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日本の右翼が教育問題について軽薄である歴史的な理由

先日書いた2つの記事,
「学校」が誕生した理由
大学無償化が有する薬効と害毒
が,結構な閲覧数をいただいています.
各々いろいろ思われるところがあるかと思いますが,ひとまず,ありがたいことです.

先日,■「学校」が誕生した理由について知り合いの先生とお話していた時,ふと,こんな考えに至りました.

「日本の右翼や保守派とされている教育論者が,あんなにも無責任でトンチンカンな事を言うのは,『学校』が誕生した理由をマジで知らない(もしくは,あえて無視している)からではないのか?」
ということ.

そしてこれは,別に彼らが単に悪いってんじゃなく,そういう考え方に至るだけの理由があるから.すなわち,
「日本において『近代的学校』が登場した経緯が,欧米とは異なるからではないか?」
という考察です.

「近代的な学校がどのような理由で誕生したのか?」については,いろいろな書籍で紹介されています.
教科書的なものとしての参考文献は,例えば↓
 

近代において「学校」が誕生した理由,それは過去記事でも書いたように,
「大人社会のルール,大人の論理から子供を守るため」
です.

近代とは,弱者を巧妙に搾取する時代です.それを喝破したのがカール・マルクス著『資本論』であることはよく知られています.
ここでは別に資本主義を批判したいわけでも,マルクス主義を薦めたいわけでもありません.近代とはそういうものだということです.

そうした近代において,欧米では「社会から子供を守らなければいけない」という気運が高まり,その結果として労働法が,そして学校が誕生しました.

ところが日本はというと,欧米における,
1)産業革命・工業化に伴う労働環境と子供の養育の劣悪化
2)それらに対する労働法と学校の整備
という流れを経験せず,いきなり「工業化と学校の整備」が同時に輸入されました.

つまり,日本は近代化の過程においてそれぞれ発生する「状況」を経験せずに,近代のシステム(工業化と学校)を導入しているわけですね.
これが「悪い」ことだったと言いたいのではありません.しかし,これによって日本人は「近代」がどのような顔をしているのか,「学校」がなぜ誕生したのか知らないまま近代化したことになります.もちろん,導入を検討した頭の良い人たちは知っていたでしょう.でも,日本国民全体の認識としてはどうだったか,怪しいところです.

上で紹介した本を読んでみましても,当時の日本がどれだけ社会の西欧化とその教育システムの導入に勤しんでいたのか知ることができます.
その結果,日本は「工業化」と「学校教育」のダブルエンジン・スタートにより,奇跡とも言えるスピードで近代化を成し遂げました.

しかし,幸か不幸か,日本人には「近代と教育」においてこのような見方が身についたはずです.すなわち,
「国家の近代化と富国強兵のために,学校教育は大切である」
間違いじゃありませんよ.でもこれは,巧妙なるデタラメです.

ですが,それなりの人にとっては,なんかワクワクする表現でしょう.
日本の右翼・保守派とされている教育論者が,「学校教育」による国家への忠誠と立身出世,そして教育環境における自己責任論を殊更説くのは,こうした認識・背景があるからではないかと思うんです.
「寺子屋」という慣習・制度を踏襲して近代学校をスタートさせたのも,これに拍車をかけたかもしれません.

本来,近代学校とは「近代化へのカウンターバランス」として誕生しています.
ところが,日本では「近代化へ向けた一部」として導入されているんです.
こうした経緯が後世に及ぼす影響は小さくないと考えられます.

実際,学校教育の制度が始まって尚しばらく,日本では子供を労働者として搾取する問題が後を絶ちませんでした.学校教育制度が始まったのが1872年なのに,工場法ができたのは1911年です.作る順序が逆だし,あまりに子供の労働に無頓着です.
これは結局,日本人にとって「学校」とは子供を守るための制度ではなく,富国強兵と立身出世のための制度として受け取られていたことを示すものと考えられます.

もちろん欧米においても,学校教育が富国強兵につながると考えられていたことはたしかです.
最も有名なのが,フランスのピエール・ド・クーベルタンによる「スポーツ教育」です.
クーベルタンは「近代オリンピック」の創始者として名が残っていますが,彼は普仏戦争への敗戦により自信を失ったフランス国民の心身を鼓舞することを目的として,「スポーツ」に着目したとされています.
ですから,ワーテルローの戦いでナポレオン率いるフランスに勝ったイギリスの教育内容にスポーツがあることに感銘を受け,それをフランスの学校教育にも取り入れようとしたわけです.その延長線上にあるのが,あの「近代オリンピック」なんです.だからクーベルタンは,ドイツのヒトラーによる1936年ベルリン大会を大いに賞賛しています.
(詳細はマカルーン著『オリンピックと近代』を参照のこと)

そうは言っても,学校教育にスポーツを取り入れることは,学校の存在そのものに転換を迫るほどのことではありませんでした.
皮肉な話ですが,右派・国粋主義者とされるクーベルタンの思惑とは裏腹に,フランスをはじめとする欧米において「近代オリンピック」は,様々な力に曝されつつも戦争や国威発揚とは無縁の存在であることを理念に掲げています(実現できているかどうかは別として,理念としてはそうです).学校におけるスポーツ教育は,あくまで「スポーツ」であり続けたのです.

ところが日本の学校教育では,この「スポーツ教育(つまり,体育)」が富国強兵の一環として見事に取り入れられるんです.面白いですね.
日本の学校教育では,体育とはすなわち兵隊用の訓練でした.

こういう状況になるのは民族性とかも影響しているんでしょうけど,やっぱり最初の出だし,つまり「学校とは何か」という事への認識が大きく関わっているものと考えられます.


日本の右翼・保守派の教育論にありがちな話はこちら↓
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なぜ教育現場では「ネットの意見」が受け入れられないのか
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