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危ない小規模大学こそ取り組んだ方がいい「授業」

相変わらず酷い教育戦略を展開している大学ってあるもので.
そんな大学にお勤めの先生と,先程まで電話で愚痴話をしておりました.

少なくない「危ない大学」は,高校生ウケする学生募集と,学生ウケする授業科目を重視しようとするんですね.
それでいて,とても「本気」出してるようには思えない,中途半端で,ごっこ遊びのような経営戦略会議やプロジェクトチーム・ミーティングの連続.
「もはやこれまで」
と言いたくなるような現実がそこにはあります.
詳細は過去記事,■こんな大学は万事休すだ他をご覧ください.

必竟,「我々はなんのために大学で教育をしているのか?」という点が,あまりにも,尚あまりにも,あ・ま・り・に・も希薄な運営幹部が牛耳ってしまうと,彼らはどうしても「ウケ」を狙っているとしか思えないような方針を打ち出します.
いえ,それが笑える「ウケ」だったらまだいい.完全にダダ滑りなのだから目も当てられません.

そして「ウケ狙い」をこじらせた大学は,「就活やキャリア教育のための時間を割きたいから,卒業論文を撤廃しよう.いや,いきなりそれだと反発する先生がいるから,ひとまず学生にかかるストレスを減らすってことで,きちんとフォーマットを守っているかとか,発表会とか,副査制とかってのをやめよう」って言い出します.

今回は危ない大学,なかでも小規模大学にこそ取り組んでいただきたいことを提案します.私にしては珍しく,ちょっと前向きな記事です.
もうどうにもならない状態まで堕ちた大学教育界ですが,もしかすると復活の鍵は小規模・低偏差値大学の舵取りにあるのかもしれません.


(1)全ての学生に卒業論文をきちんと書かせる
いきなり当たり前のことだと思われるでしょうが,ポイントは「全ての学生に」という点です.
もしかするとご存知無い方もいらっしゃるでしょうが,難関大学でも,卒業論文は全員必修ではないところが多いものです.選択科目ということですね.
これ,意外と驚く人が多いです.
「あの “卒業論文” を書かずに卒業してる大学生がいるの?」って思われる人もいるかもしれませんが,これは本当です.まあ,大学のことって自分のところしか知らない人が多いですからね.

難関大学に入学できたような学生であれば,たとえ卒業論文を書かずに卒業しても,地頭がいいから社会人になってから自分で勉強できます.
ところがこれを,「あの◯大学も卒論は選択制なんだから,うちも選択制にしましょうよ」などと低偏差値大学がやってはいけません.

大学とは,物事を筋道立てて論じられる人物を育てるところです.そのために,卒業論文は極めて重大な存在です.卒業論文の作成がなければ,大学に来た意味は無いと言って良い.
全ての学生に等しくストレスをかけましょう.
(今の御時世,平等を謳えば,ちょっとはマシになるはずです)
まともに論文を書けるようになった学生は,書けない人より物事をまともに考えられるようになります.大学教育の意義です.

どうしてこんなことを話題にするのか,それ自体が理解できない.という人もいましょう.
実は,大学教員のなかには卒業論文を指導できない教員がいます.かなりいます.
そもそも自分が論文が書けないし,論文も読めない人がいるんです.そしてこういう教員は,いろいろ理由を捏ねくり回し,学生には「卒論はこんな感じでいい」ということで逃げ回ります.
一番酷いのは,指導もせず学生にやらせておいて,そのくせ「ここが出来ていないぞ」と怒る,ならまだいいんです.どんな文章を書いていようと「受理」してしまう教員もいることです.

大学としても,そんな教員を叱咤激励することはしません.
もっと言えば,そんな大学だと「卒業論文どころではない」という考え方が幅を利かせています.
でも,ここが踏ん張りどころです.踏ん張って学生を育てれば,あの大学は偏差値低いはずなのに賢い卒業生が多いなぁ,という噂が立つようになります.

方法はいろいろありますが,徹底しきれなくとも全学生に同じような学習をさせることが重要です.
一番の問題点は,手を抜く教員や指導できない教員のプライドを傷つけないことにあります.下手をすると,当該教員がグレてイジケて極めて面倒くさい状態になります.

卒業論文指導ができる人を集めてユニットを作り,そこで横のつながりを持ちながら指導していく方法が良いのかもしれません.よく,3年4年の時の「ゼミ」「演習」と呼ばれる科目の指導教員が卒論指導する場合が多いのですが.卒論指導とゼミを切り離す方法も考えられます.
なお,ポイントは「卒業必修単位」にすることと,その単位認定には「複数教員の合意」が必要とすることです.学生に本気出させるにはそれくらいがちょうどです.
「そんなことしたって,骨折り損のくたびれ儲けになりはしないか」という声も聞こえてきそうですが,今,全国の学長にはそんなサラリーマン教員を一蹴できるかどうかが問われています.


以下,正統派ではない方法によるものを提案します.

(2)現在の多くの大学が取り組んでいない「身体的技能」をガチで身に着けさせる
以前私が勤めていた大学でこんなことがありました.上司から「本学のオリジナリティを高めるために,何かいいアイデアはないか」と言われたんです.この上司が期待していたのはウケ狙いのものだったんですけどね.しかも横着にも「できれば我々が活きる体育系のもので」とのことでした.
それに対し私は「では,生花とか茶道とか,あと日本舞踊とかを本気でやらせてはどうでしょうか.卒業必修単位にして,きちんと習得できなかったら卒業できないようにするんです.グローバル教育にも一役買うと思います」と言ったんです.なお,これはウケ狙いではありません.
ものすごく嫌な顔をされました.

本当なら卒業論文をガチでやって,学術的思考力を鍛えたほうがいいに決まっています.でも,私はこの時「体育教師」という立場からしても,学生に “身に付ける” ことを重視するという意味において,上記のことを提案したつもりです.

この上司としては,もっと学生が履修希望したがるようなプログラムを私に考えさせたかったんです.なんのことはない.「履修希望者が増える」という状況ができれば,体育科が学内で一目置かれるようになるっていう目論見です.下衆ですね.
でも,そんな学生ウケする授業科目をつくったところでバカバカしい.

「◯大学の卒業生は,皆必ずお茶が点てられる」とか,「◯大学の学生は,全員が必修の書道で鍛えられているから字が綺麗」というのは,大学としてのオリジナリティだと思いませんか? 思いますよね?
はい,チャラいことは百も承知の上です.それでも,オリジナリティを本気で出したいというのであれば,こういうのが教育的にも大事だと思うんです.

もちろん,ここで出しているのはパッと思いついたものです.もっと熟慮すれば,良いアイデアが出て来るでしょう.
これが10年,20年続けば,その大学の伝統や特色,アイデンティティになっていきます.

ポイントは,「体験する」とか「知っている」といった学習ではなく,ガチでやって「出来るようにさせる」「身に付けさせる」という状態にまでもっていくことです.そうでなければ意味がありません.そのためにも,私は体育的な発想が必要だと考えています.

例えば,自転車がこげるか否かは,明瞭に分かります.それに,自転車を一度こげるようになった人は,それからもずっと自転車をこぎ続けられます.自転車をこげるというアドバンテージや,そこから見える可能性は極めて広大です.これが体育的発想です.

私達が通っていた大学では,好むと好まざるとに関わらず,体操の鉄棒やマット運動,4泳法,陸上7種一定記録以上,柔道初段獲得,エアロビクスダンス等々,それが出来なければ卒業できませんでしたから,それができるようになりました.
こうした技能の獲得は,スポーツ活動以外には意味のないものでしょうか?
いえ,それらが「私の体を通して出来る」という身体的認識は,知的・精神的活動にも影響します.詳細は■井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」あたりを参照してください.
そしてこれは,生花や茶道,日本舞踊も同じことです.

なんでもいいんですよ.ダンスでもカラオケでも和太鼓でも座禅でも.その大学ならではのものがあれば,尚良いでしょう.もっと言えば,伝統的に「そういうもの」がある大学は,もともと強い大学,盤石な大学ではないですか.
ここには相関があると思うんです.


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