2017年10月19日木曜日

体育学的映画論「ダンケルク」

先月から公開されているクリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』(2017年)を,先日ようやく見ることができました.
公開前からかなり期待していたのですが,その期待を裏切らない迫力ある映画でした.

ネット配信されるようになったらもう一度見てみようとは思いますが,これは映画館で見ることをオススメします.
「追い詰められた軍隊」について,戦地での緊迫感や絶望感を追体験できる映画です.
特に,映画冒頭にある「最初の弾丸」からの銃撃戦で「生き残るために逃げている」側にいることを意識付けられ,没入感は最高.

そう言えば,三谷幸喜監督の映画に『ラヂオの時間』(1997年)というのがあるのですが,そこで「頭にマシンガンの音が必要なんだ.そこで惹きつけておかないと客が食いつかない」とマシンガンの効果音に拘る場面があります.なんだかそれを思い出させられました.
あとは終始,ハンス・ジマーによる不安を煽る重低音の音楽が(いい意味で)ダラダラと流れつづけており,気分が滅入ります.

予告映像にもありますが,浜辺にて帰国用の船を待つ兵隊の行列.
爆撃や機銃掃射を受けても,彼らは行列を崩さない.東京人もびっくりの「行列のできる浜辺」です.
私が過去記事で言いたかったことを「戦争」を通して間接的に表現しているとも言えます.その意味でもとても興味深い.
整列乗車はマナーではない

陸・海・空それぞれのシーンで異なる時間軸により話が進んで行き,最後に3つが統合されるという手法をとっているのですが,これも小説を読んでいるようで面白かった.

とりあえず,英国ジジイがカッコよすぎる映画です.

映画評なんかを見てみますと,ストーリーがないので退屈だとか,「ダンケルクの戦い」を事前に知っていないと意味がわからないなどというコメントが散見されます.
たしかに,ただひたすらダンケルク港からの撤退作業を見させられているのは事実です.
でも,私としては「こういう戦争映画が見たかった」と感じさせられたのも事実でして.
戦争映画の描き方の転機となる作品になるのではないかと思うんですよ.

それはもしかすると,近代以降における「戦争」を考えるテーマにもなるかもしれません.
つまり,「近代戦争とは,そもそも『ストーリーがない』のではないか?」という問題提起.
現代においては尚の事,顔の見えない,物語のない戦争が展開されている.
以前,そんなことを記事にしたこともありました.
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

いえ,戦争にストーリーがないのは近現代に限らず,人類の歴史すべてにおいて言えるのかもしれません.
しかし,かつてはストーリーにすることができたのです.人の姿形が見えていたからです.

スピットファイアと小舟が,戦争において「人の姿形」を見せるための最後の依代だ.
『ダンケルク』において感じるのは,そうした戦争と身体の臨界点のように思えます.

2017年10月16日月曜日

最近の自宅周辺の外食事情

関東に移住してしばらくは味付けの違いに辟易しており,仕方なく自炊することも多かったのですが,ここ数年は自分好みの料理を出してくれるお店を見つけて安定しております.
自宅周辺と勤務先の間にある,うどん,寿司,ラーメン,中華をローテしているところです.
安定するまで2年かかりました.

もともと,外食に限らず同じ店に繰り返し足を運ぶタチではあります.
理髪店もずっと馴染みのお店ですし,衣服もずっと自宅近くのAOKI.毎朝・毎晩通うコンビニも,自宅前のセブンイレブンです.

同じ店を使い続けると,当たり前ですけど「常連客」になります.
常連客って楽なんですよ.きっと店側もそうです.
そういう関係がなにかと楽だし,楽だから「楽しい」.

理髪店なら「いつもの感じで」で済ませられるし,ちょっとした追加注文するにしても話が通りやすい.床屋談義は月に一度の楽しみになります.
服を買うにしても,いつもの店なら馴染みの店員が対応してくれるので,最近のファッション事情なんかをいろいろ教えてくれます.私は服選びで悩みたくないので,その店員に任せることにしています.そこらへんの詳細は,過去記事にしたことがあります.
若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

さて,外食の話ですけど,私は30歳を越えてから寿司屋に足を運ぶようになりました.
もちろん回転していない店です.独身貴族ならではの楽しみだと思っています.
私が通っている店はそんなに高級なところではなく,安くあげれば3000円くらいで満腹になります.
けど,腕は確かなようでして,いつも繁盛していて予約無しで入ることは難しいですね.

私はいつも予約して行っています.一人なので席を取るのは簡単です.
何回か通っているうちに私を覚えてくれて,注文もスムーズになりました.
そのうちこっちが何も言わなくても「次,玉子握りますね」とか「お味噌汁を出していいですか?」,最後は「お茶を出してもいいですか?」ってなります.

いつも混んでいる店ですが,たまにポッカリと空いている時があるものです.
私は普段口をきかないのですけど,こういう時だけですね,大将と話しをするのは.
私も高知の港町出身ですから,それなりに魚の話題では盛り上がれます.魚料理や寿司屋について,いろいろ話が聞けるのは楽しいものです.
混んでいる時は,脂ギッシュなオッサン達が次から次へと「ヘイッ大将!」ってな感じで喋りたがるので,私みたいな若輩者が口を出すのは控えているんです.
大将としても,混んでいる時は私とは二言三言話して,あとは一人にしてくれます.あくまで私が「夕飯を食べに来ている」ということを尊重してくれるんです.夕飯用のものを握ってくれるし.

あと,寿司屋が暇な時にはよくあることなんでしょうけど,本来なら出さないネタを握って出してくれたりします.
先日は熟成マグロを出してくれました.なんでも,大将が最も好きなネタなんだそうです.
私,マグロって好きな魚じゃないんです.関東の人は好んで食べますけどね.ブリとかカツオのほうが美味しいのにって思っていました.
でも今回,熟成マグロを食べさせてもらって,マグロをみなおしました.あれはたしかに旨い.
こういうところが常連客になるいいところですね.

その寿司屋から200mほどのところに,行列のできる不味いラーメン屋があります.
どうして行列ができるのか不思議でならないのですけど,そのラーメン屋の向かいに中華料理屋があります.
ここがメチャクチャ美味い.

中国人のオッサンが料理やってて,店員も中国の女の子.客にも中国人が多いんです.
案の定,エビチリが不味い.けど,その他のメニューはすこぶる旨い.
ここも足繁く通っているうちに店員に覚えてもらえました.
この1年くらいはずっと「ピーマンと牛肉の細切り炒め」か「ナスと豚肉の甘味噌炒め」を基本とする定食しか注文しなくなっているので,注文を取りに来た女の子が「キョーはナスが無くなったデスヨォ」って親切に教えてくれることがあります.
実は「キクラゲと玉子の炒め物」もかなり美味しいんですけど,そこは一つ「じゃあ,ピーマンで」って.もしかしたら厨房のオッサンも既にピーマンを炒め始めてるかもしれないし.
こういうところが常連客のいいところですね.

この中華料理屋から100mほどのところに,行列ができない旨いラーメン屋があります.
行列ができないというだけで私のポイントは高い.極めて優秀な経営をされています.
麺,スープ,具,どれをとっても非常にオーソドックスなものを出してくれる店で,「私は今,普通にラーメンを食べているぞ」という気分にさせてくれるところです.

ひたすら黙々とラーメンを作り続けるオヤジ.無駄なことは一切しない.
私も昨年までは「麺は硬めで」と追加注文していましたが,最近は何も言わなくなりました.
「えぇっと,ラーメン」
「はいよ」
・・・
「はいお待ち」
それだけ.
こちらも食ったらすぐ帰る.
滞在時間およそ10分.
これぞラーメン屋.


2017年10月15日日曜日

パイナップルの食べ方

どうでもいい話ですけど,高知つながりでもう一つ.
毎年,実家からパイナップルが送られてきます.しかも,年に何回か.

母の園芸の趣味が発展してゆき,15年くらい前から実家ではパイナップルが栽培されているんです.

過去記事の■“日本一”の故郷を撮るでも紹介しましたが,こんな感じです↓

先日も「今年最後だから」などと言いながらパイナップルが3個送られてきました.
実際,これを処理するのが大変です.
大学院生だった頃は,院生室の皆で分け合って食べていたのですけど,今となっては「パイナップルを分け合う」ような環境にもなく.
私が家族持ちなら楽しく食べるイベントになるのでしょうけど,そうではないので「処理」という言葉がぴったりなのが哀しいですね.

パイナップルは新聞紙にくるまれて送られてきます.
高知からなので高知新聞にくるまれています.


冒頭の写真や見慣れたパイナップルと比べると果実が強いオレンジ色ですが,これが完熟したパイナップルの証拠です.
ここではキッチンの電球の色の影響もありますが,普通に売られているものと比較すると真っ赤です.

これを切っていきます.
まずは実の上下を切り落とします.


次に,側面の皮を削ぎ落とします.
遠慮なく大胆に切り落として構いません.「処理」なので.
「もったいない」からと細かく削っていたら面倒くさいことこの上ないですし.
あと,新聞紙の上で切れば,あとの片付けが楽です.


皮を削ぎ落としたら,次は「芯」の周りにある果肉を削っていきます.
これも大胆に切り落としていく感じです.
ここまでくると部屋中にパイナップル臭が充満し,トロピカルな雰囲気を漂わせます.
一旦部屋を出た後,また帰ってきた時の匂いが凄いです.


芯だけになりました.


普通はこの「芯」は捨ててしまうのですが,実はこの芯の周りにある果肉こそがパイナップルで最も美味しいところです.
さしずめ「マグロのなかおち」「ヒラメのエンガワ」みたいなもの.
なので,以下のように削っていきます.


一般に売られているパイナップルでは「芯」の周りは美味しくないかもしれません.
繊維質ばかりで食べられたものではないかと思います.
ここが美味しく食べられるのは,ちゃんと完熟したパイナップルだけです.
パイナップル独特の刺激性がなく,程よい上品な甘さが絶妙なところなんですよ.

皿に盛り付ければ完成.

気分はすっかり南国ハワイ,ではなく,南国土佐の実家の庭です.
これが実家の庭園↓


2017年10月14日土曜日

高知と映画(全体とは部分の総和以上のなにかである)

どうして高知の映画の話題なのかと言うと,私が高知出身だからです.
知らない人がいたらと思い,念のため.

先日,こんなニュースがありました.
「0.5ミリ」の安藤桃子監督が高知に映画館オープン(映画.com 2017.10.7)
安藤サクラ主演の「0.5ミリ」などで知られる映画監督の安藤桃子氏が企画・運営する映画館「ウィークエンドキネマM」が10月7日、高知市内でオープン。父で映画監督、俳優の奥田瑛二、エッセイストの安藤和津ら奥田ファミリーも応援に駆けつけた。(中略)安藤監督は外観、内装から、作品選び、配給まで全面プロデュース。映画館前の通りには出店で賑わう中、呼び込み、チケットのもぎり、上映前には作品紹介の“前説”も。「ザ・トライブ」の上映の際には、通りかかった10代の若者グループに丁寧に説明し、勧誘に成功。「目標は高知の映画人口を増やすこと。映画をきっかけに町が賑わいを取り戻せたら」と言葉に力を込めた。今後は、トークショーやイベントなども企画しているという。
映画そのものの凋落もありますが,過疎化が進む高知では映画館が軒並み潰れているのが現状でした.
なぜ安藤監督が高知で映画館を始めたのか? というと,以下のような理由なのだそうです.
安藤監督は13年、「0.5ミリ」を高知で撮影したことがきっかけで移住。その際、04年に廃館になった高知東映の存在を知り、復館できないものかとの思いを強くした。
なんと,高知に移住されていたんですね.
父、奥田は07年11月から約4年間、山口県下関市で自身のミニシアター「シアターゼロ」を運営しており、奥田ファミリーで映画館を経営するのは2館目となる。「シアターゼロ」の立ち上げも手伝った安藤監督は「父が下関の映画館で苦労する姿、喜ぶ姿を見てきた。独立プロで映画を作ってきた人間としては、映画の入り口から出口までやってみたいとの思いが最初からありました」と話した。
奥田は「僕は映画人として、監督をやって、興行もやり、全てを経験したけども、奇しくも親子で、新たに映画のシステム全体を経験する人が生まれることはうれしい。僕が下関でやってきたことを受け継いでくれたかなと思うと、感無量です」と喜んでいた。
お父様である奥田瑛二氏も,山口県で同じことをやっていたのだそうです.
私は体育・スポーツ科学の研究者・教育者・指導者をやっていますけど,安藤氏が語る「入り口から出口までやってみたいとの思い」というのは分かる気がします.
部分部分を突き詰めていくのも良いですし,今時,効率よく生きていくにはどうしても「部分」を扱わざるをえないという現実がありますけど,やっぱり「全体」を扱う楽しみはあるものです.研究は研究,教育は教育,指導は指導という具合いに分断させて活動している同業者は多いものですが,これらを連結させることは魅力的です.

高知新聞にはこんな記事も載っていました.
高知市街に10/7に映画館が開業 安藤桃子さん運営(高知新聞2017.9.21)
「街中に映画館を再興したい」との4年越しの情熱を実らせた。「何かが起きる劇場にしたい」と思いを膨らませている。(中略)桃子さんが代表を務める会社が運営し、上映本数は月6~8本が目標。東京からゲストを呼んだり、奥田瑛二さんが活弁士を務める無声映画を上映したりする構想もある。
「高知のお客さんが求める作品を探りながら、これぞという作品があれば上映したい」と桃子さん。「少々アバンギャルドな作品も挑戦します」と、いたずらっぽく笑った。
「何かが起きる企画にしたい」というのは,見通しの甘さからくる失敗フラグとも言えますし,一昔前の私なら「こりゃダメだな」と思っていたことです.
でも,大人になってからはそんな取り組みも有りかなと考えるようになりました.
この安藤監督ですが,年齢も私と違わない人ですし,いろいろと注目しておきたい人です.

ところで,安藤監督は「少々アバンギャルドな作品も挑戦します」とのことですが,高知ではアバンギャルドな作品を好む下地はあるようですので,挑戦のし甲斐はあると思われます.
実は今夏,高知で珍しい映画の取り組みがありました.
「神様メール」で知られるベルギー映画界の鬼才ジャコ・ヴァン・ドルマン監督が手がける『キス&クライ』を,日本で唯一公開したのが高知県立美術館だったんです.

「キス&クライ」はただの映画ではありません.舞台でもあるのです.いえ,映画を舞台にしているとも言える・・・.と言っても難しいですね.
どういうことかというと,今まさにそこで舞台をしつつ,それを映画として上映するという奇妙奇天烈な作品だからです.つまり,観客は舞台を見ながら,同時にその舞台を映画として見ることができる.しかも,作品時間は90分間と非常に長い.

詳細は以下をどうぞ.
ホール事業:「キス&クライ」-KISS CRY-(ベルギー)(高知県立美術館)
全篇90分にも及ぶ長篇映画を創り出せるのは、計算し尽くされた緻密な動きの構成と、ドルマル監督率いる最高の映画スタッフの布陣の賜物。ミシェル・アンヌが考案した手の踊り“ナノ・ダンス”は、見えない主人公の視線や気配を感じさせ、優しく語りかけるナレーションが相まって、直感的な解釈を際立たせてくれます。メディアに“記録”して再生可能にする「映画」に対し、限られた時間に劇場へ足を運ぶ観客の“記憶”にのみ共有される「舞台」。相反した手法が見事に融合した珠玉のスペクタクルは、観劇する者のみに贈られる至上の時間となるでしょう。
こういうの,私は好きですよ.見れてないけど.
「舞台を映画にしてしまえ」っていう企画を本気出してしまった結果ですね.

この「舞台と映画の融合」の似た取り組みに,監督・三谷幸喜,主演・竹内結子の『大空港2013』というのがあります.
約100分の映画ですが,それを全てノンストップのワンカットで撮りきっているんです.これも非常に面白い.
最近話題になったものとしては,ドイツの『ヴィクトリア』っていう映画があります.

これらはどちらかと言うと「映画で舞台をやった」という趣旨ですが,前述のキス&クライは「映画を舞台でやった」というところ.
いずれも作品としては映画ではありますが,舞台の魅力も併せ持っているわけです.

舞台では視点や焦点,視野・画角といったものは観客に委ねられます.「見るところ」は見る側が決めているんです.一方,映画ではカメラに頼ることになります.カメラが撮っているところが「見るところ」なんです.
その点,「映画で舞台」をやったり,「映画を舞台」でやることによって,舞台や映画において前提となっている「見るところ」が観客の前で解体されてしまう.そこに,こういう手法の魅力があるのだと思います.


2017年10月8日日曜日

体育学的映画論「鬼龍院花子の生涯」

ちょっと前の話ですが,本学の野球部の数名が不祥事を起こしました.
当事者間での示談で済んだので表沙汰にはならなかったのですが,週刊誌あたりが嗅ぎ付けるとそれなりに危ない事件ではあったんです.

最近の大学では,初年次教育で担当しているクラス(主に「基礎演習」などと呼称される)を,学校で言うところの「ホームルーム担任」のように扱っているところが少なくありません.
学生生活の相談事や,今回のような学生の不祥事があったら,その担任の教員が対応するという次第です.
うちの大学もそうでして,私もその担任をやっています.

不祥事を起こした野球部の一人が私が担任をしていたクラスの学生でしたので,担任である私も呼ばれて「面談指導」をやることになりました.
知らない人は驚かれるのですが,今の大学はこういうことをやるんです.「学生課」とか「教務課」あたりが処理するわけじゃありません.

学科長と,当該学生たちの担任である私ともう一人の先生が面談を担当しました.
事の次第を聞き取り,彼らの反省の弁を聞くということだったのですが,私にはそのうちの一人がどうも反省しているように見えなかったんですね.
「はいはい,反省してるって言えばいいんでしょ」みたいな態度でふんぞり返って,薄ら笑いを浮かべる場面もあったりで.

さすがの私も,それにキレてしまったようなんです.
私と面識のある人は知っているかと思いますが,私はとても優しく心穏やかな人物です.私が怒るところはもちろんのこと,機嫌が悪いところも見たこと無いはずです.パワフルプロ野球なら「安定感」と「ピンチ◯」が必ずついているでしょう.

だから「キレた」と言っても,結構穏やかにキレたはずなんです.怒鳴り散らすようなことはしていません.
「君たちがやったことは,とても大変なことなんだよ.そんな態度でいると,今に取り返しのつかないことになってしまうよ.なめてかかってはいけませんよ」という趣旨のことを言ったと思います.

あんなに優しく朗らかな私がブチ切れたのですから,これが学生(だけでなく他の先生も)には衝撃的だったらしく,泣き出しそうな奴もいました.
以後,彼らは反省したようで,授業でも大人しくなったようですし,野球部内での素行の悪さもおさまったと聞いています.
中高生とは違い,さすがに大学生になったら聞き分けがありますね.

面談が終わって,同席していた学科長が言うんです.
「先生が高知出身だということを,あらためて知った気がします」って.
どういうことですか?って聞いたら,
「昔の映画にありましたよね.夏目雅子の『なめたらいかんぜよ!』っていうの.あれを間近でネイティブから聞けて嬉しかったです.やっぱり土佐弁は迫力がありますね」なんて言うんですよ.
どうやら上述した学生に諭した言葉を,私は高ぶる感情のなか「土佐弁(厳密には幡多弁)」でしゃべっていたんです.
東京の人たちには刺激が強かったかもしれません.

かつて,「なめたらいかんぜよ」というセリフが流行したらしいんですね.実際,私が高知出身だというと,これを話題にする人がたまにいます.
でも,それがどういう映画の誰のセリフなのか知らないままでいたんですが,この度,動画配信サイトで『鬼龍院花子の生涯』(1982年)を見たので「あぁ〜,これかぁ!」ってなりました.
「なめたらいかんぜよ」は,以下のユーチューブ動画で見ることができます.
夏目雅子「なめたらいかんぜよ」(youtube)
ちなみに,それまではなんとなく「スケバン刑事」あたりのセリフかなって思ってました.スケバン刑事も見たことないですけど.

「鬼龍院・・」なんてところから察せられるように,これはヤクザ映画,任侠映画です.
実は1984年にテレビドラマ化され,また最近になって観月ありさ主演(2010年)でテレビドラマにもなったらしいんですね.全部知りませんけど.

ヤクザ映画の面白さがずっと分からなかったのですが,ここ数年見るようになりました.
決して誉められた生き方ではないけれど,それだけに,だからこそ「自分の人生」として納得できるものにするため,必死に藻掻く人間の姿を描いているものが多いですね.

「鬼龍院花子の生涯」はその典型で,主人公の松恵の境遇がヤクザ映画の本質を見せているように思うのです.
主人公・松恵は鬼龍院家の実娘ではなく,望んでヤクザの家の娘になったわけでもないし,大人になってからも小学校の先生として生きようとしています.
とにかくヤクザの世界から逃げ出そうとしているのですが,それでも運命は彼女に味方せず,本人も結局は鬼龍院の娘であることを受け入れる.
例の「なめたらいかんぜよ」というセリフは,それを象徴するシーンで発せられます.

そんな松恵の視点から見ることによって,鬼龍院の実娘である花子への哀れみは格別のものとなります.
小説や映画のタイトルが『鬼龍院花子の生涯』となっていますが,一見,鬼龍院花子のエピソードやシーンは少なく,主人公であり語り部である人物も,その姉である松恵です.
でも,そんな境遇の松恵の視点から見るからこそ,ヤクザ者の世界の虚しさと,その中で必死に「良い生き方」を模索する人々の,なかでも「極道の女」である花子の生涯が際立つのでしょう.

ちなみに「極道のオンナ」と言えば,主人公・松恵の義理母であり鬼龍院政五郎の妻である歌役をした岩下志麻さんは,この映画で初めて極道の妻を演じたそうです.それまで岩下志麻さんは清楚で可憐な役柄で売っていたそうなので,そこから180度方向転換した体当り出演ということなります.
しかしこれが「岩下志麻=極道の妻」誕生の瞬間となりました.
私達の世代にとっては,岩下志麻さんと言えば,高そうな着物着てマシンガン撃ってるイメージしかありませんからね.


2017年10月6日金曜日

大学現場の凄惨さがネット記事になっている

こんなネット記事がありました.
日本のアカデミズムは危機にあるのか――ノーベル賞受賞者も警鐘(ヤフー・ニュース2017.10.5)

「危機にあるのか?」とか言ってる場合じゃなくて,もう既に危機を通り過ぎて「手遅れ」になっているんだ,ということを,このブログでは5〜6年前から指摘してきたところです.
ようやく,こういう人目につくニュース・サイトでも大学教育の危機感を煽るようになってきましたね.
でも,そういう段階になっている時点で,先ほど申したように既に「手遅れ」なんです.
一般大衆ですら「気になる」ようなレベルになった時点で,もう打つ手はなくなっています.

私がこのブログを始めるよりもずっと以前から,大学教育のことを本気で心配していた諸先生方は「このままじゃヤバい」とさんざん指摘していました.
しかし,こういう指摘は当時,「象牙の塔にはびこる保守的な態度」と言われたり,「大学教員なんて所詮は社会不適合者の集まりだから,もっと外部の風を取り込まなければならない」などと嘲笑されていたのです.

上記のネット記事のアウトラインを並べてみました.
・地方から失われていく、科学研究の基礎体力
・世界における「科学エリート」の地位を失いつつある
・「就職できないから」東京大学でも大学院生が減少
・問題を抱える「任期付きポスト」
・科学技術への投資なくして日本に未来はない
どれも過去記事で取り上げてきたことですけど,私のブログよりも丁寧に取材されていますので,気になる人はぜひご確認ください.

その記事の中から,話題を一つを挙げておきます.
こうした傾向に、深い懸念を抱いている研究者は多い。
その一人が2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。
(中略)
梶田氏は、この20年ほどで普及してきた「選択と集中」という言葉に、基礎研究の立場から違和感を覚えるという。
「『選択と集中』は盛んに言われてきた言葉ですが、その結果、大学がどうなったか。東大はいいかもしれないですけど、地方の国立大学では衰退が激しくなった。学問の多様性を急激に失わせている気がして、将来の芽が出る前に根こそぎなくしているような感じがするのです。むしろ、重要なのは多様性です。科学には多様な可能性があるので、きちんとサポートしていかないといけない。それは、つまり、無駄になる研究もあるかもしれないということ。それでも、そうした部分に目をつむるという感覚も必要なのだと思います」
同じことを私も繰り返し過去記事で書いてきましたが,どこの馬の骨か知れない奴の言葉と違って,東京大学ノーベル賞受賞者の言葉には説得力がありますね.

梶田先生の言葉に付け加えるとすれば,そもそも「選択と集中」によって何を求めていたのかが問題だったのです.
多くの人々は,選択と集中によって大学教育や研究が活発化するものと思っていたのです.バカですね.どうしてそうなるのか意味不明です.
「選択」して「集中」するのだから,当然のことながら一方では「選択されず」に「放置」される領域が出てくることを意味します.それでどうして活性化すると思ったのか.

当たり前のことですが,「選択と集中」というのは,限られた資源をどこかの部分に集中的に配分して,その領域だけを生き残らせようという手法のことです.
当然のことながら,選択して集中させるわけですから,そこでは「競争」がなくなることを意味します.複数のグループが切磋琢磨して競い合う,ということを避ける方法としては優秀なので.

ところが,世の中の多くの人々は「選択」するための領域やグループを「競争」させることによって,その結果当該領域が「活性化」するのではないかと考えていたフシがあります.科学研究費補助金なんかが典型です.
どう考えても無理筋なのですが,この浅はかな思考が反省されることはありません.

「反省されることがない」
これが最大の問題点でしょう.
ですから,この「大学教育の危機」というのは既に手遅れなのです.

今後ですが,堕ちるところまで堕ちたら,その原因や経緯を当たり障りのない別の何かで誤魔化しつつ,何事もなかったかのように「大学教育」に似た何かを改めて始めるものと思われます.

関連記事

2017年10月5日木曜日

t検定:対応のある/なしの違いは何か

統計学を専門にされている人にとっては常識であっても,
その他の人たちにとっては意外とスルーして,
且つ,手軽にエクセルや統計解析ソフトが使えるようになった現在,
今更そんな基礎的なことを確認するのも面倒だと思いつつも,
統計処理をする上ではやっぱり知っておいた方がいいことは確かだという認識はある.

実験や調査データを扱う人たちにとって,こういう話は多いものです.

これまで本ブログではニッチなネタを取り上げてきましたが,せっかく閲覧者数も多いので,もっと基本的なところを扱ってみたいと思います.

今回は研究論文でも非常にお世話になる統計手法の一つ,「t検定」について,「対応のある」「対応のない」の違いはどこにあるのかお話します.
なまじエクセルやSPSSなどを使っていると,たんに「対応のある」「対応のない」を使い分けるだけで,その計算方法の違いが分からないままです.
計算方法を知らなくても有意差の有無を判別することができるようになった時代だからこそ,その計算方法の違いを知っておく必要があります.

例題となるデータを以下に示します.
左側は対応のあるデータ,右側は対応のないデータ.両者とも比較対象となる測定値は同じです.
そして,それぞれ対応のあるt検定と対応のないt検定でp値を算出済みです.

対応のあるデータでは5%水準で有意差あり,対応のないデータは有意差なしになっています.
上記のように,同じ値の2群であっても,対応のある/なしでp値は変わってきます.
それは計算方法が異なるからなのですが,冒頭お話したように,具体的にどのように異なっているのかは案外知られていません.

両者の違いはエクセルの関数や統計パッケージを使っているとスルー出来てしまえるのですが,今回,あえて計算式をエクセル上に展開してみます.
そこから両者の違いを明確に知ることができます.

まず,対応のあるt検定は,2群間における個々の差を算出します.
一方の対応のないt検定では,両者の分散(もしくは標準偏差)さえ分かっていれば算出できるのです.
以下を御覧ください.


対応のあるt検定では,2群間における個々の差を算出し,それらを使って標本分散を算出します.エクセル関数では「VARP」を使って算出できます.
一方,対応のないt検定では,各群の分散もしくは標準偏差を算出します.エクセル関数では分散は「VAR」,標準偏差は「STDEV」で算出できます.

その後はt値の算出になります.
対応のあるt検定であれば,以下のような式から求められます.

すなわち,両群間の平均値の差(差の平均値)を,両群間における差の標本分散を使って計算しているのです.
※なお,「5−1」というのは「n−1」のことです.例のデータではn数は5なので.

一方の,対応のないt検定は以下の通り.

こちらは,両群間の平均値の差を,各群の分散(もしくは標準偏差の2乗)を使って算出しています.
※なお,こちらの式の中にある「5」というのもn数のことです.

両群とも平均値の差を検定していることは同じなのですが,そのなかでも対応のあるt検定は2群間に現れた差のバラツキ具合いを検定しているのに対し,対応のないt検定では両群の測定値のバラツキ具合いを検定しているんです.

ですから,対応のないt検定では両群のn数が異なっていても算出できます.
一方の,対応のあるt検定ではn数が違っていたり,データを並べる順番を間違うと算出できなくなる理由は明白ですね.両群の個々の差を算出し,そのデータを使っているからです.

私が学生の頃の話です.
報告書みたいなものに有意差検定がされていないデータが載っていまして,「このデータに有意差はあるのかなぁ.でも,統計処理されていないし」なんて話をしていたんですね.
そしたら先生が「平均値と標準偏差とn数が分かっているんだから,早く有意性の有無を算出しなさい」って言うんです.
その頃はてっきりt検定は個々の全データがなければ算出できないと思っていました.実際,エクセルやSPSSでは個々のデータを全て入力しなければ自動算出してくれませんから.
「これだけじゃ出来ませんよ(だって,ここには生のデータが無いんだもん)」って思っていたのですが,実は対応のないt検定なら計算できるんですよね.
標準偏差は2乗すれば分散になるのですから,電卓さえあれば苦もなく算出できるのです.
っていうか,論文などに掲載する研究データとして「平均値」「標準偏差」「n数」を載せるのは,そのためだったりします.
パソコンや統計パッケージを使うことが当たり前になってくると,そんな基本的なところをすっ飛ばしてしまうようになります.注意が必要です.

では最後に,得られたt値から「TDIST」というエクセル関数を使ってp値を出しましょう.
対応のあるt検定では以下のようになります.

t値を選んだあとは,自由度のところに「n−1(5−1)」である「4」を.
尾部には両側検定である「2」を入力します.

対応のないt検定はこちら.

こちらは,t値のあとの自由度は「全n−2」になりますので,「10−2」である「8」を.
尾部は同じく両側検定の「2」を入力します.

以下のように,エクセル関数で算出したものと比較しても,同じp値であることが確認できます.



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Excelで多重比較まとめ
ExcelでTukey法による多重比較
ノンパラメトリック検定で多重比較したいとき
ノンパラメトリック版Tukey法による多重比較「Steel-Dwass法」
エクセルExcelでの簡単統計(対応のあるt検定と多重比較)

ちょっとした統計処理上のエクセル小技はこちら
エクセルで相関係数のp値を出す
エクセル散布図で相関関係・相関係数を確認する便利な方法
エクセルで大量のデータを等分割して統計処理したいとき
エクセルで大量のデータを処理したいとき
エクセルだけで統計処理する卒論・ゼミ論用アンケート調査のオススメ方法 part1
点数・得点を段階評価するためのエクセルシートの作成

その他,こういう怪しいブログ記事よりも,ちゃんと勉強になる書籍もご紹介しておきます.
詳しくは,
独学で統計処理作業をスキルアップさせるための本
を御覧ください.


2017年10月2日月曜日

ラスベガスで起きた銃乱射事件について

被害者の方々にはお悔やみを申し上げるとしても,アメリカでこういう事件が起きてもあまり驚きが無いのが正直なところですね.
つくづくヤバい国だと思わされます.

ただこれ,人類の長い歴史の中で,どこかで誰かがやりかねない事件ですよね.
かつて,やろうと思った人はたくさんいたはずですし.
今回の犯人は,たまたま銃や弾をたくさん買える経済力と,射撃の腕前が優秀だったからこれだけの被害が出たと考えられなくもない.

YouTubeで現場の映像を見ましたが,マシンガンをフルオートで撃ってますよね.しかも夜に.
普通なら当たりにくいはずなのですが,これには高いところから人の密集地に向かって撃つという,とても合理的な方法で対処しています.冷酷なほど頭がいいですね.
案の定,犯人は自殺していたそうです.ある種の自爆テロ.

「アメリカは銃社会だから」というコメントも散見されますが,こうした事件とはあまり関係ないと思います.
日本でも昨年,神奈川県相模原市で銃も使わず20人近く殺害された事件がありました.その前は,オタクの聖地で暴れた人もいます.
日本では刃物を持って無差別殺人するのが主流なんですね.もしかすると海外では,やっぱり「日本はサムライ社会だから」と言われているのかもしれません.

本人が死ぬ気でいるなら,東京の満員電車にガソリンタンク背負って火を付ければ,50人くらいは余裕で殺せます.
別に死ぬ気がなくても,ジワジワと拡散する毒ガスを車内にバラ撒けば何十人も被害が・・・って,それは既に経験済みですね.
電車内でのガソリン着火にしても,2年前に東海道新幹線で死傷者を出しています.この時は,車内が混み合ってなくてよかったですね.

こういう事件が起こったのですから,これに喚起されて類似した「自暴自棄による大量殺人事件」が発生しないことを祈るばかりです.
著名人の自殺とか,未成年の自殺などが取り上げられると,それに呼応するように自殺者数が増加するという現象がありますよね.ウェルテル効果というやつです.
ウェルテル効果(wikipedia)
有名なものだと,「盗んだバイクで走り出す」の尾崎豊の自殺への追従自殺とか,最近は子供のいじめ自殺なんかがウェルテル効果ではないかと考えられています.

つまり,自暴自棄による大量殺人というのは,ある意味で「自殺の演出」の一つとも考えられるため,今回の事件を受けて「どうせ自殺するなら,ラスベガスの銃乱射事件のように派手に行こうぜ!」という着想に至る人が増える可能性があります.

実のところ,一般人による大量殺人は,やろうと思えば結構容易にできてしまうんです.
大量殺人を計画している時点で,一般人ではないのかもしれませんけど.
逆に言えば,思いつきでの大量殺人は難しいということでもあります.

ですから,大量に人を殺そうと計画するような段階に至らせないことが大事ということになります.

ところで,コンサートも大変でしょうけど,オリンピックは大丈夫なんでしょうかね.
ひとまず韓国の冬季大会を様子見としましょう.
東京大会は厳重な警備体制が求められます.

2017年10月1日日曜日

新型トラックボールの使い心地

私はいわゆる「マウス」をほとんど使っていません.
「トラックボール」というタイプのポインティングデバイスを使っています.

トラックボールというのは以下のようなものです.
このLogicoolのトラックボール・シリーズを,有線タイプだった頃から,からかれこれ10年以上使っています.


親指でボールを動かしてポインタを操作する方式です.
人差し指と中指はマウスと同じように使います.
腕を動かさないので,私としては疲れにくい気がします.
でも,この「疲れにくさ」は人によると思います.人によっては親指ばかり動かすことが疲れるという人もいますので.

ちなみに,マウスを全く使わないわけではないんです.
トラックボールをはじめとし,タッチパッド(トラックパッド)やマウスは作業によって使い分けています.
それぞれ得手不得手な作業がありますので.

トラックボールはエクセル作業や,我々が使う学術的な専門性の高い分析ソフトの作業に強いんです.ボールを動かさない限りポインタがブレないので,確実性の高いポインティングができます.手を離してもポインタがズレたりしません.

一方,ワードやパワポにはマウスが強い.指ではなく,腕や肩を使って操作しているので,ポインタを自在に動かす感覚が高い方が文書作成や図表作成のためには作業がしやすいんです.

タッチパッドは,トラックボールやマウスの補助として使っています.
左側に置いといて,右手でキーボードを入力している時などに左手でポインタを動かしたい時に使うのです.
以前は,マウスやトラックボールにならって「タッチパッドはキーボードの右に置くもの」という既成概念が私にはあったのですが,たまたまキーボードの左側に置いて仕事をした時に,思いの外便利だったので,以来,高速作業が求められる場合にはこのスタイルにしています.よくよく考えてみれば,ノートパソコンではキーボードの手前に配置されていますよね.
Appleのトラックパッドは指の繊細な動きに追随してくれるので,エクセル作業やパワポでのスライド作成などでも,ワンポイントの細かな作業をしたい時に重宝します.

ところで,トラックボールの最大の強みは,作業場所が狭くても大丈夫な点です.
実際,腕は全く動かさないまま作業できますので,手元に資料や他のデバイスを並べて作業する場合には強力です.
私としては手元にいろいろな物を用意して仕事したいタイプですので,トラックボールに出会った時は感動モノでした.

最近,Logicoolのトラックボールに新商品が出ました.
それがこちら↓


どうしてこんなに高価なのか?
という疑問はさておき,トラックボール・ユーザーの私としては即買い.
さっそく使ってみましたよ.

その使い心地ですが,「非常に良い」です.

以前のモデルと大きく違っているのは,傾斜角がついていること.
以下を御覧ください.右が旧モデル.左が新モデルです.


実は私自身,旧モデルを使っていて腕が疲れてきたら,机とトラックボールの間に5mm程度の厚さのものを挟んで親指側を浮かせていました.
今回のモデルでは,最初から親指側が浮かせられるんです.かゆいところに手が届くとはこのこと.

あと,
「長いスクロールなどを素早くできる“スピードモード"、より精緻にトラックできる"プレシジョンモード"の2つをすぐに切り替えることができます。」(商品紹介ページより)
という機能がついているのも私好みです.

私としては現段階では恩恵を感じていないのですが,
「 Easy-SwitchとFLOW機能により、2台のコンピュータ間でテキスト、画像、ファイルをコピー・ペーストするなど、シームレスな作業が可能。」(商品紹介ページより)
という機能もついています.慣れてきたら便利に感じられるのかも.

そうそう,トラックボール最大の魅力は,「寝てても作業ができること」です.
椅子にゆったり座ったままでも,布団に入ったままでも,手元でポインタを動かすことで,かなりの作業ができます.

マウス操作が煩わしいと感じている人がいましたら,まずは安めのトラックボールから試してみてはどうでしょうか.


2017年9月21日木曜日

井戸端スポーツ会議 part 50「最も強い表現で非難する」

昨日の記事でも書きましたが,現在日本は北朝鮮に対し「最も強い表現で非難する」という声明を出しています.
菅官房長官「最も強い表現で非難」 北朝鮮のミサイル発射で(日経新聞2017.7.29)

「『最も強い表現で非難する』とは,これいかに?」
というネット記事も見かけますが,案の定,国際的な声明の出し方に準拠したものなのだそうです.

ようするに,日本語で最も強い非難の言葉を述べたとしても,相手国の言語にとってはどの程度の非難なのか解釈するのが難しくなるのですから,「私は今,最も強い非難をしているんですよ」ということを表すために,それをそのまま伝えているということです.

例えば,相手国に「怒髪天を衝く心境です!」と伝えたとしても,言われた国によっては「ヘアジェルの量が多すぎて困っている」と捉えるかもしれませんし,「はらわた煮え繰り返る思いです!」と伝えても,「モツ鍋が美味しそう」と間違われるかもしれない.

つまり,「最も強い表現で非難する」というのは,
「私は今,あなたが思いつく中での最大級の非難表現をしていると脳内変換してください」
という日本外交の約束事なのです.

ちなみに,私も過去のブログ記事で似たような手法を用いたことが何度かあります.
例えば,■子供の自殺原因「いじめ」は2%,という記事への反応への反応
実際の使用例は以下のとおり.
これについて私から言えることは,もうこの国の大勢,少なくともネット閲覧者の多くが,想像を絶するほどに◯◯だということです.
※上記の◯◯には,考えられる最も侮蔑的表現を想像で入れてもらって結構です.
本当に諦めました.やっぱりこの国はダメかもしれません.
やばいです.
直接言及しても,それは相手にとっては侮辱にはならないかもしれませんし,最大級の侮辱的表現は人によってマチマチでもある.
だから,その表現については読み手に一任しましょう,ということです.

それに,直接的に言ってしまうと,いわゆる “コード” に引っかかるということもあります.それを回避するためにも有効な手法でしょう.
総理大臣や官房長官が「このハゲー! テメエらはクソだ! 死んじまえ!」って言ったらマズいですよね.

そんなわけで,外交において非難声明を出す際には,あらかじめ表現にグレードを用意しておいて,その用意された外交プロトコルに合わせて声明を出しているわけです.
政府の言う「遺憾」はどこまで強い非難なのか?「上から4番目」(エキサイトニュース2015.5.31)
それによると,「外交プロトコルによる非難の表現」とは,以下のような等級になっています.
最大級:断固として非難する
    非難する
    極めて遺憾
    遺憾
    深く憂慮する
    憂慮する
    強く懸念する
最小級:懸念する

というわけですから,「最も強い表現で非難する」というのは,日本国における退っ引きならない外交表現ということになります.


そう言えば,この記事は井戸端スポーツ会議でしたね.実は,スポーツ科学でもこれと似たようなものがあります.
ボルグ・スケール(Borg scale)と呼ばれる心理尺度で,心理分野だけに限らず体育・スポーツ領域全般でよく知られているものです.

主観的(自覚的な)運動強度(RPE:rating of perceived exertion)を測定する尺度で,その中でも特に有名なのが,心理学者のボルグ博士が考案したボルグ・スケールです.

一般的には,ジョギングやウォーキングといった有酸素運動時における運動強度や疲労感の測定に有効だとされています.
いろいろな尺度が考案されていますが,代表的なのが以下のようなもの.
最低6から最大20までの15段階のものがこちら↓
6
7 Very, very light(非常に楽である)
8
9 Very light(かなり楽である)
10
11 Fairly light(楽である)
12
13 Somewhat hard(ややきつい)
14
15 Hard(きつい)
16
17 Very hard(かなりきつい)
18
19 Very, very hard(非常にきつい)
20 Maximal(最大)
実はこの15段階尺度,「6」から始まるには理由があります.
各等級の数値に0をつけることで,その時の心拍数が推定できるんです.
例えば,「15 きつい」という運動をしている時は,心拍数を計測すれば約150拍/分になっているということ.

今すぐ簡単に試すことができます.
階段昇降とかスクワット運動など,何でもいいので2〜3分間の運動をします.
その直後,心拍数を計測します.最も手軽なのは,橈骨動脈か頸動脈で触れる拍動を10秒間計測して,それを6倍するという方法.もしくは15秒間計測して4倍すると良いでしょう.
そして,上記のボルグ・スケールを見て,その時の運動による疲労感やきつさを回答します.
おおよそ心拍数と一致しているのではないかと思います.
運動したけど「楽である」と感じたのであれば,約110拍/分.「かなりきつい」と感じたのであれば,約170拍/分といったところです.

つまり,英語圏の人が「Hard」と思っている時というのは,日本人にとっては「きつい」と思っている時であり,さらにはその時両者の心拍数は約150拍/分ということ.
結構おもしろいでしょ?

それだけに,ボルグ・スケールにおける最大強度には「最大(Maximal)」とだけ表記されていて,最大級の表現がないのも興味深いですね.
まさに「最も強い表現で『きつい』」ということなのです.

人によっては「死にそう(be dying)」とか「三途の川が見える(see the Grim Reaper)」とかになるのかもしれませんが,こうした表現も人によってマチマチでしょう.
それに,研究論文中に,
「被験者が『死にそう』と訴えた時点で運動負荷を終了した」
とか,
「被験者が『三途の川が見える』と感じた時点での測定値を記録した」
なんて書いたら倫理的に問題ですからね.

2017年9月20日水曜日

このタイミングでの解散選挙って凄くね?

にわかに「衆議院解散」が喧しくなってきました.
どうしてこのタイミングなのか?
我が国の首相はトチ狂ってしまったのでしょうか,さっぱり意味が分かりません.
安倍首相 25日に会見 解散に踏み切る理由を説明へ(NHKニュース)

もっとも,トチ狂っているんじゃないかと思うのは今に始まったことではありませんから,あまり驚きもしないのですけど.
いよいよこの国の社会も末期を迎えたのかもしれませんね.

ネトウヨと称される人たちが,つい先日まで,
「北朝鮮問題や災害対策に予断を許さない中,森友学園だの加計学園だの言ってる場合じゃない!」
などと熱り立っていましたが,彼らの教祖である安倍晋三の頭の中には,今は北朝鮮や災害よりも選挙をした方が良いという予断があるようです.
見事なブーメラン(©ウヨク)と,梯子外し(@ウヨク)ですね.

そんなこと言うと,こんな反論もあるかもしれません.
「この選挙は,北朝鮮問題や災害対策に注力するための基盤づくりのための選挙だ」

でもそれは,つい先日に内閣改造した政府に対しては苦しい擁護です.
安倍首相は先の内閣改造でこう言いました.
安倍晋三首相、信頼回復へ「仕事人内閣」 第3次改造内閣が発足(産経新聞2017.8.3)
政権の信頼を回復するため、新内閣を「結果本位の仕事人内閣」と名付け、経済最優先で政策を推進していく考えを示した。
(中略)
今回の改造について「幅広い人材を糾合し、国民のため、しっかりと仕事に専念できる態勢を整えることができた」と強調した。
ところが仕事せずに,結果も出さずに解散する運びとなるわけですから,これでは「危機対応よりも自己保身を目的とした選挙」と言われても反論の余地はないと考えられます.

ウヨクこそ安倍晋三を批判すべきではないのですか?
森友だ加計だと言ってる場合じゃなかったのですから,尚の事,今は「選挙」どころではないでしょう.
ましてやミサイルがポンポン飛んできている最中.すぐまた次のミサイルが撃ち込まれるかもしれない状況です.
そんな事態にあって,政治の空白期間を作っても良いという自信はどこからくるのか.

つまり,我が国の首相は,この極東での不穏な動きに対しては,慎重に対応しなければならない喫緊の課題ではないと捉えていることになります.
ウヨクはよく「サヨクはお花畑だ」と言いますが,バカ言っちゃいけない.
ウヨクこそが,その総本山・安倍政権こそがお花畑です.

一般的に,国家安全保障に関わる出来事があった直後は,その政権がどんなポカをやらかしたとしても支持率は上昇します.
あの民主党・菅政権ですら,「東日本大震災」の直後は支持率が回復するんです.
菅内閣の支持率推移(時事トピックス)
今は北朝鮮問題が緊迫していますので,案の定,現政権である安倍内閣の支持率は回復しています.
そういう場面を狙って選挙をすれば,議席を取れる確率は高まるわけですね.
それを素直に,まことに素直に実行しているのが安倍晋三のようです.

私はこう考えることにしました.
北朝鮮問題は気にしなくていい問題だ,と.
腐っても日本国首相・安倍晋三です.彼がこの時期これほどまで脳天気に選挙のことを考えてられるんですから,きっとミサイルも撃ち込んでこないんだろうし,人為的な理由で緊急事態になる可能性は極めて低いのでしょう.
以前からそんなサインはありました.安倍首相は,公邸に住まず自宅に住むことを好みます.
安倍首相が公邸に住まないのは「犬」のせい? 危機管理意識を批判する声も(ハンフィントンポスト2013.11.9)

危機意識が低いんではなくて,諦めているんだと思います.
公邸にいようが自宅にいようが,何か起きても何もできないことに変わりはない.
同様に,選挙中にミサイルが飛んできても何かできるわけでないし,何の対策もとれない.どっかに着弾しても「選挙中だったから仕方ないね」って.
それが実際のところではないかと考えられます.
だからこんな状況でも無邪気に「選挙するよ」って言い出せるんだと思うんです.

2017年9月12日火曜日

「本能寺の変」に関する明智光秀の書状が見つかったらしい

今日,こんなニュースがありました.
明智光秀:密書原本 本能寺の変直後,反信長派へ 室町幕府再興目指す(毎日新聞2017.9.12)
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはししげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。
(中略)
藤田教授は「光秀が、まず信長を倒し、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。
過去記事の「鳥無き島の蝙蝠たち」シリーズで取り上げていた,「本能寺の変・長宗我部元親暗躍説」と関連するかもしれないということです.

今回発見された雑賀衆・土橋に宛てた文書と,以前から注目されていた斎藤利三に宛てた「石谷家文書」から,本能寺の変が案外簡単な理由で動いていたことが推察されます.
摩訶不思議な謎も,分かってみればシンプルな解というのはよくあることです.

つまり,織田信長と対立した四国の長宗我部元親が,信長による「四国征伐」を止めるため,明智光秀を利用して信長を暗殺したのではないか? ということ.
そして,光秀としては主君である信長を暗殺するほどの大義名分を「室町幕府再興」に求めたのではないか? ということです.

おそらく,元親は光秀に対し,室町幕府を再興する手伝いをする代わりに信長を討ってもらう約束をしていた可能性が高い.もちろん,光秀としては幕府再興のためとは言え,主君を不意打ちするのですから事後に何を言われるか不安だったでしょう.その時に加勢してくれる味方は多い方がいいし,自分の行いを「あっぱれ,光秀,日本一のサムライ」と認めてくれる仲間(サクラ)を用意したいところです.
その一人が元親だったのではないか.

室町幕府再興という大義名分であれば,将軍・足利義昭を保護している毛利輝元は支援してくれるだろうし,元親(四国)と輝元(中国)の伊予・瀬戸内海における対立もそれによって和解にもっていける可能性もあった.
ついでに雑賀衆も味方につければ,一気に近畿と京都を制圧できるはずだったのです.
さらに,明智光秀が出した文書の宛先である雑賀衆の土橋重治は,長宗我部勢力と親密だったとされています.

以下に位置関係を示してみました.

圧倒的に光秀優位な状態だったんです,理論上は.
ところが,光秀の思惑とは裏腹に,元親も輝元も雑賀衆も,世の「風」を読んで動かなかった.
むしろ彼らとしては,自分たちにとって邪魔な信長を光秀に討たせさえすれば十分だった可能性もある.
いずれにせよ,事は水面下で動いていたのだから,真相は誰も知らないまま.
哀れ光秀は,孤立無援になったところを「山崎の戦い」で羽柴秀吉に討たれてしまった.

もう一つ.
秀吉が例の「中国大返し」をして山崎の戦いに挑んだという話ですが,もし秀吉が光秀の企みを事前に想定していたとしたらどうでしょう.
上記の地図をご覧になったら分かるように,秀吉にとっては万事休すの状態なんですよ.
頭のいい秀吉のことです.光秀が「室町幕府再興」を旗印に,毛利と手を組んで挟み撃ちにすることくらい想像したと思います.

中国大返しとは,「光秀を討つため急いで帰ってきた」のではなく,「明智・足利&毛利・長宗我部勢力の包囲網から急いで逃げ帰ってきた」という要素の方が大きいのです.
もちろん,理由はその両方だったと言えます.秀吉としては一刻も早く大阪へ戻り,「光秀を討つ」以外に逃げ道が無かった.
もし秀吉が中国大返しをせず備中高松城に居座っていたらなら,光秀は元親,輝元,雑賀衆と共に秀吉を挟み撃ちにして葬っていたことでしょう.
中国大返しが “異様なほど速かった” のは,「本能寺の変の黒幕が秀吉だった」といった説よりも,「死に物狂いで逃げ帰らなければ,軍団全体が壊滅するほどの危機的状況だった」という説が最も真相に近いのではないかと思われます.

なんにせよ今回の発見は,明智光秀が無計画に織田信長を討ったわけではないことを示唆するものになっているようです.
あと,一連の文書の発見で有力視されるようになった「長宗我部元親暗躍」と「室町幕府再興計画」は,もともと歴史好きなら散らばっている事実を基にして考えそうなストーリーではあるんです.
どうやらその一つが当たっていたようだ,ということ.
普通に考えてみて,なんの後ろ盾も計画もなく,たくさんの人が運用に関わることになる軍団を動かすなんてあり得ないですからね.何かしらの戦略があったであろうことは当然だと思います.

でも光秀さん,本気で「室町幕府再興」を考えていたのであれば,“あの方” のような情熱と執念がなければいけませんよ↓

2017年9月7日木曜日

体育学的映画論「告白」

興行的には大成功した作品ですので,見たことがある人も多いものと思います.
告白(wikipedia)
2010年に公開された,監督:中島哲也,主演:松たか子の映画です.

私はつい最近になって見ました.
学生の頃はTSUTAYAを利用してたくさんの映画を見ていましたが,2008年頃から数年前までは映画から離れた生活をしておりましたので,この映画のことも知りませんでした.
かなり興味深い作品でしたので,先日,気になったので原作も読んだほどです.

見たことがない人もいるかもしれませんので,ウィキペディアから「あらすじ」を引っ張ってきます.
とある中学校の1年B組、終業式後の雑然としたホームルームで、教壇に立つ担任の森口悠子が静かに語り出す。「わたしは、シングルマザーです。わたしの娘は、死にました。警察は、事故死と判断しました。でも事故死ではありません。このクラスの生徒に殺されたんです」一瞬にして静まりかえる教室内。この衝撃的な告白から、物語は幕を開けた。
映画でもこの「衝撃的な告白」から始まるのですが,その時の女性教師役である松たか子さんの演技が非常に上手いので,ここで一気に惹きつけられます.
冒頭のこの30分間だけで十分な作品じゃないかと思わされるほどですが,実際に,原作者によればこの部分だけで一つの作品だったようです.
告白 (湊かなえ)(wikipdida)

映画としてのエンターテイメント性の高さもさることながら,私としては本ブログで度々取り上げているテーマと共通することが興味深かったんです.
具体的に言えば,「世間の目」「大衆の反応」「いじめ問題」「教育の役割」といったところでしょうか.
こうした点は,原作の小説よりも映画のほうがよく現れています.映画監督によるところが大きいのかもしれません.

「少年法により裁くことができない『犯人』への復讐劇」というスタイルで進行する物語ですが,当然のことながら,そこで描かれているのは少年法に関する問題提起などという陳腐なものではありません.

「衝撃的な告白」から年度が明けたこのクラスでは,殺人犯と目される生徒への「いじめ」が始まります.
「お前,ぜんぜん反省してねぇだろ!」と吐き捨て,物が投げつけられる.私物が捨てられる.
そんな調子で盛り上がっていく加害者へのクラスメイトによる私刑は,いじめられている人物がどのような立場にあるかを踏まえても,クラスメイトの側に醜さが感じられます.

相手は殺人犯なのだから,これは「いじめ」ではなく制裁ではないか?
そんなわけで,この『制裁』を拒む生徒に対してもクラスメイトは牙を剥く.「人殺しに味方して,あんたには感情がないの?」

どうして人殺しに味方することができるのか?
それは他者に対して理解する姿勢があるかどうかです.
映画の視聴者の側には,その姿勢が強制的に与えられています.だから殺人犯へのいじめを醜いものとして見ることができる.

クラスメイトたちには,自分たちが「いじめ」をしている自覚なんてありません.相手は殺人犯なのですから,絶対的に正義は我の側にあると考えています.
ですが,こういう正義は疑ってかからなければなりません.

彼らは正義の鉄槌をくだしているフリをして,自分自身が楽しんでいるだけなのです.
誰も本気で殺人犯を制裁しようとなんて考えていない.本当に制裁しようと思ったら,本当に「反省しろ」と思ったのなら,どうすれば「制裁」や「反省」になるのか考えるはずですよね.
でも,クラスメイトたちはそれをしません.
これは中学生,ガキだからではありません.
大人もそうです.
大衆は「本当に向き合わなければならない事」には興味がないからです.

本当に向き合わなければならないのに,それが面倒くさかったり,実のところ興味がないというのであれば,関わらなければいいだけのことです.
でも,それでは楽しくないのが大衆というものです.
原作には,犯人への「制裁」を拒んだ女子中学生によるこんな語りがあります.
ほとんどの人たちは,他人から賞賛されたいという願望を少なからず持っているのではないでしょうか.しかし,良いことや,立派なことをするのは大変です.では,一番簡単な方法は何か.悪いことをした人を責めればいいのです.それでも,一番最初に糾弾する人,糾弾の先頭に立つ人は相当な勇気が必要だと思います.立ち上がるのは,自分だけかもしれないのですから.でも,糾弾した誰かに追随することはとても簡単です.自分の理念など必要なく,自分も自分も,と言っていればいいのですから.
(中略)
愚かな凡人たちは,一番肝心なことを忘れていると思うのです.自分たちには裁く権利などない,ということを・・・.
(中略)
悠子先生,直くんと修哉くんが人殺しなら,ここにいる子たちは何ですか?
いじめ問題や,それによる自殺などが発生すると,ワイワイガヤガヤ炎上することが好きな人達がいます.
そういう構図がすでに「いじめ」であり,事の解決にも,事態の収拾にも,ましてや今後の改善にもつながらないことは明白です.
それに対する理屈を捻り出す人もいます.「いじめの加害者は『制裁』を受けるという空気にしなければ,いじめは無くならない」などというものです.バカですね.

実際,上述した女子中学生は,映画ではこんなことを言います.
たぶん,みんな弱虫だから,悠子先生が突きつけた真実から逃げ出したくて,バカになりすましたんです.
このクラスは2年生です.だからなのか,この女子生徒の語りも中二病なところがありますが,それでも必死に考えようとしています.
人は,バカにされまいともがく一方で,都合よくバカであることを望む.
彼女はクラスメイトをそう評し,それに踊らされる新任教師をバカにしました.

この映画や原作小説では,女性教師による犯人への復讐という視点から始まり,最終的にも結ばれるのですが,事件に関するその他の関係者それぞれのモノの見方も示されていきます.
個々人が抱いている周囲の人物や事態への評価がそれぞれ異なること.これらに各々の言い分があり,そしてそれは「(我々視聴者には与えられている)全体像」を知らないために発生していることが,物語を進めるにあたり明らかになっていきます.

私としては,犯人の一人の母親(映画では木村佳乃が演じている)の心情を考えると居た堪れない気持ちになります.こういう状態になる前に,なんとかならなかったのかと気が滅入るんです.

女性教師が退職した代わりに赴任してきた「熱血バカ教師」なんか,読者や視聴者に対してもかなりのフェイクでしたね.
彼はたしかに熱血バカ教師ではありましたが,それでも本当に熱血だったのだし,何より彼の行動は,実は前年度担任である女性教師の指示によるものだった.
小説では,どうしてあそこまで熱血バカ教師を演じていたのか説明もあります.
なにより,新人教師がこんなクラスの担任を受け持ってしまったことは不運だったとしか思えません.

教師という仕事を簡単に考える人が多いんですけど,とても難しいことなんです.
生徒にバカにされていることが分からない教師なんて,そう居ませんよ.たいてい分かっているんです.でも,だからと言って明日から事態が好転するなんてことはない.
皆が皆,生徒の心をつかむ才能がある人間ではありませんから.
それだけに教育に関する相談相手は重要です.
作中の熱血バカ教師の相談相手は,娘を殺した生徒に復讐しようと目論む教師でした.これも不運ですね.

物事は多面的に見たほうがいい.
当たり前のことですが,それが実際には非常に難しいことと,それを怠った時に何が現れるのかを示している映画が本作です.




2017年9月5日火曜日

危ない大学には危ない教員がいる

先日,本ブログの「危ない大学シリーズ」を読んでくれている大学教員のお一人から,私と情報交換をしたいとのお誘いがありましたので一席設けてきました.
興味深いお話とビールをありがとうございます.この場を借りてお礼申し上げます.

この先生,いわゆる「危ない大学」として,その名を業界の津々浦々まで響き渡らせている,知る人ぞ知るマジで危ない◯◯大学に勤務されている方です.
関係者の皆様に悪影響があると良くないので,大学名は伏せさせていただきます.

赴任した後「まさかこれ程までとは」と思われたそうですが,実はその大学とは私もちょっとしたご縁がありましたので,内部事情が気になっていたところでして.
私がその大学の採用面接を受けた時,面接担当者が話す建学の理念を聞いて「この大学はダメだ」と思っていたので,あぁ,あそこはやっぱりダメだったんですね,と確認できたところでございます.

「建学の理念なんて,あってないようなものだ」と言う人もいますが,建学の理念を舐めてはいけません.
自分たちがどのような大学を作りたいのか,それが人間のためになるのか否かが大切です.
大学が運営方針などに悩んだ時,そこでどのような舵取りをするのかは建学の理念に依るからです.

建学の理念がおかしいと,そこに所属する人たちの行動もおかしくなります.まともだと思っていた人も,タガが外れたように狂った行動をとるようになる.
結果,建学の理念がおかしくて運営方針がデタラメな大学は「危ない大学」になってしまいます.

危ない大学の条件はいろいろありますが,その一つに「教員として危ない奴がいる」というものがあります.
まあ,これは上述したこととの合わせ鏡になっているので,危ない大学だから教員も危ない奴になってしまうという側面もあります.
ですが,危ない大学では危ない教員がのさばりやすくなるのは確かです.

以前,そんな記事も書きました.お暇でしたら,こちらもどうぞ.
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
こんな大学の教員は危ない part 1

でも,今回お話ししたいのは,危ない大学にいることによって「危ない教員」になってしまうことではなくて,「もともと危ない教員」が危ない大学に奉職することによる害悪です.
冒頭にご紹介した危ない大学においても,やっぱり危ない教員がいるそうです.そして,こういう教員が職場を荒らす.

過去記事でも書いていますが,私は「危ない大学は潰してしまえ」とは思いません.潰れてしまうのは仕方ないですが,わざわざ潰す必要はない.
それぞれの大学に集まっている先生方は,その多くがまともな大学教員だからです.
皆さんがまともに仕事をすれば,大学はどこもまともになれます.
ところが,それを「危ない教員」は阻害します.

よく,危ない教員は「こんな大学やってられるか!」と文句をたれますが,実は彼らはまともな大学を望んではいません.
まともな大学では,彼ら「危ない教員」は生き残れなくなりますし,彼らが声を荒げて主張しているようなことを「まともな大学」は受け入れませんから.

突き詰めるところ,危ない教員とは,己が「大学教員」でありたいだけなのです.
大学教員になりたいから大学教員になった.そんな感じ.
そして,得てしてこういう教員は危ない大学に奉職し,不満を撒き散らして職場を荒らします.
どうしてそんなことになるのか.

危ない大学では,とりあえず在籍してくれてれば誰でもOKみたいなところがあります.
当然,そうなると売名目的や「大学教員」というステータスが欲しいという理由,「それだけ」で働く奴が現れます.
働いてくれてればまだマシ.働かない奴もいます.

大学教員になる人って,たいていは「研究するのが好き」もしくは「就活せずに流れに任せてたら成り行きで」とか,あとは本気で「学生の教育がしたいから」という理由です.
この内のどれか一つということではなくて,この3点が混在しています.

ところが,危ない教員は「大学教員」という仕事をするよりも,他にやりたいことがあるんです.
つまり,「研究」と「教育」と「浮世離れ」といった大学教員として必要な要素ではなく,それとは180度異なる,売名とステータスなんですね.
典型的なのは,テレビやラジオ,大衆紙に取り上げられることを好みます.

悲しいのは,彼らにとっての大学教員とは,偉くて,有名になれて,チヤホヤされている存在だと考えていることです.
まともな大学教員だとそういう価値観そのものが弱いので気にしませんが,俗物根性にまみれた人はそう考えちゃうんです
むしろ,「大学教員の多くは,非現実的な世界で脳天気に暮らしている」などと言い出すのは,こういう危ない教員であることが多い.

でも,こういう危ない教員は何かにつけて劣等感を持つことになります.
大学とは第一に研究と教育を行うところであり,浮世離れした存在でも許されるからです.
研究も教育もバリバリやって,それで上記のようなことを言うのであればいいんです.
でも,いわゆる危ない教員は,研究も教育もしません.

一般書籍や大衆紙に向けて書くことは多いのですが,研究誌や学術書は書かないのが危ない教員です.
もちろん,大学ではそんな人は蔑まれます.だから彼らはそういう自分のコンプレックスを隠すため,「私はこんなに有名だ」「社会的な評価を得ている」とアピールしたがります.「研究業績はないけど社会的な業績はある」「教育に時間を割いていないけど,それは別の仕事が忙しいからだ」というように.
彼ら危ない教員にとっては,それこそが大学教員らしい評価だと考えているからです.

つまりは「困ったちゃん」なのですが,現在の余裕のある大学であれば,そういう奴は放っといてもさほど害はありません.
たまにブツクサ言うこともありますが,その大学における常識的空気や,それらが作り出す周りの目が怖いから黙ってることが多いんです.
ところが危ない大学においては,こういう教員こそ「発信力がある」とか「大学教育の在り方を変える突破力がある」などと評価され,そして意外と経営者からのウケはいい.
だから問題です.

他の教員がまともに「大学教員」ができなくなるんですよ.
ちゃんとした授業をやろうとしても,それにコンプレックスを持っている彼らが潰しにかかってきたり,意味不明なイチャモンをつけたりします.
研究しようとしても,そんなところに回す予算があったら,もっと学生のためになることに割いてはどうか? などと心にもないことを言い出します.

教員自身がちゃんと研究して,それを資源とした教育をする.
それが大学教育の根幹ですが,危ない教員としては,それを否定しなければ自分の立つ瀬がないと思っているので潰したいんです.
結果として,その大学が立ち直るための道を断つことにもなっています.
負のスパイラルというやつですね.

ある意味において,研究しない教員がいたっていい.私はそう思っています.
でも,それにはきちんとした条件と理由がありますし,マイナーな存在だとも考えています.
ところが,危ない教員はそういう評価軸があることを理解してくれません.

寂しい話ですが,こうした事態を改善することは絶望的です.もう無理だと思っています.
これについては話が長くなるので,詳しくは過去記事を読んで下さい.


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2017年8月30日水曜日

邪馬台国はここにあったんだと思う

統計学だとか大学改革だとか考えるのも大事ですが,たまには趣味の世界も楽しみたいものです.
ときどき古代日本を妄想する記事も書いておりますので,今回はそれについて.

以前,邪馬台国の比定地をご紹介したことがありますけど,あれは私説へ強引に結びつけるところがありました.
その後も時間があるときに古代日本のことを調べていたのですが,今回,私なりに現時点で最も納得できる「邪馬台国があった場所」が見つかりましたので,その理由とともに取り上げたいと思います.

**邪馬台国はここにあった**
結論から言えば以下の通り.
(1)邪馬台国があった場所は,九州北部(福岡県〜大分県にかけての沿岸部)
(2)邪馬台国とは,「筑紫国」の前身となる連合国のこと
(3)一般的に邪馬台国と称される「女王国」があった場所は,福岡県行橋市周辺から宇佐市周辺
(4)邪馬台国に属さないとされる「狗奴国」とは,九州東部のことで,のちの「豊国」に相当する地域のこと
(5)邪馬台国への道中にあるとされている「投馬国」とは,九州西部のことで,のちの「肥国」のこと

図示すると以下のような感じ.

その理由を示していきます.魏志倭人伝の記述に沿って読み解いていきましょう.
魏志倭人伝の記述は,ウィキペディアから引用しました.

倭人が住んでいる場所
原文:倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
和訳:倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
この魏志における「倭人伝」を書いている人は,自分たちの支配している「帯方郡(韓国・ソウル周辺)」から南へ海を渡った島に「倭人(日本人)」が住んでいる国があって,大陸へ使者が来ていることは知っているのです.
全くの未知の領域というわけではないようですね.

でも,倭人がどんなところに住んでいるのか,詳しくは知らない.だから今回,偵察として使者を送り,その様子を記録したのだと思われます.
ここだけでなく,倭人伝全体を読んでみても,どうやらそんなニュアンスが伝わってくるんです.

ポイントなのは,この「魏志」における「倭人伝」は,あくまで「倭人伝」であり,邪馬台国のことをメインで紹介している記録ではないということ.
詳細は後述するとして,まずは倭人の国への道のりを解いていきます.


**九州上陸まで**
原文:從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
和訳:帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
図示するとこんな感じ.

この文章はシンプルに読み解けると思います.
帯方郡というのは,現在の韓国・ソウル周辺だとされています.
大陸から日本列島に渡るのも,対馬と壱岐島を経由するのが通常の感覚でしょうから,「狗邪韓国」とされているのは現在の韓国・釜山あたりとみてよいでしょう.

帯方郡(ソウル)とされる場所から狗邪韓国(釜山)に行くとすれば,海岸を伝って南下し,そして東に向かうことになりますから,この解釈が成り立ちます.

次は,狗邪韓国から対馬国に渡ります.
原文:始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
和訳:始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
これはそのものズバリ,現在の対馬のことでしょう.

ここからさらに南下します.
原文:又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
和訳:また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
一大国というのは,現在の壱岐島とみて良いと思います.対馬から南方に見える陸地は壱岐島です.
当時の船のテクノロジーからすれば,そこを目指すのが自然です.

一行はさらに南下.九州の東松浦半島に到着です.
原文:又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
和訳:また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
末盧国というのは,東松浦半島にあった国と考えられています.
これまでの道中を図示します.
ここで重要なことを一つ.
渡航者の距離感覚についてです.

当時はGPSや精密な測量器などありませんし,時間を測る時計もありませんから,距離はだいたいの感覚で測るしかないことが予想されます.
これについて,韓国〜対馬〜壱岐島〜東松浦半島のそれぞれの距離は異なるのに,全て「1000里」としているところに注目です.

当時の船はガレー船という手漕ぎボートですから,1日に進める距離は「体力×日照時間」で推定されることになります.
おそらく,1日に船で進めた距離を「1000里」として記録したのだと思うんです.
そう考えると,1000里は約60km〜80kmくらい,1里は約60〜80mですね.
これなら,帯方郡(ソウル)から狗邪韓国(釜山)の距離とも類似します.たぶん,帯方郡から釜山までは7日かけて来たと推定されます.

「壱岐島から末盧国までが1000里では短いのではないか」という記述を見ることもあるんですが,1日必死で漕いだものを1000里としてカウントするのは普通の感覚だと思いますし,天候が少しでも悪くなったら漂流の危険がある時代ですから,壱岐島から最も近い陸地を目指すのが常識的ではないでしょうか.

末盧国を東松浦半島の北端ではなく,現在の唐津市市街地だと考えることもできます.
船出した時に目指したのはの半島の北端.そこから流れの速い対馬海流を受けながら,唐津市市街地を目指すのが人力のガレー船での航行としては妥当かと思います.
それに,半島東部をまわって唐津湾から唐津市市街地へと入ったとすると,対馬から壱岐島へと至る距離と同程度になります.
しかも,この航路であれば,対馬海流に流されたとしても取り付く島があるので安全です.
これなら「船で1日かけて漕いだ距離が1000里」という解釈ができるのではないでしょうか.


**陸路で女王国を目指します(邪馬台国ではない)**
末廬国からは陸路です.
原文:東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
和訳:東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
南東に向かって歩き出したとすれば,やっぱり末盧国は唐津市市街地からやや北部にかけてだと考えられます.
以下のような感じです.
伊都国は末盧国のちょうど真東にあたりますが,御一行が歩き出した方向は南東なんですよ.
末盧国があったとされる唐津市周辺から,伊都国があったとされる糸島平野(および福岡市西部)までは約35km.
文中に示されている距離「500里」は妥当なものと考えられます.

ちなみに,当時は方角を知るには日の出日の入りを頼りにしていたはずです.
さらに,手漕ぎのガレー船で日本海を渡海できるのは7月〜8月にかけてだとされており,御一行は夏に来たものと考えられます
ですから,夏の日の出日の入りの方角を知ることで解釈できるはずです.
日の出日の入りマップというサイトで,7月の各地における「日の出日の入りの方角」を見ることができます.
試しに,7月15日の唐津市から見た日の出日の入りを以下に示してみました.

このように,唐津周辺から東進しようとすると,まずは唐津湾をまわるために南東に進むことになるのです.
もし冬に来ていたら「南東」ではなく,「東」と書いたのかもしれません.

次は大都市と考えられる奴国に至る道です.
原文:東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
和訳:東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
図示するとこんな感じ.
これも末盧国から伊都国と同様,夏季の日の出日の入りの方角からすれば「南東」に位置します.
そこから100里(約7km)という短い場所で想定されるのは福岡市西部になります.
さらに,この「奴国」というのは魏志倭人伝とは別の中国の文献でも福岡市周辺にあった国であることが知られています.
この奴国も,その奴国である可能性は高い.
原文:東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
和訳:東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
奴国は大きな都市とされていますから,きっと福岡市西部で広範囲に広がっているものと考えられます.
その郊外からスタートして,福岡市中心部を流れる川を渡った反対側にある国が不弥国だったのではないでしょうか.
現在ここには宇美町という地域があり,これが不弥国の名残ではないかとも言われています.


**邪馬台国までの道のりを示した謎の文章の解釈**
さて,不弥国までの道程は多くの研究や著作で同じものが語られていますが,そこから先が問題です.
原文:南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
和訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
そして,
原文:南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
和訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
いきなり距離が示されなくなり,「水行20日」などと日数が示されるのです.
その日数が非常に長いことから,これを根拠に「邪馬台国・近畿説」などが語られます.

さらにもう一つ重要なこと.
「邪馬台国」の国名が出るのはここが最初で最後です.
しかも,ここの人口(戸数)の記述だけ投馬国も邪馬台国も推定値になっています.
それまでの記述とは毛色が違っているんですよ.

こう考えることはできないでしょうか.
つまり,著者としては「奴国」という魏(中国)国内でも少しは知っている人がいるほどの,ちょっと有名な国までの距離を記述してきたので,ここで一旦文章をまとめ,『魏志倭人伝』としての全体像を示しているのです.

例えば,東京から京都の金閣寺へ旅行した人の旅行日誌として,こんな文章があっても不思議ではありません.
東京駅から京都駅まで新幹線を使い西へ約500km.
京都駅からは地下鉄で北上し,北大路駅まで約7km.
北大路駅からはバスに乗り換え西に約2.5km向かえば,金閣寺に到着します.
ちなみに,品川駅から大阪までなら「のぞみ号」を使って140分で,
京都の金閣寺までなら「のぞみ号」の120分と,電車と車の移動が60分かかります .
最後の2行のように,旅程を所要時間で示したり,比較対象と一緒に示すことがありますが,これが「投馬国まで水行20日」と「邪馬台国の女王国まで水行10日陸行1日」ではないかと思います.

そして,ここでいう「大阪」と「京都」が,上述した「投馬国」と「邪馬台国」になると考えられます.
ウィキペディアでは「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る」という訳文になっていますが,もしかすると「南に水行10日と陸行1月で邪馬台国(女王の都がある所)に至る」と解釈するのかもしれません.
魏志倭人伝の日本語訳は確定的ではないとされていますし.

そう考えると,投馬国と邪馬台国の戸数をあえて「推定値」として記述している理由も分かります.
つまり,投馬国と邪馬台国はいずれも連合国であり,ここ倭人の国に出向いた御一行は,その全てを見ているわけではないのです.
ですから,伊都国,奴国,不弥国といった女王国に属しているとされる「邪馬台国」の総戸数は7万戸であり,もう一つの倭人の連合国である「投馬国」は5万戸であると考えられます.
常識的に考えてみて,古代日本の一地域に5万戸や7万戸もあるのは不自然です.
逆に言えば,それだけ「奴国(2万戸)」が倭国を代表する巨大都市だったとも言えます.


**基本情報である「帯方郡から女王国まで1万2000里」**
「南至投馬国・・・」から「・・・自郡至女王國、萬二千餘里。」までの文章は,女王国の位置を説明している一連のものです.
ですから,それぞれ別々に解釈するのではなく,一連の文章として読む必要があるんです.
長いですが,そのまま掲載します.
原文:自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
自郡至女王國、萬二千餘里。
和訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
帯方郡(ソウル)から邪馬台国の女王国まで1万2000里だと明言しています.
不弥国までの総距離は1万700里です
ということは,女王国は不弥国から1300里(約80〜100km)のところにあるということになります.

これは長すぎても短すぎてもいけませんから,以下の緑色の領域内が有力候補です.

だとすると,その前に書かれている「水行10日 陸行1ヶ月」の意味も分かってきます.
上述したように,船で進める距離は「1日で1000里」でしたよね.
では,その計算で帯方郡から水行した日数はどれほどでしょうか?
帯方郡〜狗邪韓国:7000里(7日)
狗邪韓国〜対馬国:1000里(1日)
対馬国〜一大国:1000里(1日)
一大国〜末盧国:1000里(1日)
合計10日.つまり,水行10日なのです.


**羅列された21カ国にも掲載するだけの意味がある**
そして,陸行1ヶ月ですが,これを考えるためには「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない」のあとに紹介されている国の合計が21カ国であることがポイントです.

著者は「詳らかにすることはできない」と書いていますが,その後に書かれている国々は,女王国までの「陸行1ヶ月」の間に訪問できた国々のことではないでしょうか.
常識的に考えてみてください.彼らは偵察も兼ねた大陸からの使節団ですよね.1日毎に隣町まで移動して1泊し,その都度,現地の首長からのおもてなしを受けつつ,1ヶ月かけて女王国まで向かったと考えるのが普通でしょう.
そう考えれば,末盧国,伊都国,奴国,不弥国を加えれば25カ国です.
もちろん1日で辿り着けない時もあったでしょうから(末盧国から伊都国の間など),諸々あわせて約1ヶ月.
これが「水行10日,陸行1ヶ月」の正体ではないでしょうか.


**女王国(いわゆる邪馬台国とされた都市)はどこにあったのか**
では,女王国の場所はどこなのでしょうか?
「自女王國以北、其戸數道里可得略載・・・」とありますから,女王国から見て北方に土地があることになります.
さらに,位置を特定するためのヒントは以下の文章です.
原文:女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
和訳:女王国から東へ1000里渡ると,また倭人の国がある。
つまり,女王国の東には海があるのです.
北方に多数の国々を位置させることができて,東方に海を望む場所.
そこが女王国.
ということは関門海峡から東側,福岡県東部から大分県北部が有力候補になります.
これまでをまとめて図示するとこんな感じ.
福岡県行橋市から大分県豊前市辺りが,最もその条件を満たしています.
それに,この位置は不弥国から約1300里(約100km)にも位置しているのです.

さらに言えば,ここは地政学的にも重要です.
船を使った外交や商取引(特に鉄の輸入),情報交換などが活発になってきたこの時代において,関門海峡周辺を押さえることは日本列島の覇権を握ることを意味します.
日本海勢力と瀬戸内海勢力に睨みを効かせられるからです.
原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。
この記述は,現在の北九州市あたりに監察官を担う本部があったことを示していると考えられます.場所としても,ここにそれを置く意義は十分にある.
そして,その監察官は伊都国に常駐していたというわけです.

そう考えると,邪馬台国とは現在の糸島半島から宇佐市までを勢力下に置いていた連合国,つまり「筑前」から「豊前」までの領域に相当し,のちの「筑紫国」の前身になった国ではないかと思えます.


**投馬国はどこにあったのか**
もう一つの疑問を解釈してみましょう.
「南至投馬國、水行二十曰」の投馬国とはどこを指すのか?
東松浦半島までにかけた「水行10日」に追加して,さらに水行10日(合計20日)で行ける場所が投馬国ということになります.

私は,末盧国を分岐点として,九州西部に水行した先の国を差しているのだと思うんです.
理由は2つあります.
(1)魏志倭人伝では,女王国より東方を未知の倭人の土地として描いている.ゆえに「投馬国」が瀬戸内海勢力(安芸,吉備,伊予,讃岐など)や,日本海勢力(出雲,丹後,但馬など)とは考えにくい.
(2)より安全な陸行ではなく,危険でも水行した方が便利な場所にある

当時の大陸(中国・朝鮮)にとって「倭人の国」とは,邪馬台国と投馬国が有名所として知られていたのではないかと思われます.
だから,「魏志倭人伝」として「両国とも帯方郡から南下したところにある」と記した.
邪馬台国と投馬国の両国は,末盧国〜対馬国を経由して大陸と交流をしていたのかもしれません.

投馬国のことが詳しく記載されていない理由としては,大陸からの御一行は邪馬台国にしか行かなかったからではないかと考えられます.
そして,魏志倭人伝においては,詳しく偵察することができた邪馬台国の記録を記述した.
一方の投馬国については,末盧国で「ここから西側に船で10日くらい行けば,投馬国に着くよ.規模は邪馬台国よりちょっと小さいくらいだよ」という情報を集めただけなのかもしれない.
だから,「南へ水行20日で投馬国.同じく南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国の女王国に行ける」という文章になり,投馬国についての詳しい距離や首都の記述がないわけです.

陸行せずに,水行20日のみである理由も簡単です.
以下を御覧ください.

九州西部は,リアス式海岸と諸島が続いており,ここを陸路で旅することは困難です.
陸行は不可能というわけではないけど,船を使った移動の方が便利だった可能性があります.
なので,「水行20日」とだけ記述した.九州西部では陸行することはないと考えられたからです.

投馬国の中心地がどこだったのかは不明ですが,私の妄想としては「大村湾内・諫早市周辺」というロマンを描いています.
ここは川と平地が適度にあり,水路の確保が容易で,しかも有明海を越えて現在の佐賀県や熊本県との交流もできます.
その海洋航路技術も高かったでしょうから,大陸とのつながりも深かったのではないかと思うんです.


**狗奴国はどこにあったのか**
次に,「其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず」についても考えてみましょう.
女王国が行橋市周辺だとすると,その南方には大分県の別府市や大分市があります.豊後の国ですね.
位置関係をおさらいするため,冒頭に示した図を再掲します.
そのまんまです.狗奴国は九州東部の国だと考えられます.

おそらく,狗奴国としては大陸と通じて鉄などの希少資源や新しい技術・知識を欲しがっていたのではないかと思います.
そのためには,関門海峡を押さえている邪馬台国が目の上のタンコブだった.
私の妄想としては,きっと国東半島が九州の火薬庫だったと推察しています.

そんな九州の火薬庫のど真ん中に,日本の歴史上極めて重要で,武運の神「八幡神」を祀る八幡宮の総本社「宇佐神宮」が鎮座しているのも,何かを意味していると考えたくなります.

それに,「狗奴国は別府市・大分市周辺にあった」のだとすると,実は私のもう一つの妄想である「日本神話における『天孫降臨』は四国勢力による九州平定の物語だった」を別の形から説明してくれるんです.
詳細は■古代四国人・補足(国譲りと天孫降臨から空想する)を読んでほしいのですが,つまりは,
「邪馬台国(アマテラス)と争っている狗奴国(サルタヒコ)が,四国勢力(ニニギ)を導いて制圧に乗り出した」
ということです.
興味があったら上記リンク先をどうぞ.


**邪馬台国が近畿ではない最大の理由**
最後に,「邪馬台国九州説」の念押しをしておきます.
原文:參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
和訳:倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。
これって島ですよね.そこそこ小さめの.
本州じゃないですよ.
「一周するのに5000里(約400km)」というのは九州にしては小さいですけど,現地で情報収集したところからの分析ですから,精緻なものではないと考えられます.
ちなみに,グーグルマップで九州1周分を計測すると,約1000kmになります.
もしかすると,一番遠いところまでの距離と間違えたのかもしれませんね.


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2017年8月28日月曜日

マナーは守るものではありません

「記録は破るためにある」などと言われますが,これはマナーにも同じことが言えます.
場合によっては法律もそうかもしれませんが,誤解されると困るのでホドホドにしときます.

先週から立て続けに書いてきた「マナー」に関する記事ですが,ここらへんでまとめておきたいと思います.
ようするに何が言いたいのかというと,ちょっと刺激的な言い方をすれば,
「マナーは守るものではありません」
ということです.

前回と前々回に取り上げたウェブサイトが,ちょうどそれを考える上で便利です.
TOKYO GOOD MUSEUM(Tokyo Good Manner Projects)
「東京グッド・マナー」を世の中に発信するという,極めていかがわしいプロジェクトにそれを見ることができます.

サイトのトップページに,新しくこんな項目が追加されているようです.
「マナーに正解なんてない。だから、みんなで考えよう。『TOKYO GOOD会議』」

いえ,私はこれを否定しません.むしろ,マナーのことをよく分かっているじゃないかと思って感心しているのです.
でも,これは「TOKYO GOOD MUSEUM」の趣旨である,
東京をかたちのない美術館に見立て、東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する
に反しているのではないかと心配してしまいます.
もしくは,改心したのでしょうか.そのうちサイトの趣旨替えをするかもしれませんね.

上記のページに入ってみると,以下のような質問を見ることができます.
そこには,
・飲み会の席。唐揚げについてきたレモンは搾る?
・風邪でマスクをしている。人と話す時は外す?
・タクシーに乗車。上司の席はどこ?
などと,社会人1年生が気にしそうなことだけど,実際はどうでもいい話題がアンケート形式で展開されています.

たぶん,当初は勢いとかノリにまかせて「東京のグッドマナーを「作品」として可視化させ、発信する」ことを考えていたんだけど,あとになって「実は『マナー』ってそういうものじゃないんだよね・・・」ということに気がついて始めたのかもしれません.
でも,誤りを正すのは良いことです.

結局のところ,マナーとは「人々が暮らしやすくするために社会生活をする上での事前申し合わせ事項」でしかありません.
法律や条例といったルール(掟)ではない,柔軟性の高いもの.
トートロジーみたいになってしまいますが,マナーとは法律になっていないからこそマナーなのです.

むしろ問題なのは,マナーをルールと同一視しようとする奴や,マナーを守ることを「人間性」とか「民度」の現れと捉える人です.
所詮は「事前申し合わせ」なのですから,その都度いろいろ変更すればいいこと.
明日は海水浴場で遊ぼうと思って水着や浮き輪を用意していたとしても,朝起きたら雨だったということはよくあります.だったら自宅で映画鑑賞や焼肉パーティーに変更すればいいわけで,昨日決めたことだからと寒さに震えながら海水浴したり,水着で映画鑑賞してたらただのバカですよね.
でも,マナーを「ルール」と思い込みたい人や,これを「民度」の問題だと考える人は,寒さに震える海水浴と同じことをしています.
そういえば,新幹線のホームで4〜5人しか待っていないのに,指定席車両のところで何分も前から一列に並んでいる人がいます.これも水着で映画鑑賞しているようなものですね.まあ,あれはマナーというよりクセでしょうけど.

最近は,なんでもかんでも法律とか条例にしたがる人が散見されます.
むしろ,守らなければいけない法律が廃止になったりする.
今回はそんな話をしたいのではありませんから割愛させていただきますけど.
でも,ここで何が言いたいのかというと,マナーをマナーとして使うためのノウハウが軽んじられているのではないかということです.

現に今「マナー」として存在するのであれば,より暮らしやすくするためにも,誰もが文句を言えない「法律」にしてしまおう,という動きは,否定するつもりはありませんが「良い」動きとは思えません.

マナーはマナーとして存在すればいいんです.
なんとなく「そうした方がいいよね」っていう,ゆるい感じで.
でもそれは,「守られるべきもの」として存在してはいけません.
敢えて言うなら,マナーの本領が発揮されるのは,これを破る時にある.

例えば,上述したTOKYO GOOD MUSEUMの「タクシーに乗車。上司の席はどこ?」についてもそうです.
こんなもの,上司と普段どのように付き合っているかで回答は変わります.
ご案内の通り,マナーとしては運転手の後ろが上座ですが,私であれば上司がよく知った人なら「◯◯さん,どうぞ.助手席にいっちゃってくださいよ」とオススメします.実際はそこが最も楽だったりするので.
私も上司的な立場の時は,「じゃあ皆後ろに座って」と指示して助手席に座ります.代金を支払ったり領収書をとるのも楽ですから.

ビジネスマナーというのも,マナーなのかルールなのか不明瞭な場合が多いですね.
守らなければいけないのであれば,マナーじゃなくてルールにしておけばいいのだし,守らなくてもいいのであればマナーとして放っとけばいい.

こういうこと言うと,「君は教育業界しか知らないからだ.社会人のこと分かってないんだな」と不満を持つ人がいるかもしれませんけど,自分自身がこの世界のどこまでの領域の人と一緒に仕事をしているのか考えてみてほしいんです.
社会人=サラリーマンのような図式がありますが,そもそもサラリーマンなんて全職業における一部の人たちで,「サラリーマン(ビジネスマン)」と一括してメディアで取り上げられやすいことによる錯覚です.
日本の15歳以上人口は,約1億1000万人.そのうち労働力人口は約6700万人で,サラリーマンとして見られる「正規の職員・従業員」は,その半数の約3400万人です.しかもそのサラリーマンだって「典型的なサラリーマン」は少なくなるわけだし,業種も細分化されています.
サラリーマンの多くは,我々教育・研究業界を知らないし,医療,農家,職人,漁業,ラーメン屋や主婦のことも知らない.
世の中の圧倒的多数は,「いわゆるサラリーマン」以外の業種です.

そんなサラリーマンに求められるとされるビジネスマナーは,多分ですけど「一流企業」と呼ばれるところで発生したマナーが,その他の企業や業種でも広まっているんじゃないかと思うんです.
それが「オラんとこでも一流企業のマナーを取り入れよう」という俗物根性とあいまって,まるで「社会人」としてのルールの如く君臨している.
でも,そこでマナーと言われていることは,大規模な企業や限られた業務でしか意味をなさないものですし,マナーとして成り立っていない,すなわち「人々が暮らしやすくする(仕事しやすくする)ための事前申し合わせ事項」になっていない場合もあります.
時折ニュース等で見聞きする,そんな「面倒くさいビジネスマナー」を無視して独自の指示を出す企業や上司というのは,本来のビジネスマナーを再提起したい欲求の発露だと思うんです.

誤解を恐れずに言えば,マナーとは「目の前にした相手や従属する集団への配慮不足,およびコミュニケーション能力の不足を補うための滑り止め」とも言えます.
言い換えるならば,「相手の様子をうかがいながら,最適なものを提供するコミュニケーションが(不本意ながら)とれなくとも,とりあえず「これ」を実行しておけば罪悪感に苛まれなくても済む行為」それがマナーです.

先ほど私は「マナーをマナーとして使うためのノウハウが軽んじられているのではないか」という話をしましたが,マナーをより強固なものとして扱おうとするこの風潮は,それこそこの社会においてコミュニケーション能力が不足してきていることの象徴ではないかと思うのです.
すなわち,面倒なコミュニケーションを取りたくないことの裏返しとして,マナーをルールの如く運用し,その「コミュニケーション能力が求められる場」を乗り切ろうとすることです.

その典型が,昨今の就職活動において重視されている「コミュニケーション能力」です.
学生は,企業就職にしても教員採用試験にしても,とにかくコミュニケーション能力をアピールしようと必死です.
なかには,提出を求められた作文に「私にはコミュニケーション能力があります」とダイレクトに明記する者もいます.
どうして猫も杓子もコミュニケーション能力のアピールに注力するのかと言うと,もちろん企業側が就活生に求めているからです.
2017年現在,いまだ「コミュニケーション能力」が求められています.
求められる能力とは?就活を成功させる秘訣(キャリアパーク2017.7.20)

でも,企業や公務員の人事担当が求めているのは,学生が考えているようなコミュニケーション能力ではありません.
不幸なのは,それについて人事担当と学生の両者ともが勘違いしている可能性が高いこと.実は,企業の人事担当も「コミュニケーション能力」とは何を指すのかよく分かっていないのではないでしょうか.

細かい話はだいぶ前に記事にしたことがあるので,そちらも御一読ください.
子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
(我ながら,今読み返してみても勉強になります)

では,勘違いされている「コミュニケーション能力」とはなんでしょうか.
この記事から引用すれば,
(今,この現代社会では)人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
そんなような社会に新規参入していく若者からすると,その社会で認められるためには,当然のことながらマニュアルにそった模範解答のようなコミュニケーション能力を理想とし,鍛えるでしょう.
だって,クレームに追われ,失言で揚げ足を取られ,それに適切な対応をしたかではなく,事前に予期できなかったのかが問われる「大人」を見ていたら,子供のコミュニケーション能力もそちらにシフトするというものです.
それが若者のコミュニケーション能力が低下していると評されることの正体ではないでしょうか.
記事中にも書きましたが,コミュニケーション能力の低下は「若者」に起きていることではありません.社会全体の傾向ではないかと考えています.
今思えば,安倍政権のモリカケ問題で今年の流行語大賞候補となった「忖度」も,まさにこのマナー問題の行き着く果てと見れなくもない.


つまり, “誰も傷つかない適切な加減”を事前に予期し,それを正確に選択できるか否かが問われている社会にあって,「忖度」こそが最良のコミュニケーション能力として重視されるのは当然の帰結でしょう.

しかし,コミュニケーション能力とはそのようなものではありません.
今回の記事のテーマに沿えば,自分が事前に知っていたマナーで対処できなくなった際に,そのマナーを破る能力のことと言えます.
私が知っているマナーで事態が悪化していくのは,相手がマナー違反をしているからだ.私はマナーを守っているのだから,相手が悪いんだ.
それに対し,「いや,あなたの知っているマナーは最近は通用しない」とか「その場合,こうするのが本来のマナー」などと反論される場合もある.
マナーに関する議論で散見されるのが,こういうやつです.どっちのマナーが正しいのかの論じ合い.
でも,これは典型的なコミュニケーション能力の不足です.
どっちのマナーが正しいのかなんて無意味です.
マナーとはそういうものではありません.

私は「マナーなんて不要」と言いたいわけではありません.マナーは必要です.
しかし,マナーは守らなければいけないものではなく,あくまでコミュニケーション能力を発揮しなくても社会を円滑に進めるための装置として捉え,今その場で本当に必要とされていることが何なのか考える姿勢を失ってはいけません.

少し前に「飲み会の席でポテトフライを注文する」についてネットで話題になっていましたが,これは私の中ではマナー違反だと思います.
松本人志「飲み会でフライドポテト注文は腹立つ」(キャリコネニュース2017.8.7)
本音を言わせてもらえば,飲み屋でポテトフライが注文されないような法律を作ってほしいし,ポテトフライを注文するような奴は民度が低い.
だけど,ポテトフライをどうしても食べたい人がいて,それでなければお酒が飲めないというのであれば,私はそれを認めます.お酒もワインやウイスキーは頼まずに,安めのビールにすればいいんです.それで楽しく飲めるんならいいじゃないですか.
飲み会において必要とされていることとは,皆で楽しくコミュニケーションを図ることなのですから.

もちろん,一緒に飲むのが学生だったら教育的指導をします.
「じゃあ,ポテトフライ2つ」とか言おうもんなら,店員に優しく「あ,それキャンセルで」と断り,だし巻き玉子かホッケの塩焼きに変えさせます.

え? マナーは破るためにあるんじゃなかったのかって?
日本の社会がそんなことだから,今治に加計学園なんかの獣医学部が認められちゃうし,尖閣諸島も中国に乗っ取られるんですよ.
居酒屋でポテトフライを頼んでるような国は,そう遠くない将来崩壊します.



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2017年8月24日木曜日

「日本は諸外国と比べてマナーが良い」と言い放つマナー違反

本件について,もう少し詳細に書いてみます.
前回は,「日本は諸外国と比べてマナーが良い」という自慢こそマナー違反ではないか?
という話しました.
今回は,その「マナーが良い」という理由として挙げられている事例が,実は「マナー」とは関係ないのではないかという話題です.

例えば,最近では「日本人観光客はマナーが良い」と言われているそうですが,30年くらい前は「日本人観光客はマナーが悪い」と言われていました.
30年前の日本人観光客 マナーが悪いと海外で批判されたことも
主にどういった国々からの評価なのかは調べられませんでしたが,おそらく主な渡航先であるアメリカ,ヨーロッパ,中国・アジア方面といった場所であることが予想されます.

どうしてこの30年で日本人観光客のマナーが改善したのかというと,「旅行会社が渡航先のマナーについて指導するようになった」というのが主な理由なのでしょうけど,それにプラスして「一般的な日本人の生活様式やマナーの基準が欧米化した」というのがあると思います.
欧米以外の中国や東南アジアといった地域に渡航したとしても,そこでの宿泊施設は欧米式のものが多いですから.

ちなみに,「日本人観光客はマナーが良い」という話の出典元は,アメリカの旅行会社「エクスペディア」が2002年および2007〜2009年にホテルに対して行なった調査です.
細かい調査結果は以下のサイトで見ることができます.
「世界最良の観光客」2007-2009年度 国別ランキング

ところがネット等では,この調査結果を拡大解釈しているものが散見されます.
この調査は「国民のマナー意識の高さ」を総合的に判断しているものではないし,街行く人にインタビュー調査したものでもなく,「ホテルのマネージャーが選ぶ優良観光客」なんです.
「マナーの良さ」はその尺度のうちの一部に過ぎないのに(もちろんそれが1位なのだが),その他の「チップが多い」「苦情を言ってこない」などを含めて総合得点を出しているものです.

実際,この調査は旅行会社やホテル側の目線で選ばれているものであり,決して一般的な環境下でのマナー意識を調査したものではありません.
意地悪く見れば,「日本人には融通がきく」「カモりやすい客」ということの裏返しであるとも言えます.

それを推察できることとして,この調査では日本人は2007年〜2009年まで総合ランキング1位ですが,それ以外の国は年によってバラつきが大きいんです.前年にワーストだったかと思えば,次の年にはベストに入っていたりする.
ようするに,「海外旅行への積極性・主体性」の現れではないかとも考えられます.
日本人は言葉の壁を気にしたり,欧米コンプレックスがあるとされますので,ホテル側が提示したことに何でも「YES!」「OK!」などと言いがちなのかもしれません.それをもって「マナーが良い」と言われても,ちょっとバイアスがかかっているかと思います.

前回の記事でも書きましたが,なにも私は「日本人はマナーが悪い」と言いたいわけではありません.
「外国人から『マナーが良い』と言われている」という話があったとしても,簡単に受け取らず,もうちょっと慎重に受け止めなければいけないのではないかと言っているのです.

私自身,これまで海外経験を積んで,様々な国の外国人と仕事や交流をしてきた中で思うのは,各国それぞれ特徴があるのは感じますが,その素行や振る舞いに優劣はつけられないということです.
考えてみれば当たり前で面白くない話かもしれませんが,それが正直なところ.

ましてや「マナー」です.
繰り返しになりますが,マナーとは当該地域の定住者が暮らしやすくするために設けた慣習・技術です.全国一律,世界一律に「良い/悪い」と評価できる基準があるわけではありません.

例えば,「遺失物の扱い」もその典型です.
「日本では財布を落としても戻ってくる」ということが取り沙汰されることがありますが,これも慎重に考えてみれば「民度」や「マナー」と関係づけることも難しくなります.

警察の統計が示すように,日本で拾得物(拾って届けられた物)の件数が増加したのはここ最近の話です.昔から高かったわけではありません.
遺失物取扱状況(平成28年)(警視庁調べ)
もっと慎重に考えてみれば,どうして最近になって遺失物が増加したのか気になります.
おそらくは一億総中流と言われるほど日本国民の中間層が厚くなることで,ネコババすることに利益を感じない人が増えたことが考えられます.
貧すれば鈍すると言いますが,豊かになればその逆になります.

もっと直接的な要因も考えられます.法律です.
皆さんは遺失物(落とし物)を見つけたらどうしますか?
「警察に届け出る」とか「駅員などに渡す」というのが思いつくことでしょうか.
では,どうしてそんなことをするのですか?
「そんなの当たり前じゃないか.昔から落とし物は警察に届けましょうって教えられてるだろ?」って思われるかもしれませんけど,この思考パターンも疑ってかかる必要があります.

日本では落とし物を拾った人は,それを届け出なければ犯罪(遺失物横領罪)になります.
「落とし物が戻ってくる国,日本」を自慢したい人にとっては残念ですが,実は日本では落とし物は警察に届け出なければならない法律があります.自慢するもなにも,国民の義務なんです.
遺失物法(日本国)
しかも日本は結構厳しい法律でして,「拾得者は、速やかに、拾得をした物件を遺失者に返還し、又は警察署長に提出しなければならない。」となっています.
しかも,きちんと警察が捜査してきます.
つまり,日本では「落とし物を届ける」のはマナーなどではなくて,ルールなんですね.

そしてこれは,世界の常識的な考え方ではありません.

実は,落とし物の扱いって国によって違うものでして,こうした遺失物の管理や取り扱いが面倒なことになることを避けて「受け取らない」というシステムを採用し,法律やその運営方法も「拾った人に一任」しており,その代わりに「保険」で対応するようです.
遺失物に関する国際調査報告があります→■遺失物に関する法律

それによると,例えばフランスでは一応は「遺失物横領」の法律は存在するのですが,実際は採用していないのだとか.
イギリスでは,拾得物を警察に差し出さなかったからと言って罪に問われることはありません.拾ったもん勝ちです.

一方,カナダは日本と類似した状況のようです.実際,個人ブログではありますが,カナダでの落とし物は戻ってきやすいことを報告するネット記事があります.
バンクーバーでの落とし物は戻ってくるのか

アメリカでは州によって異なり,首都ワシントンでは拾得物の届け出義務は無く,ニューヨークでは厳しめです.
これもそれを裏付けるような調査があります.
世界の各都市で財布を12回落とし,何回戻ってくるかを検証した結果(海外の万国反応記)
ニューヨークでは遺失物が戻ってきやすいのですね.これがワシントンDCだと戻ってこない可能性が高い.

上記の調査では,フィンランドとインド,そしてロシア,ハンガリー,オランダも戻ってきやすい結果のようですが,これらの国も日本やカナダと同様に遺失物を返却しなきゃいけない法律があるのではないでしょうか?
私はフィンランド語はわからないのですが,ウィキペディア・フィンランド版を日本語訳と英訳して見る限り,どうやらフィンランドでも日本と同様「遺失物横領」については厳しい罰則があるようです.
だからフィンランドも遺失物が戻ってきやすいのかもしれません.
Löytö(「遺失物の拾得」wikipediaフィンランド版)

つまり,日本は「落とし物」や「忘れ物」は元の所有者に返さなければならないという思想を「採用」しており,それに基づく法律がある国に属していることが分かります.
そして,同じくそうした法律を厳密に採用している国や地域では,日本以外でも「落とし物が戻ってきやすい」のです.それだけのこと.
タネ明かしをすれば,どうってことはない話です.

それをいちいち「日本は落し物が戻ってくる素晴らしい国なんだ」と,自慢げに喜び呆けている.
恥ずかしいのでやめてほしいんですよ.

これについては,
「いや,日本人は『落とし物は元の人へ返す」を法律にするくらいマナー意識が高いと言えないか?」
などと粘る人もいるかもしれませんけど,事はそう簡単ではありません.

日本人にとっては当たり前のことでも,お国柄や伝統,歴史的経緯によっては,拾った物は拾った人の物という考え方にしておかなければ,また別のトラブルを生むという教訓を得てきた国だってあるでしょう.
ネットで調べてもたくさん出てきます.「謝礼でトラブる」とか「本当に拾ったものか疑われる」とか「犯罪に巻き込まれる可能性」とか.あと,遺失物の管理が膨大です.
それならいっそ,警察や公的機関はタッチしないと構えるのも一つの思想です.
これは人間性とか民度の話ではなく,各国の文化や事情,慣習です.優劣をつけられる話ではありません.

例えば,日本ではコンビニにポルノ雑誌が置けますが,諸外国では違法です.ポルノ雑誌の販売そのものが違法という国もあります.
日本では「ポルノ雑誌が入手しやすいことで性犯罪を防げている」という理屈を通そうとしますが,他に言わせれば「普通の本屋に置けばいいだろ」とか「目のつくところに置いておくこと自体が性犯罪だ」などと理屈を言う.
どちらが正しいとも言えません.
各国,それぞれに思想と理想,そして事情がある.それだけのこと.

さらに言えば,日本で遺失物が返ってきやすい背景には,警察や公共交通機関の人に負担をかけさせているからとも言えるのです.
届け出ても受け取ってくれない,届け出たらそれが町や国の財産になるような国で,あなたはそれでも拾得物を届け出るでしょうか?
その点,日本の警察や駅員は拾得物をきちんと管理してくれます.

遺失物の管理は非常に面倒です.維持管理費も莫大なものになるし,扱いに困る物もある.
例えば警視庁の統計では,2016年では約383万件の拾得物の届出がありますが,一方で,遺失物の届出は約100万件です.「落とし物をしちゃったんですけど,届いてないですか?」って聞いてくる人は,拾われて届いている件数の約25%しかないんですね.
そんなもののために,予算と人員とスペースを用意してくれているのが,日本の警察なんですよ.まあ,そういう法律を採用しているんだから仕方ないけど.

何度も繰り返しますが,だからって「日本人はダメ」と言っているわけじゃない.
落とし物を届け出る意識は大事です.それは否定しません.
遺失物は,元の所有者の手元に返ってくるべきだよね.っていう理想を実現するため,ネコババされにくいように「遺失物横領罪」を用意して社会を管理している,そういう国々の一つが日本なのだと思います.

それによって,日本は落とし物や忘れ物が所有者の手元に返ってきやすい国になっています.
ただしそれは,「マナー」として形作られているものではありません.
人間が「そういう行動」をするのには背景や理由があり,決して「人間性」とか「倫理・道徳性」の優劣ではないということです.

マナーというのは,そういうルールや法律を超えたところに現れるものです.

例えば,落とし物は自分のものにして良いはずのイギリス人にしても,それが持ち主にとって貴重な物だと感じれば返すようです.イギリスの大学の実験調査によると,財布に「赤ちゃんの写真」や「家族の写真」が挟んであると,返ってくる確率が高くなるとのこと.
驚きの効果!海外では赤ちゃんの写真をお財布に入れよう(日刊ニュージーライフ)
その確率,なんと88%.
拾ったら自分のものにして良いルール(法律)の国なのに,ですよ.

私は難しいことを言っているのではありません.
実は日本人の観光客はマナーが悪いのだとか,日本人は本当は落とし物を届け出ない奴が多いのだ,などと天邪鬼になりたいわけじゃない.
自分たち自身がマナーが良いということを,いちいち喧伝しなくてもいいと言っているのです.それこそマナー違反でしょう.

そしてなにより,自分たちが喜び喧伝している「マナー」とは,本当にマナーと言えるものなのかどうか,常に省みるべきだと思います.

2017年8月23日水曜日

恐怖!TOKYO GOOD MUSEUMとかいう謎のプロジェクト

「江戸しぐさ」がデタラメであることを先日の記事で取り上げましたが,その後,次から次へと芋づる式に出てきます.
今回は「TOKYO GOOD MUSEUM」という恐怖のプロジェクトについて.

これは前回の「整列乗車」の記事を書いている時に見つけました.
微妙にかっこつけたデザインのウェブサイトもあります.
TOKYO GOOD MUSEUM(Tokyo Good Manner Projects)

まだ「江戸しぐさ」みたいなものにシンパシーがあるのかもしれません.
懲りない東京人は,新たな「江戸しぐさ」を開発しているようです.

昨年の9月から始めたみたいです.
浮世への関心が低い私の目には止まっていませんでしたが,今回調べてみたら恐ろしいプロジェクトであることが判明しました.

TOKYO GOOD MUSEUMとは何か?
上記のサイトにはこうあります.
~東京をより魅力的な都市へ~
2016年9月、国際都市・東京を舞台とした新しいかたちのマナー向上プロジェクトの推進母体として、一般社団法人Tokyo Good Manners Project(略称TGMP)を設立しました。
(中略)
都市のマナー向上というと、世界の各都市で行われているような「ゴミを捨てない」、「交通規則を守ろう」といった公共マナー向上キャンペーンが思い起こされますが、本プロジェクトはこのようなマナー啓発をするものではありません。なぜなら、東京のマナーの良さは世界から認められ、評価されているからです。
この “書きぶり” からして,なんだか嫌な予感がします.
続きを読んでみましょう.
TGMPが実施した「東京のイメージ」に関する調査によると、「人のマナーが良い」と答えた外国人が全体の約7割(64.9%)に上りました。しかし、「人のマナーが良い」と答えた東京都民は3割以下(24.6%)にとどまり、マナーに対する東京都民と外国人の認識には大きなギャップがあり、都民の自己肯定意識が極めて低いということがみてとれます。
TGMPでは、東京で暮らす一人ひとりが自分たちのグッドマナーに誇りを持ち、東京を訪れる世界中の人々に文化としてのグッドマナーを楽しんでもらうために“TOKYO GOOD“というコンセプトを掲げ、さまざまなアクションを起こしていきます。
つまり,外国人からマナーが良いと言われているのだから,自信を持ちましょう.
そして,このマナーの良さを自覚しましょう,ということ.

意味がわかりません.
なぜ「自分たちが思っている以上に,自分たちはマナーが良い」からと言って,それを声高に宣言しなければいけないのか.
それこそ「マナー違反」ではないのか?

これが「経済」とか「工業力」「学力」「健康」といったものだったら分かりますよ.
測定そのものに妥当性や信頼性があり,その測定の評価にも客観的な意味があるのであれば.
でも,「マナー」という文化的で主観的な影響が大きいものの良し悪しを論じ,自覚することにどのような価値や意義があるのか.

さて,彼らは「さまざまなアクションを起こしていきます」というんだから,何をするのか気になります.
このコンセプトを具現化する施策が『TOKYO GOOD MUSEUM』です。これは、東京をかたちのない美術館に見立て、東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する活動です。
自分たちがどれだけ優れているのかを美術館に見立てて発信するのだそうです.
キモい.キモすぎる.
この発想,私にはついていけません.

実際,この取り組みに対する世間の評判を調べてみたら,やっぱり批判的でした.
「TOKYO GOOD MUSEUM」とやらの評判が散々な模様(まとめサイト)
まだまだ常識的な人がいるようなので幸いです.

でも,一体どんな人がこれを喜ぶんでしょう?
思い当たるフシはあります.
近年,外国人から「日本のこんなところが凄い」という評価をテーマとした話題の是非を目にすることがあります.いわゆる「海外の反応」というやつ.
ネット記事を配信している側も,そういう記事に仕立てた方が閲覧数を稼ぎやすいとのことです.
外国人のなかには,仕事として日本を褒めている人もいるとのこと.
国際ジャーナリストがTV番組に「日本を褒める外国人枠」の存在を暴露(ライブドアニュース2014.10.8)

件のTOKYO GOOD MUSEUMも,そうした日本人のメンタリティに乗っかってる活動かもしれません.
外国人からおだてられるだけでは飽き足らず,自分達でやってるんだから世話ない.
なんだか反吐が出る話ですね.

私はべつに「日本人のマナーが悪い」と言いたいわけではありません.
外国人から「日本人のマナーが良い」と言ってくれていることに反抗するつもりもない.ですが,こういう「マナーが良い」という評価や認識は,話半分程度に聞くか,かなり疑ってかからなければ「気持ち悪い」ことになっていきます.

TOKYO GOOD MUSEUMのウェブサイトを見ていて気になったことがあります.
上述したように,このウェブサイトを作った趣旨が「東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する」ということですから,(気味が悪いことに)そういう「作品」が並んでいます.
で,その中でもマナーに関する「作品」とやらが,
「整列乗車」
「銭湯のかけ湯」
「ゴミひとつない道」
「気配りのマスク」
「戻ってくる忘れ物」
「思いも運ぶ引越し屋」
とかなんです.
どれも「マナー」とは関係ないですね.

前回の記事では「整列乗車」を取り上げましたが,これらはいずれも「マナー」じゃなくて「ルール」や「仕事」です.
ウィキペディアの「マナー」のページでも指摘されているマナーを考える上での問題点,「マニュアル化されたマナー」を無自覚に誇ってしまっている.最もヤバイ状況です.
こんなもの喜んだって仕方ありません.
上記の「作品」にしたって,これらにはいくらでも反論の余地があります.

「整列乗車」は,前回の記事をどうぞ.
「銭湯のかけ湯」は,残念ですが “しない” 日本人だってたくさんいます.あと,水が豊富な日本だから成立していること.水不足で困っていたら,それこそかけ湯はマナー違反です.
「ゴミひとつない道」は,ボランティアや清掃業者のおかげです.日本は諸外国より道路清掃に注力しているだけで,一部の放っとかれたところはゴミだらけです.
「気配りのマスク」は気配りではなく自己満足.病気なら人前に出ないのが本当のマナーです.病気をおして仕事してますアピールでしかなく,病気でも表に出ることを要求される不寛容な国だとも言える.
「戻ってくる忘れ物」は,そこまで困窮している人が少ないのと,忘れ物でも事情によれば警察が捜査してくれるため,ネコババしてもバレる恐れが高いから.経済状態が悪くなったら,ネコババする人は増えますよ.
「思いも運ぶ引越し屋」なんて,たんなる引越し屋の営業努力じゃないか.

どれも「東京グッド・マナー」などと胸を張れるものではない.
無理矢理感が満載だし,恥ずかしいのでやめてほしいですね.

このウェブサイトを見ていて感じたのは,完全に私の推測でしかないんですけど,彼ら運営側にしても,当初はもっと「江戸しぐさ」の如くアピールできる具体例がたくさんあると思って始めたのではないでしょうか.
ところが,いざ始めてみると具体的なものが意外と思いつかないから困ってる.そんな気がするんです.
当たり前です.本当に大切なマナーとは「作品」などと呼んで具体的に示せるものではないからです.
だからこそ,こんな不気味なものは早くやめてくれ.