楽しんでもらうために“TOKYO GOOD“というコンセプトを掲げ、さまざまなアクションを起こしていきます。
つまり,外国人からマナーが良いと言われているのだから,自信を持ちましょう.
そして,このマナーの良さを自覚しましょう,ということ.

意味がわかりません.
なぜ「自分たちが思っている以上に,自分たちはマナーが良い」からと言って,それを声高に宣言しなければいけないのか.
それこそ「マナー違反」ではないのか?

これが「経済」とか「工業力」「学力」「健康」といったものだったら分かりますよ.
測定そのものに妥当性や信頼性があり,その測定の評価にも客観的な意味があるのであれば.
でも,「マナー」という文化的で主観的な影響が大きいものの良し悪しを論じ,自覚することにどのような価値や意義があるのか.

さて,彼らは「さまざまなアクションを起こしていきます」というんだから,何をするのか気になります.
このコンセプトを具現化する施策が『TOKYO GOOD MUSEUM』です。これは、東京をかたちのない美術館に見立て、東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する活動です。
自分たちがどれだけ優れているのかを美術館に見立てて発信するのだそうです.
キモい.キモすぎる.
この発想,私にはついていけません.

実際,この取り組みに対する世間の評判を調べてみたら,やっぱり批判的でした.
「TOKYO GOOD MUSEUM」とやらの評判が散々な模様(まとめサイト)
まだまだ常識的な人がいるようなので幸いです.

でも,一体どんな人がこれを喜ぶんでしょう?
思い当たるフシはあります.
近年,外国人から「日本のこんなところが凄い」という評価をテーマとした話題の是非を目にすることがあります.いわゆる「海外の反応」というやつ.
ネット記事を配信している側も,そういう記事に仕立てた方が閲覧数を稼ぎやすいとのことです.
外国人のなかには,仕事として日本を褒めている人もいるとのこと.
国際ジャーナリストがTV番組に「日本を褒める外国人枠」の存在を暴露(ライブドアニュース2014.10.8)

件のTOKYO GOOD MUSEUMも,そうした日本人のメンタリティに乗っかってる活動かもしれません.
外国人からおだてられるだけでは飽き足らず,自分達でやってるんだから世話ない.
なんだか反吐が出る話ですね.

私はべつに「日本人のマナーが悪い」と言いたいわけではありません.
外国人から「日本人のマナーが良い」と言ってくれていることに反抗するつもりもない.ですが,こういう「マナーが良い」という評価や認識は,話半分程度に聞くか,かなり疑ってかからなければ「気持ち悪い」ことになっていきます.

TOKYO GOOD MUSEUMのウェブサイトを見ていて気になったことがあります.
上述したように,このウェブサイトを作った趣旨が「東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する」ということですから,(気味が悪いことに)そういう「作品」が並んでいます.
で,その中でもマナーに関する「作品」とやらが,
「整列乗車」
「銭湯のかけ湯」
「ゴミひとつない道」
「気配りのマスク」
「戻ってくる忘れ物」
「思いも運ぶ引越し屋」
とかなんです.
どれも「マナー」とは関係ないですね.

前回の記事では「整列乗車」を取り上げましたが,これらはいずれも「マナー」じゃなくて「ルール」や「仕事」です.
ウィキペディアの「マナー」のページでも指摘されているマナーを考える上での問題点,「マニュアル化されたマナー」を無自覚に誇ってしまっている.最もヤバイ状況です.
こんなもの喜んだって仕方ありません.
上記の「作品」にしたって,これらにはいくらでも反論の余地があります.

「整列乗車」は,前回の記事をどうぞ.
「銭湯のかけ湯」は,残念ですが “しない” 日本人だってたくさんいます.あと,水が豊富な日本だから成立していること.水不足で困っていたら,それこそかけ湯はマナー違反です.
「ゴミひとつない道」は,ボランティアや清掃業者のおかげです.日本は諸外国より道路清掃に注力しているだけで,一部の放っとかれたところはゴミだらけです.
「気配りのマスク」は気配りではなく自己満足.病気なら人前に出ないのが本当のマナーです.病気をおして仕事してますアピールでしかなく,病気でも表に出ることを要求される不寛容な国だとも言える.
「戻ってくる忘れ物」は,そこまで困窮している人が少ないのと,忘れ物でも事情によれば警察が捜査してくれるため,ネコババしてもバレる恐れが高いから.経済状態が悪くなったら,ネコババする人は増えますよ.
「思いも運ぶ引越し屋」なんて,たんなる引越し屋の営業努力じゃないか.

どれも「東京グッド・マナー」などと胸を張れるものではない.
無理矢理感が満載だし,恥ずかしいのでやめてほしいですね.

このウェブサイトを見ていて感じたのは,完全に私の推測でしかないんですけど,彼ら運営側にしても,当初はもっと「江戸しぐさ」の如くアピールできる具体例がたくさんあると思って始めたのではないでしょうか.
ところが,いざ始めてみると具体的なものが意外と思いつかないから困ってる.そんな気がするんです.
当たり前です.本当に大切なマナーとは「作品」などと呼んで具体的に示せるものではないからです.
だからこそ,こんな不気味なものは早くやめてくれ.

2017年8月22日火曜日

整列乗車はマナーではない

前回の話のついでに,電車の「整列乗車」についてです.

よく,「日本人は駅や電車内でのマナーが良い」と言います.
誰が言い出したのかわかりませんが,これデタラメですよ.
オーストラリアや中国,ヨーロッパを何カ国か回ったことのある私としては,少ない経験からではありますが,全然そんなことはないと思っています.
でも,やたらと「日本人はマナーがいい」という風聞がある.
どうしてこんなデタラメがまかり通るのかはさておき,「だって日本人は◯◯をするから」という具体的な行動について考察してみたいと思います.

例えば「日本人はマナーがいいから,電車では整列乗車する」「割り込み乗車する人は少ない」という話も,考えてみればマナーがいいこととは無関係です.
以下にその理由を述べます.

私も関西から東京にきて「整列乗車」をよく目にするし,「大阪では整列乗車する人は少ないですよ」というのを話のネタにしていました.
でも,これは東京が「整列乗車しなければならないほど混雑しているから」です.

最近,大阪在住の人から「大阪でも整列乗車が当たり前になっている」という話を聞きました.どうやら近年は整列乗車させなければならないほど混雑している駅が増えているようです.市内や,特に御堂筋線が凄いそうですね.
私が以前よく使っていた神戸の地下鉄三宮駅でも,ここは混雑するので整列乗車をしていました.

大阪人はマナーが悪いから整列乗車していないかったのではありません.
東京に比べて整列乗車する必要のある駅が少なかったから,そんな習慣がなかっただけのことです.

それほど混雑していなければ,整列乗車なんてしなくて済みます.
むしろ,整列するほうがバカバカしい.
ですから,冒頭に述べたように整列乗車は「マナー」ではありません.

もっと言えば,整列乗車しなければならない状態になっている時点で,都市計画の失敗です.
いつもの仕事先に行くのに,電車やバスで20分・30分もかけなきゃいけないような街づくりをしていることがそもそもダメ.
整列乗車している己を誇る前に,整列乗車しなきゃいけない町にした己を恥ずべきです.

事実,関東の駅・ホームでは鬱陶しいほど「整列してお待ち下さい」というアナウンスがしつこく流れ続けます.
あと,これは地方の人は驚くでしょうけど,実は東京では駅員がホームにたくさんいるし,時間帯によっては駅員とは異なる「管理係」みたいな人までもが配置されて指示を出しているんです.
つまり,大都市では乗客に整列乗車をマナーではなく「ルール」として課し,誘導する必要があるのです.
こんな状態,マナー云々する話じゃありません.整列するようにガミガミ言われているのですから,誰だって整列乗車します.

「東京の地域性」というのも怪しいですね.
東京一極集中という言葉を聞いたこともあるでしょう.東京圏への転入超過がずっと続いています.
東京へ一極集中、続く 人口転入超過、新人気エリアも(朝日新聞2017年2月)
東京は田舎者の集まりといいますよね.
転入理由は「就職」「仕事」「大学の下宿」などでが主ですから,ようするに東京近辺の公共交通機関を利用している人には,東京圏以外の人たちがたくさん含まれているのです.
つまり,整列乗車という現象は,東京圏の住民の民度や地域性の現れではありません.鉄道会社による利用者のコントロールが上手くいっているからなのです.

実際,整列乗車の発祥を紹介した,こんなネット記事もあります.
あたりまえになった整列乗車(Tokyo Good Manner Projects)
静かに列に並び、降りる人を待ってから乗車。日本では当たり前になった朝の光景だが、誰もがマナーを守る様子に海外からの観光客は驚くことも多いのだとか。その整列乗車は、いつ頃始まったのだろう。諸説あるけれど、有力なのは戦後すぐに銀座線渋谷駅で誕生したというもの。ホームに溢れた乗客を、駅員が列をつくるように一人一人説得、プラカードを体の前後に下げて呼びかけた。それから定着した整列乗車は、昭和22年に鉄道省(当時)から表彰されるほど。
ほらね.その記事を書いた人は「日本人のマナー」として誇っていますが,整列乗車はマナーじゃなくて,東京特有の交通機関の欠点により発生した混雑を解消する「ルール」なんです.
その後この町は「乗客は整列乗車させとけば大丈夫」とばかりに,これを改善することはなく,「高度経済成長」を言い訳にして,現在に至るゴミゴミした無計画な街づくりが推進されました.

それでも「指示された通りに整列して乗車するのは,日本人のマナーが良いからではないのか」と思いたい人もいるでしょう.
でも,整列乗車するのは「マナーがいい」からではありません.
その方が自分にとって得だからやっているのです.
事実,外国人の人だって整列乗車しているし,割り込み乗車している人の多くが外国人というわけでもない.
人間は,その場において「得だ」と考えられる判断をするものです.

逆に,「整列乗車をした方が得だ」と判断し,「割り込み乗車をしない」といった慣習が成立するためには,いくつか条件が必要です.
それは,「こうして待っていれば,目的地へたどり着く電車が来てくれて,私はそれに必ず乗ることができる」という見通しです.
それが破られた瞬間,この「マナーもどきの行動」は崩壊します.

さらに「整列乗車」を後押ししているのが,日本の鉄道の特徴でもある,列車がいつもホームの同じ位置にぴったり停車する,というものです.
つまり,整列している乗客の前にドアがくるように,運転士の人が毎回きちんと止めてくれるというシステムになっています.
日本の鉄道・運転士には高い運転目標が課せられており,運行時間を少しでも狂わせたり,オーバーランしたら厳しい罰則がかけられます.そう言えば,その職場環境から発生したのではないかという鉄道事故が過去にありました.
JR福知山線脱線事故(wikipedia)

これは海外の電車には珍しいシステムです.
日本以外の全ての国や地域に言えることではありませんが,海外の多くの鉄道列車は止まる位置がアバウトです.
もちろん現地の利用者は「だいたいこの辺にドアが来るはず」っていう感じで待っていますけど,確証があるわけじゃないからホーム上でバラバラに待っています.

それに対し日本では,「ドアの位置」がホーム上に明記されていて,利用者はそこでドアが開くまで立って待っていればいいという状況ですよね.
もし電車のドアが毎回どこに来るのか分からないのであれば,整列乗車を続けようと思うでしょうか? 
整列して待機していても,5mくらいズレて止まってドアが開いたら,列の前の方で待機していても皆バラバラに入ることになります.
そんな状況下で整列乗車は難しいですし,そういう環境下においては整列乗車という行動に道徳的・倫理的な価値は見いだせません.
ようするに,日本人や東京人に整列乗車の習慣があるのは,鉄道会社が「整列乗車」するよう仕立てているから.

だから整列乗車は「日本人や東京人特有のマナー」ではないのです.
これはあくまで「鉄道会社の人が用意したルール」であり,目下,それに従っていた方が誰もが得をするから,「破る」ことに意味を見いだせない行動と言えます.
むしろ,住みよい町づくりを考えると,整列乗車しなければいけないこの状況は恥ずべきだと思います.

2017年8月21日月曜日

電車の中で化粧する女性について

前回取り上げた「江戸しぐさ」を書くにあたって,ネット情報を探していた時に見つけた話題にも触れておきたいと思います.
電車のマナーについてです.

昨年から東急電鉄のマナー広告が話題になっているんだそうです.
ずっと都内の電車を使っている身ですが,私はぜんぜん気づきませんでした.
電車で女性が化粧をするのは「みっともない」? 東急電鉄のマナー広告が物議を醸す(ねとらぼ)ポスター版がこれです↓
東急電鉄より
http://ii.tokyu.co.jp/tokyusendiary/
「別に(今現在の)電車内での化粧くらい,放っといていいんじゃないの」
というのが私の意見です.
私自身,「電車内で化粧する女(男も?)」に遭遇すること自体が稀で,遭遇することはあっても迷惑も不利益もないし,心象を悪くすることもない.
たまにとんでもないブスが頑張って化粧しているのを見ることがありますが,その時に気分が悪くなるくらいで,でもそれは「電車内での化粧」に対してではなく「ブス」の存在に対してです.

「化粧するのはみっともないから」とのことですが,それを言い出したら電車内でモバイル・ゲームをやったり新聞を読んでる奴の方が劣悪に映ります.
それに,女性に対し「みっともない」という理由でマナー広告にするくらいなら,
「車内で下着が見える座り方はご遠慮ください」
「車内で口をパックリ開けて眠るのはご遠慮ください」
などと他にもいろいろ書かなきゃいけないことはたくさんある.

これについて,参考になる書籍があります.私としては賛同できることが多いので,この記事だけじゃ納得がいかなかった人はこちらをどうぞ.
パオロ・マッツァリーノ著『日本人のための怒りかた講座』


パオロ・マッツァリーノ氏が著書全体を通して指摘されているのは,「マナー違反だと思う行動」には積極的に面と向かって注意するべきで,そうしないのであれば,それは「マナー違反の行動」として扱われなくなるというものです.
言い換えれば,面と向かって注意できない行動はマナー違反ではありません.

さて,そう考えますと,電車内で化粧する女性に対して「すみませんけど,化粧するのやめてもらえませんか」と指摘している人はどれくらいいるでしょうか?
いないですね.私は見たことがない.
いないから女性たちも悠々と化粧してるんです.
しかも,「電車内での化粧」は「喫煙」とか「大声での会話」ほどの迷惑行為ではありません.
「化粧のパウダーが不潔」だとか言う人もいますが,それを言い出したら化粧済みの女性はみんな不潔になります.不潔を理由にするなら,風呂に入っていない奴とか,洗濯していないジーパンや革ジャンの方がなんぼか汚い.
「化粧中に粉が・・」などと苦しい理由を捻り出す人もいますけど,今時「白粉(オシロイ)」をパタパタさせるような大正ババアは見かけません.

実際,2007年の読売新聞調査では,電車内での化粧を不快に思う人は22.6%と少数派とのこと.
結局,ほとんどの人が「電車内での化粧には迷惑していない」のです.
だからツイッターとかフェイスブック,新聞の投書欄あたりでは「電車内での化粧がみっともない」とコメントしますが,実際の現場では「やめてくれ」と注意する人はいません.そこまでして「やめてほしい」とは思っていないんでしょ?

マナーは「その場」を円滑にする振る舞いによって成り立ち,そして継承されていくものです.
本当にやめてほしいなら,その場で注意・指摘するものです.
逆に,鉄道会社に任せているだけでは絶対にマナーとして成り立ちません.例のマナー広告にしたって,これが基で電車内の化粧が減ると思えない.
(私なりの「電車内での化粧を減らす方法」はあるんですけど,それはまた別の機会に取り上げましょう)

パオロ・マッツァリーノ氏も書籍で紹介していますが,この「電車内での化粧」は最近になって現れた現象ではありません.
それこそ大正ババアがお嬢さんだった頃から指摘されていたとのこと.「近頃の若い娘は電車の中で化粧をする」というお小言が,大正時代の新聞の投書欄にもたくさん載っているようですね.

昭和に入ってからは「電車内での化粧」を指摘する声は小さくなり,むしろ,「小型化した化粧道具を手際よく使えると女子力アップ」的な記事もあるくらい.
電車内での化粧が再び批判的になったのは90年代に入ってからとのことで,それはメディアが「電車内での化粧は見苦しい」というキャンペーンを展開したことによります.
つまり,それ以前の日本人は「女性が電車内で化粧をすること」について無頓着だったんです.

さらにパオロ・マッツァリーノ氏は「人前で化粧をするのは日本人女性くらいのもの」とか「海外では売春婦がすること」という話(そんな話があるの?)もガセであることを指摘しています.
結論から言えば,海外の女性も人前や電車で化粧をするんです.
アメリカの調査では「化粧直し程度ならする」が59%,普通に「する」は11%もいます.イギリスでは約70%の人が電車内での化粧をしているというアンケート結果が出ています.
アンケート調査「あなたは公衆の面前でメイクをしますか?」(temtalia.com)
私も何カ国か海外に行っていますが,アメリカやイギリス以外の国でも普通に化粧していますよ.
っていうか,外国人女性が日本の電車で化粧してるでしょ.

ただし,「化粧を人前でするこのはみっともない」という価値観は,日本も海外も一緒のようです.
会議中に口紅をひき始めたり,食事をしながらマスカラ塗りだす女性がいたら,私でもそりゃ注意します.それこそ丁寧に「気付かず申し訳ありませんでした.すみませんが,化粧室はあちらにございますので」って.
でも,「電車」であれば別に構わないだろうと.そういうことです.

そもそも,どうして「人前で化粧する」がみっともないのか? これがポイントです.
私見を言わせてもらいますと・・,少なくとも現代社会における女性の「化粧」というのは,人前に立つ上での身だしなみですよね.その身だしなみは建前としては「完成」された状態でなければいけない.「貴方様の前に立つために私はこういう姿になって現れているのです」というメッセージが化粧という身だしなみには込められている.
ファッションとは,総じて「自分のため」ではなく「他者のため」にするものですから.
それに対し,「化粧をしている」という状況とは,人前に立つ姿として「未完成」の状況を意味します.
つまり,人前で化粧をするというのは,人前に立つための「完成した姿」ではなく,「未完成の姿」で人前に立っていることになります.
すなわち,人前での化粧という行為には,「貴方は私の完成した姿を見せるに値しない人物です」というメッセージが込められているわけです.

では,そういうメッセージが込められた行為を電車内での女性に見せられた「貴方」は,どう思うのか? という点が「電車内での化粧論」の最大の争点です.

私はどうも思いません.別に構わない.
私は貴女の前に立つ大事な人物ではないだろうし,私としても貴女に「完成した姿」で立ってもらおうとも思わない.
所詮,大都会でたまたま目の前に立った者同士.また次どこかで会うことなどありません.

電車というのはそういう場所です.会議室やレストランとは違います.
少なくとも,私は「電車の車内」という環境をそのように捉えています.
つまり,電車とは「完成した姿」で入り,他者と対峙する空間ではない.
(だから居眠りできるし,ゲームや新聞だって読めるのだろう)
そこには「他者」がたくさんいますが,それこそ「化粧室」と同じような公共空間としての位置づけだと思われます.

そして,そういうことを多くの人々も感じているのでしょう.日本だけでなく,多くの国々の人達が同じように感じている.
だから,電車内で化粧をする女性を「みっともない」と認識すれど,叱りつけたり注意する人はいないのです.

私はどっちでもいいけど,それでも電車内での化粧が不快だと思う人はいましょう.
結論としては,電車内での化粧を何が何でもやめさせたいのであれば,携帯電話の使用や,タバコ・飲酒などと同じく,「ルール違反」とみなせるだけの説得力をもった理屈がつくれるか否かにかかってきます.
おそらく,「マナー違反」で攻めてもダメだと思います.
上述してきたように,「電車内での化粧」は,現代社会においてマナーとして成り立たないからです.


オススメ書籍


2017年8月20日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 49「江戸しぐさ」

先日,学生と2020年に予定されている「東京オリンピック」の話をしたんです.
開催地・東京の良さをアピールするにはどうすればいいのか? っていう話題だったんですけど,そもそも東京が良い所だとは思っていない私は,ちょっと上の空で話に付き合っていました.
そしたらその学生,「『江戸しぐさ』をアピールできたらいい」と言います.

「江戸しぐさ」ってなんぞ?
皆さんは知っていましたか? 私はぜんぜん聞いたことがありませんでしたので,てっきり大都市・江戸という土地柄から発生する「東京人」のような,醜いしぐさなのかなと思ったんです.
(「東京人」については,本文末のリンク先を参照のこと)

聞けば,「江戸しぐさ」とは東京・江戸に古くから伝わるエチケットとのことです.
実際,オリンピックを機に「江戸しぐさ」をアピールしよう,とかいう運動もあるのだとか.

江戸しぐさとはどういうものか.ウィキペディアにもありました.
実は結構メジャーなようですよ.
江戸しぐさ(wikipedia)

「江戸しぐさ」を紹介している団体もあります.
江戸しぐさ(NPO法人 江戸しぐさ)

ウィキペディアに掲載されている代表例を以下に転載しますね.
【傘かしげ】 雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと。
【肩引き】 道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと。
【時泥棒】 断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。
【うかつあやまり】 たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。
【七三の道】 道の、真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと。
【こぶし腰浮かせ】 乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること。
【逆らいしぐさ】 「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる。
【喫煙しぐさ】 野暮な「喫煙禁止」などと張り紙がなくとも、非喫煙者が同席する場では喫煙をしない。
【ロク】 江戸っ子の研ぎ澄まされた第六感。五感を超えたインスピレーション。江戸っ子(江戸しぐさ伝承者)はこれで関東大震災を予知したという。
江戸っ子ってやべぇな.頭が逝っちゃってるんじゃないか? と思うようなものばかりですけど,ところがどうして,「江戸しぐさ」を紹介する書籍や啓発広告,学校の教科書がたくさん出ているそうです.件の学生も「これぞ東京が誇れるもの」と思っている.

もちろん,こうした「江戸しぐさ」はデタラメであるという記事や書籍もたくさん出ています.
まあ,デタラメでしょうね.

「江戸しぐさ」は1981年に初めて新聞掲載されたとされています.
どうして江戸しぐさが現代に伝わらなかったのかというと,なんとそれら「江戸っ子」たちが幕末の江戸開城にあたり,大量虐殺されたからなのだとか.
いわゆる「江戸城無血開城」というのは全くの嘘で,実は江戸は「江戸っ子」たちの血で溢れかえっていたというのです.
南京大虐殺みたいですね.

そんな断絶された伝承が,どうして現代に突如として現れたのか?
どうやら,大量虐殺をまぬがれた江戸っ子は「隠れ江戸っ子」として各地に潜伏していたそうです.
隠れキリシタンみたいですね.
そして,そんな隠れ江戸っ子がつくる秘密結社「江戸講」の子孫であるという小林和雄が,戦後日本のエチケットの荒廃を憂い,門外不出の秘技である「江戸しぐさ」を弟子に明かしたのが始まりなのだそうです.
どうして社会を円滑にまわすべく存在するはずのエチケットが「門外不出の秘技」になっているのかは不明ですが,これにより「江戸しぐさ」は,現代において「商標権(登録番号 第5274382号)」も得て日の目を見ることになったのです.

・・・うん,僕はついていけないッスよ.
この時点でお察しすべきことかと.

そうじゃなくても,上で紹介したものはどれもエチケットとしておかしい.

例えば【傘かしげ】とか【肩引き】なんかは,「普通そうするだろ」ってものでしょ? 何がどうエチケットなのか,まるで理解できない.
むしろこれらはエチケットとして落第点ではないでしょうか.私なら「自分は立ち止まり,『どうぞお先に』と言って相手を先に通しましょう」と教えます.江戸っ子にはそんな心の余裕はないらしい.
さすが江戸っ子,短気ですね.

次に【こぶし腰浮かせ】ですが,江戸で【こぶし腰浮かせ】をする機会はあるんでしょうか.
「乗合船などで・・・」と説明されていますけど,乗合船であれば「こぶし腰浮かせ」することもなく,船頭さんが「もっと詰めて」って言うでしょ.皆が乗らなきゃ出発できないんだし.船で立ち乗りなんてないんですから.立ち乗りしてたらシュールです.
この場合,船頭さんのためを思うのがエチケットってものです.私なら「乗船人数に合わせてバランス良く位置取りしましょう」っていう配慮を普及させます.
けど江戸っ子は「俺はここに座るんだ」と思ったらどうしてもそこに座りたいらしい.
さすが江戸っ子.頑固ですね.
でも,こんな客は船頭さんにとっては迷惑です.
特に渡し舟のような小舟であれば,ただもん席を詰めればいいわけじゃない.大きくて重い積荷や,時には馬も一緒に運ぶんです.電車やバスとは違います.
京都名所内淀川(歌川広重)
小型ボートを漕いだことがある人は分かると思いますけど,乗る人に適当に座られるとバランスが悪くなって漕ぎにくいし転覆の恐れがあります.
これは「座りたい」「座らせてあげる」という話ではなく,船頭さんの指示に従うべき事案です.
だから船頭さんに指示されるより先に,これから乗り込む人たちを見渡しておいて,体重や積荷などを推定して乗り込む位置取りを考えておくんです.あとになって「すみませんけど,そこの貴方,あっちに移ってくれませんか」などと言われること少なくするために.
っていうか,そもそも一般的な渡し舟に腰を浮かせるような「席」ってないよね.
東海道五十三次・見附宿(歌川広重)

【喫煙しぐさ】は絶対デタラメです.喫煙マナーについてゴチャゴチャ書いたことがある私が言うんだから間違いない(たぶん).
日本でタバコのマナーが取り沙汰されるようになったのは明治以降の話で,江戸時代においてタバコは極めてポピュラーな嗜好品だったことが知られています.
現代において人前でコーヒー飲んだりニンニク料理を食べてはいけない,なんてエチケットが無いのと同様,江戸時代は人前でタバコを吸うのは普通でした.
「火事と喧嘩は江戸の華」と言いますけど,江戸の火災原因として「タバコの不始末」はバカにならなかったんです.しかも,「よく売れるから」ってんで,米を作らずタバコを作る農家が後を絶たないため,防火と飢饉対策のため,徳川幕府は何度も禁煙令を出しています.
けど,さすがタバコの依存性は強かったようで,幕府が出した禁煙令が守られることはなく,むしろ高度な喫煙文化が花開いてしまい,江戸では老若男女がそこかしこでタバコを吸っていました.
さすが江戸っ子.無法者ですね.
詳細はこちら■日本の喫煙・江戸時代(wikipedia)
さらに,これはウィキペディアに掲載されているものですが,江戸時代の茶店や料理屋では,現代でいう「お冷(水)」を出すがごとく,来店客には「タバコセット(煙草盆)」を出すのが普通だったようです.
おせん茶屋(鈴木春信)

【時泥棒】に至っては,不可解極まるエチケットです.
どうやって江戸時代に「時間」を知れたのか?
「断りなく相手を訪問してはいけない」って,どういうこと? あらかじめアポでもとる気でしょうか?電話かメールでもするのかな?
それともあらかじめ訪問してアポとるのかな? でも,断りなく訪問しちゃだめなんですよね.
これじゃ八方塞がりです.
あ,もしかして大声かも.屋根に登って「おーい! 俺は明日の馬の刻に行くぞぉ〜!」って.
さすが江戸っ子.細けぇことは気にしないんですね.

【ロク】は意味不明です.超能力かな?
あ,そうか.時泥棒にならないように,テレパシーで訪問先とアポをとっていたのかもしれない.超能力で「刻」を見ていた可能性だってある.
さすが江戸っ子.ニュータイプだったんですね.

ところで,こんな疑問や批判を言おうものなら,「それは【逆らいしぐさ】だ」とか言われるんでしょうか.
年上の人が「かつて,江戸しぐさっていうのがあったの! 間違いないの!」って言ってたら,「はい,そうです」と返事をして逆らうなと.
なぜなら「年長者からの配慮ある言葉に従うことが,人間の成長にもつながるから」です.
さすが江戸っ子.意地っ張りですね.
でも・・・,(あ,「でも」って言っちゃダメなんだ)
いや,でもね,いくらなんでも「江戸しぐさ」は嘘っぱちですよ.
とてもじゃないけど,江戸しぐさを広めることが「配慮ある言葉」とは思えない.
デタラメですから.
しかも,そもそもの話として,エチケットになっていないし.
道徳的に考えて,捏造された歴史的背景を基にマナー啓蒙をしても,それは本当の意味で社会のためにはなりません.
たとえば第二次世界大戦を取り上げ,「戦争は恐ろしい」とか,「日本軍に愚行があった」というのは事実として扱ってもいいでしょう.でも,それを伝えるため「南京大虐殺」をでっちあげて良いことにはならない.これと一緒です.

なお,上記の例で唯一おもしろいのは,【うかつあやまり】です.
これ,たまに私もやります.たしかにその場の空気を和らげるためには効果的ですからね.
けど,これをやると図に乗って反省しない奴もいるから,そこは注意が必要です.
我々教員がよく使うのは,授業中に居眠りしてる学生を起こして,「眠たい授業をやってるこちらも悪いんだろうけどね」などと言ってあげるパターンです.
居眠りしてしまったことを悪いことだと思っている学生には効果的ですが,そう思ってない学生にとっては甘やかしでしかありません.
どっちかというと,「しぐさ」じゃなくて「ギャグ」みたいなものですかね.まじめな顔してこれを使ったら,逆に気色悪い人に映ります.
想像してみてください.ヤクザみたいな人の足を踏んじゃったとして,その人が「いやいや,踏まれた私が悪かったんですよ」とか言ってニコッと笑ったら,間違いなく殺されるフラグですから.

話を最初に戻しますと,東京オリンピックで江戸しぐさを広める必要はないってことです.
むしろ,「東京しぐさ」を早く是正したほうがいいのではないか.
そんなふうに思っています.


「東京しぐさ」はこちら↓
じゃあ,どれが一番いいのか?
俗物が俗物らしくしちゃダメ
じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
東京人と中国人はよく似ている
「日本人」という居直り
やっぱり東京を諦める
築地市場土壌汚染問題今更何故報道

2017年8月19日土曜日

お盆休み:実家の様子

2017年お盆休みのご報告.次は実家についてお話しします.

実家に帰ってきますと,父が老後の楽しみとして建築している「あたご」という小屋があります.
何かあった場合の避難小屋としての機能も持たせるつもりのようで,かれこれ5年以上にわたって増改築しているものです.
父はこの地域の消防団に青年時代から長年勤めており,「あたご」という小屋の名前も,防火・防災のご利益があるとされる「愛宕神社」からとっています.
消防団の経験を活かし,この小屋の設計は「柱を強くし,屋根を軽くする」ことと,「一部は壊れることを前提とし,その修繕が容易」であることを重視しています.特に基礎と柱についてはかなりの強度があります.

そういえば,父は消防団で特に悪さをせず,高齢を理由に退役しましたので,国からその長年の功績を認めてもらい,陛下より「瑞宝章」という勲章をもらっています.
いわゆる「国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」という理由です.
瑞宝章(wikipedia)

この「あたご」は,私も盆正月に帰るたびに人手が必要な作業をいろいろとやってきました.
昔は以下のように,壁がついていなかったのですけど(画像右端が小屋です).

これに板を貼り付けたのが2年前の冬.
板が新しいのできれいですね.



今年の正月には,さらに戸を付けて居住可能にしました.


現在の内装はこんな感じ.


ベッド,マッサージチェア,ラジオ,それに冷蔵庫もついています.
鹿の角とか尾長鳥の羽,ひょうたんなどが飾られており,完全に「男の隠れ家」へと進化しておりました.

あと,壁に使っているのは杉板なのですが,スギ材はとても軽い上に断熱と湿度調整能に優れているので,中はこの季節でも意外と快適です.軽さとか耐久性を得ようと化学素材を使うよりも,廃材みたいな杉板の方が居住性は高まります.

今年,高知県を襲った豪雨の際には,「安全な場所に避難してくれ」という自治体からの指示を受けて,ここに避難したそうです.
自治体も認める安全地帯.しっかり「避難小屋」としての機能も果たしています.
神棚も標準装備されているので安心です.

ちなみに,この「あたご」は電気や水道が止まっても大丈夫なようになっています.
小屋の脇には山から水を引いておりまして,この水は飲むことが可能です.
もともと超ド田舎の農村なので水やエネルギー,食料の心配はないのですけど,あらかじめ準備しておけば,その時に楽ですから.むしろアウトドアのような非日常を楽しめるかもしれない.


ところで,「あたご」の各パーツや飾ってあるガラクタみたいのものですが,いずれも購入したものではありません.父が人づてに譲り受けてきたものがほとんどです.

今は双眼鏡にはまっているそうです.
三脚に双眼鏡を設置して,山や星を見るのが楽しみとのこと.

で,最近こんなものを手に入れていました.
バカでかい双眼鏡です.
ラベルを見たら,「ニコン 12cm 双眼望遠鏡Ⅱ型」とありました.
今では「ニコン 120mm双眼望遠鏡Ⅲ型(1983年)」という新モデルとして販売されている,ニコン製の双眼鏡です.
現行モデルであるⅢ型のお値段は約50万円ですから,かつてはⅡ型も高価だったことでしょう.

どこから譲り受けてきたのかというと,知り合いの漁師の人から「もう使わないから」ということで,もらったそうです.この双眼鏡は船舶用の装備品だったそうですよ.
ラベルにはご丁寧にも「15kg」と表記されています.重すぎて手で持って見ることは困難で,何かの台に設置しなければなりません.
目下,可動式の設置台づくりを検討しているとのこと.知り合いの鉄工所の人に相談するそうです.

ちなみに,双眼鏡の見心地ですが,同じ倍率の双眼鏡と比べてみました.
接眼レンズからiPhoneのカメラを覗かせ,撮影.

比べて見る先はこちらの山です.


まずは,上の写真の左端に見えている,安い双眼鏡で見たのがこちら.
ちょっと白く濁っているし,全体的に歪んで見えているのが分かるかと思います.
実際に覗いていると,見ていて目が疲れるというか,目の奥が痛くなってくるんです.

一方,双眼望遠鏡Ⅱ型を覗いてみたのがこちらの視野.
ぜんぜん違う! 極めて明瞭で歪みもない.凄いレンズです.
しかも,iPhoneで撮影しても分かるように,視界(見える範囲)がとても広い.覗いていても違和感がないし,目が疲れません.

ちなみに,上の写真で目標物とした枯松には,ノスリ(小鷹)が毎年巣を作っているとのこと.父はそれを眺めるのが楽しみなのだそうです.
ノスリ(wikipedia)
画像:wikipedia「ノスリ」より
ところで,今回のお盆休みを機会として,父が「この際に兄弟2人に教えておくことがある」ということで山に入りました.
なんでも,うちの山には山桜の巨木があるとのこと.父が子供の頃から認識していたそうですが,今まで無事に育ってきたそうです.
深い山の中でひっそりと立っている桜なので,誰も見ることはありませんし,そもそも知られていない.父が知っているくらいのものです.
桜の季節に入ったら,きっと神秘的な情景になっていることでしょう.


曰く,「あと何十年かしたら倒木する可能性がある」とのこと.
山桜はソメイヨシノと違って寿命が長いので,私達の代では死なないかもしれません.もし私達の代で倒れなければ,その後の代のために知らせておく必要があります.

いえ,これは「子孫への言い伝え」といった仰々しい話ではありません.
ようするに,倒木した時に,それを知らず放っといて腐らせたら100万円くらい損をするので,定期的に見に来ておけば儲けられるよ,っていう話です.これだけ大きな桜の木になると,材木として良い値段で取引されています.

現時点でバッサリ切るのはもったいないし,現状,お金に困っているわけじゃないから残しておいて,もっと大木になってから売ろうということ.
それが10年後になるか100年後になるか知りませんが,こういう希少な桜の木があることは知っておいて損はないですから.
私としては,売らずに我が家のテーブルにでもしたらいいのではないかと思います.

2017年8月18日金曜日

お盆休み:道の駅の様子

今年は短めのお盆休みをとってきました.
地元の「道の駅」でオススメできるところをご紹介したいと思います.

帰省には飛行機を使ったんですけど,空港からは弟の車と合流して自宅まで向かいます.
その途中,四万十町(旧・窪川)のインター前に「道の駅・あぐり窪川」っていうのがあります.
2017年現在,高知自動車道の西部最終地点であることと,この「あぐり窪川」では名物「米豚」の料理が食べられるとあって,かなり混雑します.
グーグルストリートビューより
米豚を使った「豚丼」は,名物と言われるだけあって美味しいです.この近辺に来られた際は,ぜひご賞味ください.
ただ,これは四万十町のためを思って言うことですが,やや味付けが濃ゆい(甘すぎる)のが気になります.米豚は飼料にしている米の香りが強く,さっぱりしていながらコクのある味わいを持っていますので,薄味でも十分美味しいはずなんです.塩コショウだけでもいけるのが米豚です.

ずっと「豚まん」も名物だったのですが,最近はどうなのでしょうか.
もし見つけたらそちらもどうぞ.


この近辺に来ていて,お腹に余裕があるのであれば,「道の駅・なぶら土佐佐賀」のカツオのたたきをお勧めします.
観光に来ている人が入りやすい場所で,それでいて地元民である我々も納得の「カツオのたたき」を出しています.ここは押さえておいて損はありません.
ちなみに,今年初めて「道の駅・あぐり窪川」でカツオのたたきを食してみましたが,ちょっと残念な味でした.カツオのたたきは当たり外れが激しいですね.

ちゃんとしたカツオのたたきを食べるなら「なぶら土佐佐賀」に行きましょう.
で,この季節ですし,家族そろってカツオのたたきを食べに行ったんです.
道の駅・なぶら土佐佐賀(なぶら土佐佐賀HP)

「なぶら土佐佐賀」の写真をグーグルストリートビューから引っ張ってこようと思ったら,まだ建築中でした.
グーグルストリートビューより
なので,黒潮町HPから写真を引用しておきます.こんなところです.
黒潮町HPより
さて,その「カツオのたたき」
カツオのたたきと言えばこれだと思っていたのですが↓
なぶら土佐佐賀HPより
最近は定番の「タレ」ではなくて,「塩」で食べるのが若い人に多いとのこと.
なぶら土佐佐賀HPより
「塩は柚子と一緒に」ということで,柚子汁がついてくるそうですが.

別にケチつけたいわけじゃないんですけど,私は塩で食べることが好きではありません.どうして美味しいタレが用意されてあるのに,なんでわざわざ塩で食べなきゃならないのか.小一時間問い詰めたい.

ここで地元民私なりの食べ方をご紹介します.
むしろ,どうしてこの食べ方がスタンダードになっていないのか不思議でなりません.

まず,注文するにしても,ちょっと高いですがこちらを注文しましょう.
「タレ&塩」です.
なぶら土佐佐賀HPより
なにも私は「なぶら土佐佐賀」から宣伝を頼まれているわけではありません.
悪いことは言いませんから,手元に「ポン酢ダレ」と「柚子汁」が来るようにするのです.
そして,ポン酢ダレと柚子汁の両方を混ぜてかけましょう.
カツオのたたきは柚子ポン酢で食べるのが,ご当地・高知県幡多郡の常識です.

あ,そうそう.
タレはカツオの身にかけてください.刺し身のように一枚ずつ付けて食べるものではありません.
タマネギやダイコンにたっぷり柚子ポン酢を染み込ませ,ニンニクやネギと一緒にこれをカツオの身に乗せて食べます.そうすることで効率よくタレを味わうことができるのです.

ちなみに,今年からお目見えしたのが「ポン酢マヨネーズ」のタレです.
これはかねてより,特に地元の漁師が好んで食べていた味付けです.地元でも最もポピュラーなのがポン酢マヨネーズなのです.
これを知っていると黒潮町マニアの認定を受けられます.

ただ,この味付けは素人にはオススメできません.
メニューの一つにあるからってんで,観光客が安易に手を出してはいけない.
ポン酢マヨネーズとは,日々,カツオのたたきを食べに食べ,飽きてきた人がようやく手を出す味付けです.

ちょうど,キャバクラや風俗で遊び尽くした男が,そこから幼女や熟女の趣味に走るようなものですね.
いきなりそっちに走っていたら,コイツ大丈夫かよって思われるでしょ.それと一緒.
なお,私は幼女も熟女も御免こうむりたいですし,ポン酢マヨネーズも嫌いです.

2017年8月9日水曜日

学校教育対談(4回目)

和田先生とお酒を酌み交わしながらの対談を,今夏も開催しました.
早いもので,これで4回目となります.
※過去の様子はこちら
学校教育対談(2回目)
学校教育対談(3回目)

この懇親会ですが,回を追うごとに参加人数が増えていきます.
現場で働いている先生方が参加してくれているのが良いですね.
今回新規参加してくれた人は,なんと私が勤務している大学の卒業生です.
比較的大きな大学ですし学部が違っていたので,在学中には私との接点がなかったのですが,意外なところに関係者が現れるものです.世間は狭い.

和田先生は,現場で働いている教師の皆さんに自身の経験を役立ててほしいとの願いを込めて書籍も出版されています.

『実録 高校生事件ファイル』
『すばらしきかな、教師人生 先生が元気になる本』
 

現場の先生方にこそ聞いてほしい言葉が,たくさん散りばめられた書籍.オススメです.
高校で発生する事件・トラブルに,現場の教師がどのように向き合えばよいか理解が進みます.

今回の懇親会の参加者で読者の一人が言うには,「学者の理想論やスーパー教師の成功体験自慢は役に立たない.僕達が直面しているのは,もっと地味で泥臭いこと.いろいろなトラブルや事件の事例集が欲しかったから手にしたんです」とのこと.

和田先生はこうした情報を役立ててもらうため,ホームページを作ってそれを相談窓口にされています.
そのホームページはこちら↓
先生が元気になる部屋(和田慎市ホームページ)
これまでにも,全国各地の学校や教育関連研修などでたくさん講演をされています.

私も本当なら和田先生をお呼びして教師志望者に向けた講演会を開きたいのですが,いかんせん立場が・・・.
もう少し偉くなってからにしましょう.

さて,今回の懇談会の様子ですが,私以上に同席してくれた東京都の先生方が和田先生にいろいろと聞きたいことがあったようで,それで話が弾みました.
この先生方も「若手」ながら熱意と行動力がある人達ですから,上からどんどん仕事を任されるようになっており,教育現場を仕切っていく立場になることで,新たに和田先生にたくさん相談があったそうです.

いずれの先生も,いわゆる “教育困難校” を「任される」ようになってしまった教師です.
実はある側面において,公立の「教育困難校」に配属される教師は「指導力不足教員」や「不祥事を起こした教員」がまわされるという見解があります.
教育するのが困難な高校なのですから,そりゃ誰も好んで行くことを希望しませんから.
しかし,教育困難校なのですから,問題を起こしやすい生徒が集まっているわけで.そこに指導力不足教員ばかりが集まってしまうと,更なる大問題を起こしかねません.なので,教育困難校の生徒を相手にできる資質と能力のある教師もまわされることになるのです.
彼らはこれまでに,そんな教育困難校での「実績」ができてしまっていて,コイツらならなんとかしてくれる,と思われているらしい.

今回も,いろいろ興味深い話を聞きました.
私の後輩でもある教師は,学園祭に向けた準備を何もしないクラスと生徒に対し,「何もしない」という指導をしたそうです.
それって指導じゃないのでは? と思われるかもしれませんが,それこそが「普通の学校」で子供時代を過ごした人の発想です.

学園祭や運動会などが典型ですが,近年の教師はそういうイベントにおいて,
「生徒がやらないこと・できないことを教師が先にやってしまう」
という傾向にあるそうです.
なぜかというと,このようなイベントではクラスやグループが「一致団結して上手くいく」というストーリーが予め要求されており,そうならなかったクラスやグループがあると,そこを担当した教師の力量がなかったと見做されるからです.
しかも,そうしたイベントを「成功裏に済ます」ことに教育的効果があると考えています.
つまり,教師側にはクラスやグループが「無様な状況」になることを,「自分自身の評価」のためにも避けたい心理が働いているのです.

ところが,彼はそうは思わなかった.学園祭とは,生徒が自分たちで催し物を企画し,自分たちで準備を進めることができるよう教育する「機会」「場」であると考えます.
そりゃ普通の高校であれば,「何をやりたいですか?」とクラスに問えば,あれやこれやと意見が出て,「じゃあそのためにはどうしますか?」と聞けば,あーだこーだと準備すべきことが決まっていきます.
これは,あたかも教師が提案しているように見えますが,実は生徒側からのアクションを引き出しているから成り立っているわけです.
ところが,教育困難校で同じアプローチをしても,そうはならない.
「先生ぇ・・,ウチら,かったりぃから」とだけ言って,何もしようとしない.
学園祭では各クラス何か催し物をするものだ.という前提条件は共有されているものの,「どうせ先生が用意してくれるんだろ?」という甘えがそこにはあります.

いよいよ学園祭間近となった時期にも,どうやらウチの子が所属するクラスでは何もしないつもりでいるらしい.ということが保護者にも伝わります.
で,クレームが舞い込みます.なぜウチの子のクラスは何もしないのか? それでも学校か,教育なのか.担任を出せ!

「生徒がやりたくないと言っているのでね」
そうやって,頑として突っぱねるメンタルが彼にはありました.あと,管理職にも.
彼がやることだから,まぁ,なんとかなるんじゃないのっていう.

「やばい,ホントにあと少しで学園祭じゃん!」
という状況になって,そのクラスの生徒達は学園祭の企画立案と準備に一生懸命取り組んだそうです.
もちろん付け焼き刃のような催し物になってしまうし,学園ドラマのように「最後に一致団結して,怒涛の準備で結果的に上手くいった」なんてことにはならない.
しかし,ここで生徒たちが学んだことが大事なのです.
すなわち,「自分たちが協力して主体的に動かないと,マジで本当に状況は動かない」.
その後,このクラスの雰囲気は落ち着いて,生徒同士が協力的になったとのこと.

さらに言えば,彼はこのクラスの生徒が「掃除の時間」に何もしないからって,教師自らが教室を掃除することはしなかったそうです.
結果,年度の途中までに恐ろしく汚い教室になったとのこと.
ところが,やっぱりそのうち「自分たちでやらないと,マジで本当に掃除されない」ということに気がついた生徒たちは,きちんと掃除するようになります.むしろ,学内で最もきれいに掃除するクラスになったそうですよ.
しかも,問題になりそうなのでブログでは書けませんが,彼は「或ること」をしてワザと教室を汚くしたそうなんです.さすがにそれはヤバイだろ,という手法を使って.
でも,結局それが生徒のための「教育」になったのなら,それでいいじゃないか.そういうことです.

こうした教育困難校に勤めている先生方が口を揃えて言うのは,
「学力がどうであれ,一端の社会人として通用する人間になるための勉強をしているのが高校だと思う」
ということです.
学力が高い生徒は,その特徴を活かした将来を考えればいいのだし,学力が低い生徒だからといって,高校に通う価値がないわけではない.勉強ができない者なりに,この社会における役割を探すための研鑽を「高校」という場で積めばいいのです.

日本全体を俯瞰してみれば,「最近の若者」が総じて学力優秀で犯罪に手を染めることが少ないのも,こうした先生方が「教育困難校」において努力されていることの結果とも考えられます.
極端な例かもしれませんが,かつてなら中学卒業後に犯罪者予備軍として社会に出ていた者が,「学力向上」にはつながらなくとも高校生活を送ることによって,「学力」で測られるものとは別の,まっとうな社会人としてのスキルを身につけている可能性があります.

それと同じことが,これからの大学教育にも求められるのかもしれない.
「多過ぎる大学」「全入時代」が叫ばれ,いずれは「大学の高校化」が危惧されている今日.
研究者を養成するだけが大学ではないと言われる一方,優れたビジネスマンを輩出することも大学の機能ではありません.
普遍的な表現をとれば,「アカデミックな考え方や視点を持った人間を育てる」ということになるのですが.
これについての醜い妥協をせず,方向性も間違わないならば,やりようによっては「大学の高校化」も悪くないのではないか.そんなことを考えさせられました.

2017年8月7日月曜日

続・子供の「自殺」について落ち着いて考えよう

前回の続きです.
子供の「自殺」について落ち着いて考えよう

前回記事によると,やっぱり子供の自殺の原因の多くは「学校問題」でした.
では,「学校」でできることは何なのか? それについて今回は考えてみます.

警察庁の統計によれば,「学校問題」の中でも原因として圧倒的に多いのが「進路の悩み」,次いで「家庭問題」や「健康問題」です.
ここをなんとかしないといけない.そう思う教育者の一人でもある私ですが,進路の悩みに対する世間の目は意外と冷たくってですね,ネットやメディアを中心に関心が高いのは「いじめ」なんです.
でも,「いじめ」による自殺は年間数件ほどで,毎年550件発生している子供の自殺のごく僅かでしかない.

そうした事実に対し,こんな声があります.
「自殺の原因は,判明しているデータの裏で『不明』として片付けられているものがたくさんある.そこには「いじめ」で自殺した子供がたくさん含まれているのではないか」
というもの.

たしかに発表されている自殺の原因は,当たり前ですがその原因が判明しているもののみです.
例えば2017年発表データでは,以下のようになります.
警察庁「原因・動機別自殺者数」(2017)
現在では,約25%の人が原因・動機が不明として計上されています.

経年推移を見てみます.
以下のグラフでは,自殺の原因や動機不明のものが最上段の部分です.
警察庁「自殺の原因の割合」(2017)
子供(未成年)の自殺に絞った原因・動機の不特定者の割合は,年齢が下がるにつれて大きくなります.子供の場合,警察としても自殺原因を特定できないことが多いのですね.
特に,中学生以下の自殺が「不明であることが多い」とされるので,勢い,「そのほとんどが『いじめ』ではないか」と言われるのです.
「自殺原因・動機に関する判断資料なしの比率」内閣府(2015)
未成年の自殺者は約550人前後で推移しているのですから,その内訳からして全体では約150〜200人くらいが原因不明ということになります.

なお,「いじめによって自殺した子供が多いのではないか」と言われることの多い,原因・動機の不特定者の比率が大きい中学生以下(15歳以下)の自殺数は,年によって大きな変化はなく,だいたい80名ほどです.つまり,中学生以下については,毎年約30名くらいが原因不明の自殺ということになります.

参考に,前回ご紹介した「学校問題」における内訳をお示ししておきます.
ちなみに,中学生の「学業不振や進路の悩み」による自殺者数も,例年20〜30件あります.
「動機・原因不明の自殺の全てを,いじめを苦にした自殺ということにしよう」という極端な想定をして,ようやく「学業や進路の悩み」の自殺者と並ぶのです.

いえ,そんな話をしたいのではない.私が言いたいのは,いじめによる自殺も,進路の悩みによる自殺も,同等に「学校問題における自殺」として問題視すべきだろうということです.
しかも,進路の悩みは警察が発表する統計上圧倒的に多数です.

いじめ問題を軽く扱っても良いと言ってるわけじゃありません.
これを交通事故対策に例えれば,死亡事故の比率で「自動車事故」が圧倒的多数にも関わらず,バイクや自転車の対策に労力を注ぐようなもの.
不幸な事故を減らすために,まずは自動車の安全対策を進めることが先決であるのと同様,子供の自殺については学業や進路の悩みについて取り上げることが大事だろうということです.
(もっとも,これについては日本人の多くが「勉強できない子供は生きる資格がない」と考えているフシもありますから,あまり共感されないかもしれません)

そもそも,「学校問題」を長期的にみたらどういう状況なのでしょうか?
まずはグラフをご覧ください.1978年〜2016年までの傾向です.
「学校問題での自殺者数」警察庁データ(2007年および2017年)から作成
「学校問題」なのですから,そのほとんどが「22歳以下」であると考えられます.
統計によると,学校問題による自殺者は徐々に減少していることが分かりますね.1978年には350人以上だったのが,現在は約150人ほどです.半減しています.

実は,図中にも示しているように,2007年から「自殺の動機・原因の集計方法」が変更されています.
前回もお話しましたが,大事なことなのでもう一度確認しておきます.

集計している警察庁では,自殺の原因を6つに分類しています.
1)家庭問題:親子・夫婦・親類との不仲や,介護疲れなど
2)健康問題:不治の病や身体障害,うつ病や精神疾患など
3)経済・生活問題:事業不振や就職失敗,借金など
4)勤務問題:仕事の失敗,職場の人間関係,仕事疲れなど
5)男女問題:結婚をめぐるトラブル,失恋,不倫など
6)学校問題:進路や学業不振,いじめなど
これらのうち,遺書等の自殺を裏付ける資料により明らかに推定できる原因・動機を自殺者一人につき3つまで計上したものを集計しているのです.ですから,一人の自殺者で複数件該当する場合もあります.
例えば,「経済的に困窮し,しかも身体に障害があってお先真っ暗だ・・・」という遺書が残っていれば,2番と3番にポイントがつくんです.

一方,2006年までは「遺書」に書かれてあったことから代表的な動機を1つ選んで集計していました.また,遺書がなければ「遺書なし」ということで集計していました.なので,2006年までは遺書がなければ動機や原因が不明ということになっていたんです.
でも,自殺者の周囲の人々への聞き込みや,あからさまな「遺書」がなくても自殺原因は特定できます.さらに,自殺原因が特定の1つであるなんてことは考えにくいので,2007年以降は複数の原因を考慮するようになったとのことです.

その上でもう一度グラフを見ても,「学校問題」は2007年以降増加せず,むしろ減っているくらいです.
逆に,「家庭問題」は2007年以降に増加しています.
「家庭問題での自殺者数」警察庁データ(2007年および2017年)から作成
ということは,生活に困窮しているとか,学校での成績が悪いなどといった理由にプラスして,家庭での不和が自殺の要因の一つとしてカウントされやすくなっていることが分かります.

話を戻します.
「学校問題」での自殺者の推移を見る限り減少していることが読み取れますが,では,そもそも未成年の自殺者数の全体像についても気になってきます.
前回記事では2007年以降の自殺者数しか検討しませんでしたが,ここで昭和からの自殺者数を見てみましょう.

警察もこの70年間で集計の仕方がちょっとずつ変わっていますが,まずは1947年からの統計データです.
以下は,5歳〜14歳の自殺者数.小学生から中学生に相当する年代です.
厚生労働省報告書(2016年)を元に作成
人数が少ないことと,年によって幅があるもの,この約70年間で大きな変化はないことが分かります.

次に,15歳〜24歳の自殺者数.高校生から大学生に相当する年代です.
厚生労働省報告書(2016年)を元に作成
1950年〜1960年あたりの約10年間が凄いですね.
そう言えば,これと似たグラフを以前作ったことがあります.
子供の自殺についてより
1950年〜1960年くらいの日本では,そこで青少年が生きるためには「犯罪を犯す」か,でなければ「自殺する」かの状態だったことが推察されます.
子供(若者)の犯罪や自殺は社会の不安定さと強く関係することが分かる統計です.
実際,近年では1998年の不況突入から再度増加する点もピッタリと符合します.

最後に,1978年から集計されている19歳以下の自殺者数データです.
厚生労働省報告書(2016年)を元に作成
1980年から急激に減少し,その後は年によって幅があるものの,今日まで減少傾向にあります.

ちなみに,この間の統計データを「学生・生徒」というカテゴリで示された厚生労働省のデータがあります.
厚生労働省報告書(2016年)より
1998年で一度大きく増えて,その後2011年まで徐々に増加し,以後は減少傾向にあるとされていますが,こうした増減は「学生・生徒」の中でも自殺者数の割合が大きい「大学生」の動きに引っ張られているであろうことが推察されます.
その割合を示したグラフはこちら.
ほらね,やっぱり.


つまり,「学生・生徒等の自殺」というのは,概ね大学生の自殺の動きを捉えていることになるのです.
逆に言えば,「学生・生徒等の自殺」からは小中高生の自殺を読み取ることはできません.
学生・生徒等の自殺が2007年に激減したのは,ちょうどその頃に大学新卒者の求人倍率が好転したからと見えなくもない.

もっと言えば,未成年自殺者と一括りにされるデータのほとんどが18歳〜19歳であると考えられます.
例えば,2016年における未成年自殺者は554人.そのうち小学生は9人,中学生は91人,高校生は213人(合計:313人)です.日本人の98%が高校に進学しており,そのうち90%以上が18歳で卒業するとされますので,残る40%の自殺者241人の大部分が高校卒業後の18歳〜19歳であると推定できます.

前回の記事も含めてまとめると,つまりはこういうこと.
1)小学生・中学生・高校生の合計自殺者は,未成年の自殺の中では約60%です.
2)残りの約40%のほとんどが18歳〜19歳ということになります.
3)「学生・生徒」として計上される自殺者の約50%が「20歳以上の大学生」の自殺と推察されます.
4)中学・高校生の主な自殺原因は「学業不振」と「進路の悩み」です.
5)大学生に特徴的な自殺原因は,「就職失敗」「学業不振」「進路の悩み」です.

そこから考えられるのは,最も自殺対策を講じたほうがいい教育機関とは,小学校でも中学校でもなく,私が勤めているような「大学」,そして,そこに入学しようと頑張っている生徒の多い「高校」と,浪人生を抱えた「予備校」ということになります.


以上,子供の自殺についてデータを多角的に検証してきました.
ここからようやく「自殺対策」の話になりますが,これまでの統計データを見る限り,効果的な対策は「学力競争させない」「学歴社会を緩和する」ということになります.もっと「ゆとり」をもった方がいい.
そうです.本当の意味での「ゆとり教育」こそが子供の自殺対策になります.

残念ながら自殺原因の集計は1978年からなのでそれ以前のデータが不足していますが,「学校問題」によって自殺する子供(未成年)は1980年から激減しています(前半で示した図).
では,1980年以降の教育界で何があったのでしょうか?
はい,ご案内の通り,「ゆとり教育の開始」です.この時期から教育界では学力競争が比較的弱まりました.

さらに,ここ30年ほどかけて徐々に減ってきた子供の自殺者数ですが,それと連動するように発生していたのが「大学入試倍率の低下」です.
血眼になって勉強しなくても,そこそこ納得できる大学に通えるようになったのではないでしょうか.

競争的な教育の必要性を説く威勢のいい皆さんには面白くない話かもしれませんが,過去のデータから推察する限り,子供を自殺に追い込まないようにするためには,いじめ問題に取り組むよりも「学歴社会の緩和」の方が効果的である可能性が高い.

そうしたことを考える上で,非常に参考になる知見を展開している書籍があります.
岡檀 著『生き心地の良い町』では,自殺率が極めて低い地域「徳島県 海部町」に焦点を当て,その地域社会は他と何が違っているのか分析しています.そこから,自殺が少ない集団の特徴を調べることによって「自殺予防因子」を探ろうと試みています.

岡氏によると,自殺率が低い地域に特徴的なことは,
1)コミュニティにゆるやかな紐帯がある(強い共同体意識や「絆」が弱い)
2)身内意識が弱い
3)援助希求への抵抗が小さい(恥ずかしがらずにサポートを求める)
4)他者への評価は人物本位である(肩書や学歴を気にしない)
5)政治参加に積極的
の5因子とのこと.
逆に,高い自殺率を持つ地域はこれとは逆の特徴があるそうです.

これを「子供の自殺」や大学生までの若者を含めた自殺対策として考えた場合,特に教育機関として提言できそうなことは,
1)仲間意識,クラスメイト意識をゆるやかに持つ
2)偏った人間関係を作らない
3)カウンセリングや相談窓口へのハードルを低くする
4)学歴や進路による優劣を弱める
5)主体的に社会と関わる機会を設ける
といったことが考えられます.

よく,「クラスによって運営されている日本の学校は閉塞性が高い」などと言われますが,実はそういう仲間意識やクラスメイト意識は自殺予防として重要である可能性があります.
逆に,限られた人間関係で構成される集団では自殺率が高くなるようです.おそらく,「好きな者同士」とか「離れられない者同士」で過ごすことで,考え方が凝り固まってしまうのでしょうね.
つまり,学校教育においてよく言われる「幅広い人間関係を構築する」というのは,自殺予防になる可能性が高いのです.
そうは言っても,同じクラスで1年間続けるよりも,学期ごとにクラス替えをするのは良いことかもしれません.

上記のことは,「学歴」や「進路」の評価とも関係します.
子供の自殺原因の特徴である「学業不振」と「進路の悩み」であることが物語っているように,子供が自殺しようと思うほどのこととは,どの高校や大学に進んだか?という「学歴」であり,どういう将来像を持っているか?という「進路」に関することなのです.

別に学歴や進路のことをいい加減に考えても良いと言っているのではありません.
それ以外の価値観もあるということを,子供に示してあげることが大事なのです.
どの大学に入学できたかでその後の将来が決まるというプレッシャーが,子供の自殺を促している可能性は高い.
実際,日本以上に学歴競争が激しい韓国は,日本以上の自殺大国なんです.

しかしこれは,学校や大学の当事者だけで対処できる話ではありません.
やはり教育に関する政治的配慮が求められるところです.

提案できる方向性としては,このブログでも他記事で主張している,
1)大学の格付けをやめる
2)どの大学でも同じことが学べるシステムにする
3)「学閥」を弱める
4)大学入試は足切り程度にし,卒業のハードルを高くする
といったことでしょうか.

急に変えろとは言いません.
20年30年かけて,ちょっとずつ上記のような大学の在り方にしていくべきではないかと考えています.

現在,日本では「大学が多過ぎる」と批判されています.
どうして大学が多過ぎることが問題なのでしょうか?
これを,「多くの国民が大学教育を受けられる環境が整った」と捉えれば,見方も変わります.

私は大学の偏差値が下がることに危惧も心配もありません.
偏差値が異なるいろいろな大学を見てきた結果,学生の「モノの考え方」は偏差値とは関係ないということを実感しています.
学力の高いバカはいるし,得てしてそんなバカが社会のリーダーになったりする.
社会に害をなすような奴が「高学歴」だからって重用される仕組みの方が,なんぼか問題です.

なるべく多くの人が大学教育を受けることによって,学校教育とは違う学術生を身に着けてほしいものです.
そのためには,限られた高学力者だけでなく,まんべんなく大学教育を受けてもらうことが大事だと思います.
大学教育によって適切なデータ解釈ができる人が増えれば,子供の自殺の主因が「いじめ」だと勘違いするような人は減るかもしれません.

岡氏の研究によれば,自殺予防のためには「多様性を認める」ことが大事だとされます.
世の中にはいろいろ人がいて良いんだ,ということを教育することが現在の学校や大学で求められていることです.


PS
そう言えば,「多様性を認める」というのは,私の恩師が「大学で学ぶべき最重要のこと」と述べていたことです.
大学で勉強していることは,唯一絶対の解などではなく,答えを導き出すための道なのだ,と.
多様性が認められなければ,学術的な思索はできませんから.


PPS
余談ですが,意外とバカにできないのが高校生と大学生における自殺の動機として「男女問題」が結構大きいことです.
2016年の自殺原因をみてみますと,
高校生
進路の悩み:31件
学業不振:21件
男女問題:22件

大学生
進路の悩み:50件
学業不振:67件
就職失敗:27件
男女問題:25件

中学校でも,毎年男女問題で何名か,なかでも失恋で1〜3人自殺しています.
これは「いじめ」による自殺を大きく上回る頻度です.
まじめな話,いじめ対策をするくらいなら,失恋対策もした方がいい.むしろそっちの方が自殺者数を減らすには貢献します.
いじめ対策をしている横で,その何倍もの数の学生・生徒が失恋によって自殺に追い込まれているのは,なんだかシュールですね.


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