2017年12月16日土曜日

道徳教育は体育でやりましょう

「昨今喧しい『道徳教育』は,体育でこそ実現できるものだ」
そんな記事を書こうと思っていたら,大学の体育教員控室に置いてある雑誌にこんなのがありました.

体育科教育という我々の業界の雑誌でして,その12月号の特集が「いま,体育と道徳の関係を問い直す」「体育から発信する『学びに向かう力,人間性等』の育成」っていうやつだったんです.タイムリーでした.
興味のある方は御一読ください.

過去記事でも述べたことですが,体育は人間らしさを育てる上で重要な機会です.
体育ではスポーツを教材として扱う事が多いのですが,この「スポーツ」をきちんと楽しむためには人間らしさ,すなわち,倫理,道徳,人間性が求められます.
スポーツには,これらから惹起される「スポーツマンシップ」とか「フェアプレー精神」をもって取り組まないと,最初はそうでもなくても,途中からつまらなくなったり飽きたりします.
以前にも言いましたが,バカはスポーツができません.バカなのでなんとなくバカ騒ぎをするも,途中から投げ出します.
ですから,「スポーツを楽しもうとする営み」に取り組むことは,自然と道徳教育につながるのです.

人が何かを学び取るためには,その行為によって自分が楽しい思いをするであろうことが予想されなければいけません.
道徳教育であれば,道徳的に振る舞うことがどれだけ自分にとって価値あるものかを実感できなければ,道徳を身に着けることにはならないでしょう.

一部の気合いの入った人たちは,(道徳教育に限らないけど)熱弁をふるって,怒ったり喚いたりすることで道徳の重要性を説くことが多いですね.
最近は「いじめ問題」なんかでもそうなんですけど,とにかく怒鳴り散らすことが熱血的な教育だと考えているフシがあります.悲しいかな,そういうのって教育関係者以外の人に多いです.そんな人たちが教育現場に向かって「もっと道徳教育を徹底しろ」などと要求し,それに必要なのは「修身教育」とか,はたまた「人権教育」を説くことだなどとデタラメなことを言い出します.
でも,そんなものは子供はもちろんのこと,人には効果的に伝わらないですよ.

人が説得を受けるのは,自分がその行動を採用することによって楽しい思いをすることが予想できる状況においてです.
道徳教育であれば,「道徳的」とされる行動をとることが,自分自身にどのような価値をもたらすのか分かっていないといけません.

その点,スポーツを楽しむためには道徳的な行動をとることが条件になります.
「自分だけが楽しい思いをすればいい」と考えて取り組んだとしても,よほど競技性が強い場合は別でしょうが,そのスポーツはつまらない活動になってしまいます.
スポーツを楽しむためには,「私」の相手となってくれる存在(人間,動物,自然)も,「私」と対峙することで楽しめなければ成り立たないからです.

大学生を対象に一般体育をやってみますと,それが如実に現れます.
例えば,30人くらいの学生に場所をボールを与えて「サッカーをやりなさい」と課題を出してみると,ウォームアップをしてチーム分けをしてゲームをする,という一連の流れを達成するのは非常に困難です.実際,残念ながらこれは「偏差値」と相関してしまいます.
偏差値が低い学生はバカだとは言いたいわけではありませんし,偏差値が高い学生の全てがしっかりスポーツできる者ばかりではありませんけど,現状,これにはゆるい相関があるのも事実です.

元来,スポーツ教育はエリート育成のために用いられていました.
スポーツする場において,自分がどのような振る舞いをするべきなのかを考えられるのは,やっぱり人間社会におけるエリートなんですよ.
これは別に,リーダーシップを発揮したり,上手にプレーしたりといったことではありません.スポーツを楽しめる場を強調・協力して作れているかどうかという話.リーダー格になっている学生を補佐してあげたり,チーム内での役割を感じ取ったり,そこにいる人達が心地よくプレーできるように配慮した行動がとれることが大事なのです.

私自身,さまざまな大学で体育の授業をやってきましたし,知り合いの先生方と情報交換してみましても,これには非常に関連があります.
低偏差値大学では,学生は瞬発的に盛り上がることはあっても,90分持ちません.仮に90分持ったとして,次の週には飽きています.
そんな大学では,スポーツ嫌いの学生は嫌々取り組んだりするのはもちろん,それを堂々と態度に出します.
たとえ誰かがリーダーシップをとろうとしても,その人に協力してあげようという学生は少なく,むしろ甘えたり反抗したりします.せっかくサッカーのウォームアップを皆でやろうとしているのに,「俺,バスケがやりたい」とか言い出して脇で遊び出し,それだけならまだしも,「お前も一緒にやろうぜ」などと周囲の何人かを誘って場をメチャクチャにします.
あぁ,これがバカっていうんだな,ってことが観察できます.

で,結局はこういうのが専門ゼミでの議論・討論とか,研究ミーティングなどの場面でも表出するんです.
スポーツに対する態度はアカデミックな態度と通底しています.

ある先生が仰っていたなかで印象的だったのが,「低偏差値大学の学生の特徴として,『上手くいったのは自分の努力,上手くいかなかったのは誰かの責任』という態度が強い」というもの.
つまり,「私が心地良い思いをしていないのは,誰かがそれを阻害しているからだ」というメンタリティがあるのではないか? ということであり,そんな彼らは,自分自身が能動的に働きかけて心地良い状況を作り出そうという意志が弱いということなんです.

こういう学生をどのように教育するのかが大事になってくるわけですが,私なりに授業期間を通して様々なアプローチをかけてはいますよ.別に野放しにしているわけじゃありません.
ただ,「言う事聞かないと単位を出さないぞ」とか「指示をしっかり聞いて行動しろ」などと指導したくはないんです.
私も昔はそんな授業をしていましたが,今はやっていません.だって,そんな体育の授業に教育意義が見いだせないからです.
指示通りのことをやらせて,それでスポーツの技能が上がったところでどうだっていうんです?

上述したバスケを始めた学生にしたって,「おい,こっち来てサッカーしろ」と毅然とした態度をとってその場を治めても,彼は依然として「周囲の迷惑を顧みず,スキあらば天邪鬼な行動をとって気を引こうとする人間」という困ったチャンであることには変わりない.
これまた別に「困ったチャン」であること自体が悪というわけでもありません.そういった行動を可能な限り自制してコントロールできるようになりましょう,ということです.

実際,バスケを始めた学生としても,実は自分なりに「楽しい状況」を作るために能動的に働きかけた可能性もあります.そんな彼に必要なのは,指導者からの「やめろ」という指示・命令ではなく,周囲の学生から迷惑がられているというレスポンスと,本人自身もその行動によって深い楽しみを得られなかったという結果です.
そういった状況を得る機会として,体育とスポーツは非常に便利であると言えます.

頭では分かっていても,実際の行動にはつながらない.
体育が扱っているのは言動一致を目指すことです.
実際,体育の学習指導要領は,改正を繰り返してもこの文言は変わりません.
心と体を一体として捉え,生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。■新学習指導要領(文部科学省)
正しい答えを身につけるのではなく,正しい答えを導く力を養うこと.
それが体育の授業に課せられた使命であり,豊かなスポーツライフを実現することとは,これすなわち道徳の陶冶に他なりません.


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2017年12月12日火曜日

体育学的映画論「0.5ミリ」

チャンネルが合わないと全然おもしろくない映画です.
たぶん,私も10年前の自分ならおもしろくないと思ったはず.
30代という,この歳になったからこそハマった映画と言えます.
0.5ミリ(wikipedia)

チャンネルが合った映画ですので,何か評論しようって話ではないのかもしれません.
映画で捉えているものが,すんなり入ってきます.
久々に凄い映画を見た.いやぁ~,ええもん見たなぁって思える映画には,なかなか出会えるものではないですから.

にしても上映時間が長い.3時間超え.
でも,あっという間に感じるほどのめり込めます.

この『0.5ミリ』の原作者であり監督をした安藤桃子氏は私と同世代です.
小説版が2011年,映画は2014年に撮られたもので,2017年現在における我々「30代半ば」の者たちがなんとなく感じている「世代の見方」を写し撮っているように思います.
逆に,おそらくは20代以下の人が見ても退屈と感じる映画です.

30歳くらいになったら,以前にも増して世代間の違いを意識するようになってくるんですよ.それは別に「違い」を評価しようっていうわけじゃなくて,意識するってことです.
中年や高齢者との違いはもちろん,この歳になると20歳くらいの人との年齢差を感じるようになる.それも同じ民族・文化圏で育った者同士での差を感じるわけです.

劇の終盤で,主人公がつぶやきます.
「死にそうな爺さん相手にしてるとさ,時々思うの.私の知らない歴史を生きてきた人が,おんなじ世界に生きているんだなって.戦争とか私知らないし.今日生まれる子も,明日死ぬ爺さんも,みんな一緒に生きてんだよ.お互いにちょっとだけ目に見えない距離を歩み寄ってさ.心で理解できることってあるんだね」

あぁ,分かる分かるその感覚.
以前は頭で理解できていたことですが,最近は心の底からそう思うようになりました.
歴史を大切にするっていうのは,史実を追い求めたり知識を整理することではなくて,その民族と社会の生き様を語り継ぐことなんだなぁって.

劇中に出てくる老人たちとのエピソードは,どれも破天荒なものばかりですが,実はいずれも「普通」な人たちなんです.
そこら辺に住んでいる普通の老人に目を向けると,普通でないものが見えてくる.「介護」がそれを浮き彫りにさせます.

簡単に言えば「お年寄りを大切にしよう」という映画なのですけど,こうしたテーマとメッセージをきちんと取り扱った映画はほとんどないんじゃないでしょうか.
もっと広く捉えるなら,「人のことをちゃんと考えてあげよう」というのがテーマだとも思います.
介護とか高齢者は呼び水にすぎない.大事なのは「人」とどのように対峙するかです.

この点について,あえて焦点を絞らず,大きく切り取ってきたからこその3時間超えなのでしょう.
でも,じっくり腰を据えて見る価値はありました.私はこれくらいの長さで一気に見るのが丁度いいと思います.

ところで,この映画のロケ地は,私の地元である高知です.
映画を見ながら,「あっ,サニーマートだ.ここはフジグランの中だ.種崎海岸だ」と楽しくさせてくれます.
監督の安藤桃子氏は,この映画撮影を機に高知に移住したとのこと.
(実は)日本最大の映画県に移住されるとは,なかなかお目が高い映画監督です.
最近は高知市内に映画館を作ったというニュースがありましたね.
高知と映画(全体とは部分の総和以上のなにかである)

なお,この『0.5ミリ』では,土佐弁による演技は一切ありません.
変な土佐弁で演技するより,まったく触れなかったのはいい選択でした.
地元民としては好評価です.


2017年12月6日水曜日

例のNHKの判決

NHKの受信料を支払う必要のない私にとっては,価値があるんだか無いんだか難しい話題です.
でも,それだけに関心はあったりするわけで.

どうやらテレビなどの受信機を持っていれば,NHKの受信料を支払わなければならない状態にあることが認められたようです.

NHK受信契約、テレビあれば「義務」 最高裁が初判断(朝日新聞2017.12.6)
NHKが受信契約を結ばない男性に支払いを求めた訴訟で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は6日、テレビがあればNHKと契約を結ぶ義務があるとした放送法の規定は「合憲」とする初めての判断を示した。事実上、受信料の支払いを義務づける内容だ。
ただ,現在支払いを拒否している人が,違反しているからってんで一斉検挙なんてことにはならず,以下のように・・・
NHK受信契約、成立には裁判必要 最高裁(日本経済新聞2017.12.6)
NHK受信契約をめぐる6日の最高裁判決は、受信契約が成立する時期について「裁判で契約の承諾を命じる判決が確定すれば成立する」とした。「契約を申し込んだ時点で自動的に成立する」とのNHK側の主張は退けた。契約を拒む人から受信料を徴収するためには、今後も個別に裁判を起こさなければならない。
とのこと.

NHKが嫌いな人にとっては腹立たしい話でしょうが,冷静にフェアに考えてみれば当然の判断だと思います.
だって,法律を読めばどう考えたって「支払わなくていい」ということにはならないからです.

「テレビを持っていれば支払う」ということになっている以上,NHKの番組に不満があるから受信料を支払わない,などというチンピラみたいな主張が通るわけがない.
払いたくなければテレビを持たなければいいんです.私みたいに.

日本のテレビっていうのは,基本的にNHKを見るための装置です.
ついでに無料で民放も見れる仕組みになっているわけで.
これは別に日本独自のシステムではなく,その他の国でも採用されています.
もちろん,そういう国でも公共放送の受信料を「廃止しろ」とか「安くしろ」っていう不満は出ているそうで,私の知り合いのヨーロッパ人も,そんな政治話が母国でしょっちゅう持ち上がると言っていました.

むしろ,このNHK受信料の問題点とは,徴収する気が弱いNHK側に問題があります.
普通の感覚なら,テレビを購入する際にNHKと契約しなければ入手できない仕組みにしますよね.
例えば,よほど特別な事情がない限り,携帯電話も購入時にプロバイダと契約するし,自動車を購入する時も保険と一緒に組まされます.
それと同じ仕組みをNHKもすればいいだけのこと.
それが出来ないのは,何か後ろめたい事情があるからと勘ぐられても仕方がない.

たしかに,そんなことすると案外たくさんの人が「テレビを購入しない」という状況になったりするかもしれないから,ちょっとビビってるんでしょう.
あれって,テレビ1台あたりに課される場合もあるんですよね.ホテルの客室とかなんて,退っ引きならない状況になりますし.
NHK受信料、「ホテル1部屋1世帯」の不思議(東洋経済2017.4.3)
なので,家電業界からの圧力とか,今年の流行語になった忖度があったりするのかもしれません.

あなたがもしNHKの受信料を支払いたくないのであれば,テレビを持たなければいいんです.
テレビを持っていたら支払え,っていう仕組みになってるんだから,まずはテレビを捨てるのが先.
そしたら集金人も明るく元気に追い払えます.

NHKに不満があったとしても,まずはテレビを捨ててから要求しましょう.

何ていうか・・,テレビ(民放を含め)を見ながら「NHKは見る価値がないし実際見てないから,受信料を払いたくない」って言ってる人って,政治で言うところのサヨクとかウヨクによく似てるなって思います.
うん,凄く似てると思いますよ,そのメンタリティが.
憲法9条で平和が保てると思っていたり,憲法9条を改正すれば普通の国になれると思っている,そんな甘えたメンタリティです.

こういう人達と一緒にはなりたくない.
そんな思いを強くしたニュースでした.



2017年11月29日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 51「大相撲の暴力事件について」

大相撲で暴力事件が発生.
暴力沙汰を起こした横綱・日馬富士が引退することになりました.
日馬富士が引退会見(NHK)
大相撲の平幕 貴ノ岩に暴行した責任を取って、29日、引退した横綱 日馬富士の記者会見が、師匠の伊勢ヶ濱親方も同席して午後2時すぎから福岡県太宰府市で始まりました。
(中略)
日馬富士は引退の理由について「親方と話して、横綱としてやってはいけないことを自分がやってしまった」と話しました。そのうえで届け出が29日になったことについて、「場所中だったので、頑張っている力士たちに頑張ってほしいということから本日になりました」と話しました。
本件そのものについて論じることは無いのですけど,関連してお話ししておきたいことはあります.
なお,日馬富士の引退については,私は至って「当然だろう」という立場です.
大相撲というスポーツ選手が持っている社会的影響力と,一般常識的な判断からすれば,引退もしくは追放が順当だと思うからです.

今回の事件は,例えば教育界で取り沙汰される事の多い「体罰」との関連が指摘できると思います.
これについて私なりの見解を一つ.

本当かどうか定かではありませんが,日馬富士サイドの主張としては,貴ノ岩が無礼な態度・行動をとったから,先輩力士として「鉄拳制裁」をしたということになっています.

私はこの「鉄拳制裁」そのものを悪く言うつもりはありません.そういうものがあっても不思議ではないからです.
しかし,「鉄拳制裁」それ自体は違法行為であることは押さえておく必要はある,そう思います.

これは体罰にも同じことが言えます.
体罰そのものは違法行為です.それが当事者以外に知れたら,逮捕されたり処罰されるものです.
しかし,体罰そのものを否定するつもりはありません.
法律違反だからって,それが全て「悪」だということはないからです.
体罰を使ってでも教育することで,それが巡り巡って日本の社会をより良くすることにつながるという覚悟があるのであれば,それは認められることだと思います.

ただし,角界の鉄拳制裁や,教育界の体罰のいずれにも言えることは,当事者間で納得できる行為であれば,それはそれで成り立つのですが,それが外部に知れたらアウトということです.
鉄拳制裁や体罰をする側には,その認識と,何よりその「覚悟」が求められるということ.

そもそも,当事者間で納得できることであれば,こじれて問題になんかならないはずですよ.
いや,「ならないはず」というような次元の話ではありません.

言い換えれば,自分自身が逮捕されたり処罰されることを引き受けた上で,それでも相手のためを思って鉄拳制裁や体罰をするのだという覚悟がその人にあるのか?
それが問われる事だと思います.
鉄拳制裁や体罰は世の中の人々に認められて当然のことだという認識でやっていたらマズいわけですよ.

で,今回は外部の人にバレちゃったわけですよね.
だったら引退か追放になって当然です.
むしろ,日馬富士に言いたいのは,そのつもりで鉄拳制裁したんだろ?ということ.
貴ノ岩に対し暴力を使ってでも訴えることで,それが巡り巡って日本の相撲界のためになるんだという認識でいたんだろ? ということですよ.

鉄拳制裁にしても体罰にしても,それが「是か非か」という判断や価値観を持つものではないんです.
大相撲では普通だとか,貴ノ岩にも問題があったとか,公的に鉄拳制裁(体罰)が認められるケースがあるはずだとか,そんなことはどうでもいいし,どれも的外れです.
ようするに,鉄拳制裁や体罰について,「認める/認めない」という話ではない.

どちらもダメなんです.人に暴力を振るうことは,何であれダメ.
でも,そんなダメなことであっても,当事者たちにとっては第3者たちとは認識が違うというものはあるわけで.
そのあたりを考慮して,今回の事件は論じられるべきだと思いますし,当事者間でそこが食い違っていたわけですから,日馬富士の引退は当然の結果だと考えられます.

2017年11月27日月曜日

いじめの正体

待ちに待った和田慎市先生の新著が出ました.
これまでにも当ブログで記事にさせていただいている,和田先生の新刊です.


和田先生のホームページはこちら.
先生が元気になる部屋(和田慎市ホームページ)

和田先生とは,当ブログをご縁に,何度か直接お会いして情報交換をさせてもらっています.
最近は,現役の高校教諭の先生方を交えた会として盛り上がっております.
学校教育対談(2回目)
学校教育対談(3回目)
学校教育対談(4回目)

ありがたいことに和田先生から本書を献本いただきましたので,早速読んでみました.
これまでにお話いただいていた「いじめ問題」がまとめられており,とても有意義な内容です.
帯には「『いじめは絶対になくならない』ここから出発する以外に,いじめ克服の道はない」とありますが,まさにその通り.
教育現場でいじめ問題を取り扱ってこられた和田先生からの,実用的な提言が並んでいます.

特に,第2章は「いじめ問題」を考える上では重要な示唆を得られます.
「いじめに関する7つの誤解」と題されたここでは,
1.いじめは根絶しなければならない
2.児童生徒の自殺は,いじめが原因である可能性が高い
3.いじめは犯罪だから法制強化し,厳正に対処する
4.いじめかどうかは被害者の判断による
5.学校(教師)は,いちはやくいじめに気づくはずである
6.学校は隠蔽体質なので,いじめはすべて保護者・教育委員会に報告する
7.重大ないじめは,積極的に外部機関に解決を依頼するとともに,世間にも広く伝えるべきである
といった,よく見聞きするこれら7点が,学校現場の実態から非常に乖離したものであることを説明してくれています.

難しい話ではありません.
ようするに,世間一般の皆さんが思うほど,
「いじめ問題は簡単ではない」
「子供の自殺は単純ではない」
ということを丁寧に解説した本です.

学校現場に携わっている方々からすれば,当たり前すぎて「何を今更」と思われることかと思いますが,いやいや,世間一般では本書で取り上げられていることが「当たり前」ではないから問題なのです.
だからこそ,本書は学校現場ではない人が「いじめ問題」を考える上で手にしてほしいですね.
もしくは,学校教育に携わっているものの,世間一般の方々との認識のズレに悩まされている先生方にもヒントを与えてくれるでしょう.

実は,本書で私のブログ記事を紹介していただきました.
こちらの記事です.
笑ってはいけない「いじめ防止対策推進法」
そこからちょっと抜粋しますね.
「いじめ防止対策推進法」では,
児童等は,いじめを行ってはならないとし,いじめが発生しないよう “防止” するための法律にしています.法律の名前からしてそうですから,これは間違いありません.
私はここに「いじめ防止対策推進法」という法律の真の恐怖が隠れていると睨んでいます.
それは何かというと,子供のいじめを法律で,そして,大人(もっと言うと“教師”)が防止(コントロール)できると考えていることです.
いじめを無くせば,子供が善く育つと考えていることです.
「いじめは良くない」「いじめを無くそう」
とても良いことです.異論はありません.
別に私は天邪鬼になって記事を書いているわけではないのです.
「いじめ」はどのような社会でも発生するものです.「防止」できるものでも,解決できるものでもありません.いじめが発生しない社会というのも気持ち悪いでしょ.
けれども,この「いじめ」を放置すると,その社会や共同体が健全に機能しなくなってしまう.それでは問題だから,どのようにすれば良いのだろうか,と考えることが大切です.
もっと言うと,「いじめ」がなくなってしまうと健全な学校教育ができなくなってしまう.それくらいの懐の深さで見守ってもらいたいところです.
和田先生は,こうした “いじめ” が持っている特性について,「あとがき」でコレステロールに例えていらっしゃいます.
とても適切な比喩です.

コレステロールは,増え過ぎると健康を害するようになりますが,これが少なすぎても生命活動に害を成します.
さらに,コレステロールと一口に言っても,LDLとHDLの2種類あるように,単純に示せるものではありません.
いじめもこれと一緒で,いじめがあるからこそ人間だし,いじめを乗り越えるところに人間らしさがあると言えます.

あと,本書で取り上げている重大なことのひとつが,いじめ問題や子供の自殺についての報道姿勢についての提言です.
結論から言えば,WHOが勧告している「自殺報道ガイドライン」を,日本のマスコミは守っていないのではないか? ということ.

例えば,WHOが勧告しているものには,
・写真や遺書を公表しない
・自殺の理由を単純化して報道しない
・センセーショナルに報道しない
等々のガイドラインがあるのですが,いじめ問題や子供の自殺についての報道では,明らかにこれが無視されているとしか思えません.
これについても,本書では学校教育現場の視点から多角的に論じられています.

繰り返しますが,何も難しい議論をしているわけではないのです.
いじめ問題や子供の自殺というのは,簡単で単純ではないということ.

簡単で単純な捉え方で取り組まれると,一番困るのは当の子供たちであり,それを支援する教育現場であることを知って頂きたいのです.


関連記事
子供の「自殺」について落ち着いて考えよう

2017年11月26日日曜日

けっこう役に立つ私のブログ記事

お久しぶりです.
ここんとこブログ更新が滞っておりました.

卒業論文の指導がかなり忙しくなってしまい,おまけに今年はこの時期になって実験をやろうとする学生もいたりして,かなりてんてこ舞いです.
そのくせ,どの学生もとても熱心に取り組むので,こちらとしてもやり甲斐はあったりします.
嬉しんだか辛いんだか.

学部生の卒業研究については,大学院生が指導してくれる研究室もあるかと思います.
でも,私のところはそういう大学ではないので,どうしても私がやらざるを得ないんです.
私も大学院生から実験計画とかデータ処理,図表の作成方法などを教わった口なので,教員自身が卒業論文の基本的な部分も教えるのは大変だなぁって感じます.

と同時に,もっと大学教育を「卒業論文の研究」に向けて体系立てて組めないものかと考えたり.
かと言って,最近は「卒業論文」は邪魔者扱いになっていたりする現実も見えたりします.

でも,卒業論文は大事ですよ.
ここで学生の学術的思考力は一番伸びますから.
大学で勉強する価値は,卒業論文にあります.

ところで,研究や論文作成の基本的な事柄について,いよいよ面と向かって指導している場合ではないと思った時は,「そこんとこは自分でネットで調べて」ってなりますよね.
私としてはあまり推奨しておりませんでしたが,ついに忙しさの度が過ぎたのでネットを使わせることにしたんです.
私の学生としても「ネット情報には気をつける」くらいのリテラシーはあるので「え? それでいいんですか?」って感じで聞き返すんですけど,モノは使いようということを知るのも大事です.

そうは言っても,一応は私の指導ですから,私の息のかかったネット情報を使うのが筋ってものです.
だから私のブログを紹介しておきました.
どうせバレないだろうから.

t検定の使い方が分からないという学生がいました.
エクセルでたくさんのデータを比較検定したいということなので,面倒なので以下の記事を紹介しておいたんです.
t検定:対応のある/なしの違いは何か
エクセルExcelでの簡単統計(t検定)
なんせ,対応のある/なしについての説明が面倒です.ここを理解するのに苦労する学生は多いんですよ.
統計学の本を読んでくれれば分かる話なのですけど,そういうことをするのは意外と少ないんです.

「先生,この一人だけ大きな測定値が出たやつ,どうすればいいですか?」
って言い出す学生も毎年必ずいます.
そんな時は,「ここに書いているやつで考えて.それから持ってきて」って言います.
外れ値や異常値を判断する統計処理をエクセルでやる方法

「t検定で差が出ません.どうしたら良いですか?」
っていうのも鉄板です.
「t検定で差が出ない」という表現が間違っているということはこの際脇に置くとして,
効果量(SE:effect size)をエクセルで算出する
で効果量のことを紹介することにします.
効果量についての最適な算出方法や解釈を,あれこれ話し始めると長くなるので,こういう記事は便利です.
今年はこの記事にお世話になることが多かったですね.
私の中で最も便利な統計記事.

t検定で有意性が認められない場合の必殺技として,相関係数(r)の差で勝負するのも卒業論文における「あるある」です.
相関係数の差を検定したいとき(エクセルでできる方法)
対応のある相関係数の差の検定
基準となる相関係数との差の検定

エクセルでは相関係数の有意性を出してくれないので,どうせ必要になるだろうからってことで,この記事も一緒に紹介します.
エクセルで相関係数のp値を出す

相関関係の分析のついでに,便利技としてこれも.
エクセル散布図で相関関係・相関係数を確認する便利な方法

相関関係を駆使した卒業研究を考えている学生には,これを紹介しておけば勝手にやってくれたりします.
信頼性係数をエクセルで算出する
案外この「信頼性」の研究は使い勝手がいいんです.
詳しい話はまたの機会にしますが,学生の教育効果も大きいですから.

さて,これも毎年必ず出るパターンです.
「もう時間が無いんでぇ,アンケートで良いかなって」
って言い出す学生.
結果,統計処理やデータ解釈に時間がかかって一番苦労するパターン.
だから,今年の学生にはこれを読ませました.
エクセルだけで統計処理する卒論・ゼミ論用アンケート調査のオススメ方法 part1
データ分析はカイ二乗検定を使うことが多いですね.
エクセルExcelでΧ二乗検定を
アンケートの種類によっては,紙媒体で作ってエクセルに転記するのも大変なので,グーグルフォームで作ることも多くなってきたのが最近の卒業研究です.
便利な世の中になりました.
グーグルフォーム(google)

ちょっと凝ったデータ解釈をしたい学生もいます.
ランキング評価とか,段階評価とか.そんなのです.
やり方はいろいろありますが,こういう記事を読ませておけば勝手にやってくれます.
点数・得点を段階評価するためのエクセルシートの作成
標準偏差を用いた段階評価の仕組み
標準得点と散布図を用いた分析と評価方法

卒業論文の文章の作成方法については,これを読んでもらいます.
【やったほうがいい】卒論・ゼミ論をまずまずの日数で書く方法 その1
【やったほうがいい】卒論・ゼミ論をまずまずの日数で書く方法 その2
とは言え,一番いいのは添削なんですけど.
私もそうでしたが,学生って文章を書くことそのものへのハードルが高かったりします.結果,初稿を上げてくるのが凄く時間がかかる.なので,その導入が必要だったりするんです.



2017年11月13日月曜日

体育学的映画論「メッセージ」

これ,つまるところガンダムですよね.
ハリウッド版「ニュータイプ論」.

現在公開中の『ブレードランナー2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が,昨年に製作したSF映画が『メッセージ』(2016年)です.

ブレードランナー2049も良かったですが,SF映画としてはこちらの方が遥かに出来が良いと思います.
まあ,ブレードランナー2049はファンサービスとして作られたものかもしれませんので,それなりの楽しみ方をするものなのでしょう.

【以下,ネタバレを含みつつ話していきます】
映画を楽しむ上では以下の話を読まない方がいいかと思います.
観てから読むことを推奨します.

ネタバレを含む映画のあらすじは,ウィキペディアで読むことができます.
メッセージ(映画)(wikipedia)

非常に質の高いSF映画です.
近い将来,「死ぬまでに観ておきたい映画◯選」などと形容されるようになることと思われます.

次元の異なる知的生命体とどのようにコミュニケーションをとればいいのか? というのがこの映画の基本的なストーリーになっています.
突如,世界中の地域に現れたUFOに対し,各国は独自に対応を始めるというもの.
学者たちによるエイリアンとの交流が描かれるのですが,「どうやって交流できることになったのか?」といった細かい経緯はぶった切られていて,「エイリアンとのコミュニケーションをどのようにとるのか?」という点に絞った展開が無駄がなくて良い.

言語学や数学などを駆使した,エイリアンが使う言語を解読してゆく過程が非常に興味深いんです.
「ほうほう,なるほど.へえ〜,そういうふうに解釈するわけねぇ〜」と,引き込まれること間違いありません.
めちゃくちゃ難しい話なのに,むちゃくちゃ分かりやすく映画にしてくれています.
これは圧巻です.

でも,この映画の一番大きなテーマは「もしも “刻” が見えるようになったら」というものです.
だから冒頭述べたように,ニュータイプ論なんですよ.

実は,この映画の構成自体が,主人公である言語学者・ルイーズの「認識」そのものを示しているんです.
原作はテッド・チャン著『あなたの人生の物語』というタイトルなのですが,まさにこの映画は「ルイーズの人生の物語」と言えます.

どういう事かというと,この映画の基盤となる考え方として,映画前半のヘリコプター内でのシーンに「思考は言語により形作られる」と語られるところがあります.
言い換えれば,物事の捉え方は,用いられる言語によって異なるということです.

これは,日本語を使っていれば日本語の考え方になり,英語を使っていれば英語の考え方になる,などと言われることの延長と言えます.
ただ,ここでいう「言語の違い」とは,日本語と英語の違いといった小さなものではなく,もっと大きな違いである「言語の次元」の差を指します.
で,その言語の次元の差は何によって生まれているかというと,「体育学的映画論」らしく「身体」によって現れているんです.

劇中でも示されているように,このエイリアンは空中に漂う生命体です.
つまり,1Gの重力下である地球で,「地面」に根付いて生きている我々「人間」が作り出した言語とは異なる思考をしている知的生命体,それがエイリアンということになっています.

富野由悠季氏が製作した『機動戦士ガンダム』においても,人類は宇宙へ移住することによってニュータイプへと覚醒する.という設定があります.
ニュータイプとは,宇宙に飛び出して地球の重力から解き放たれることによって認識能力が進化し,「“刻” が見える」ようになった人類とされているんです.
この映画と設定が全く同じではありませんか!
凄いぞガンダム,凄いぞ富野由悠季.

環境が違えば言語が異なり,言語が異なるので思考と認識が異なります.
で,このエイリアンはニュータイプと同様,「“刻” が見える」んですね.
だから,物語の途中からルイーズは,自分がエイリアンの言語を理解できたことを思い出します.

いえ,正確には思い出したのではなく,理解できることを認識したんです.
「理解できることを認識した」っていう表現が意味不明かと思いますが,どうしてそんな表現なのかというと,エイリアンの言語を理解できたルイーズにとっては,「時間」とは流れるものではなく,見るものになったからです.
その瞬間,ルイーズにとっては,彼女の人生そのものが一塊の物体を見るようなものになっています.

というのも,言語学者の彼女は,近い将来にエイリアンの言語を研究・理解して,それを本にして出版することになります.
なので,ルイーズはエイリアンの言語によって思考し,物事を認識できるようになるわけですが,そんな「エイリアンの言語を理解できた彼女」にとっては,過去も未来も同じもの.

だから,映画の冒頭からずっと自分の娘との思い出のシーンが,ストーリーの合間合間に流れ続けているんですね.
実はこの「娘との思い出のシーン」とは回想シーンではなく,ルイーズにとっての未来なんです.

しかし,こうした映画の作りも,時間のことを「流れる」ものとしてしか捉えられない私達にはこのように認識するしかなく,エイリアンやルイーズには「あのように」は見えていません.

これはちょうど,知っている小説や映画を繰り返し読んだり見たりするようなものです.
だから原作タイトルが「あなたの人生の物語」なんだと思います.
こうなってくると,例えば人生のことを「一度きりの人生だから・・」などと捉えたりはしません.
よく,この映画の感想などで,「ルイーズは,新しい言語を手に入れることで,決められた未来に向かって生きるしかない状態になった」とか,「自由意志がなくなった」などといったものが見られますが,これは間違いだと思います.
なぜなら,この言語を手に入れ,それによる思考と認識ができるようになったことで,いわゆる「一度きりの人生」という捉え方そのものが無くなり,その捉え方から惹起されていたはずの「決められた未来」という価値観それ自体が意味を成さなくなっているからです.

ルイーズにとって自分の人生とは,小説や映画を何度でも読み返すようなものになっています.
いえ,もっと正確に言えば,読んだり見たりするようなものですらない.
「そういうもの」として認識しているんです.
それが分からない私達は,そんなふうに「時間」を捻じ曲げた認識として想像するしかありません.

これは例えば,目の見える人と目の見えない人が何かの物体を認識しようとした時の違いと似ています.
目の見えない人は,その物体を手で触りながら,「ここが出っ張ってる.凹んでいる.ここは輪になっている」などと,ちょっとずつ時間をかけて知ることになります.
しかし,目の見える人にとってはその物体を見るだけで認識できるので,そこに時間は必要ありません.
目の見えない人が時間をかけて物体を認識しようとしているのが「人類の人生」であれば,エイリアンにとっての人生とは,目の見える人が物体を見ているようなもの.
しかし,「物体」は時間をかけようとかけまいと,同じ物体であることに違いはありません.
人生とか生涯といったものへの認識も,用いられる言語と認識能力が違えば異なるということです.

そしておそらく,ルイーズの娘もエイリアンの言語を理解した人間だった可能性は高いんです.
そんな描写が映画の冒頭からいくつか出てきます.

例えば,娘が幼い頃にやっている粘土遊びでは,彼女が知らないはずのエイリアンを造形していたり,同じく幼い頃に書いたクレヨン画の両親(ルイーズとイアン)には,エイリアンとコミュニケーションをとる任務についていた2人のそばにあった「籠の中のカナリア」が一緒に描かれています.

つまり,ルイーズの娘は全てを知っていたんです.全ての刻を知っていてなお,(一般的な人間の認識からすれば)短い生涯を生きていたことになります.
と同時に,それは彼女にとって哀しいことかというと,実はそうではない.
「短い生涯を生きた」という認識そのものが,時間のことを「流れる」ものだと認識する我々の捉え方でしかありません.
むしろ,ルイーズは自分の娘を「救うため」にエイリアンの言語を教えたのではないか? つまり,いわば「ニュータイプ」へと覚醒させたのではないかとも考えられます.

ここらへんの「次元」に関する哲学的なことを分かりやすく解説されているのが,飲茶 著『史上最強の哲学入門』です.


『メッセージ』を理解する助けになるはずですので,一読をオススメします.


ガンダムで考える関連記事は以下のとおりです.
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

こちらもどうぞ.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」


2017年11月11日土曜日

どうして「絶対理解してくれない高等教育論」なのか

前回の記事,
絶対理解してくれない高等教育論
その理由編です.

大学に代表される高等教育に関する,デタラメな政策が止まりません.
現政権はそれを加速させています.

本ブログではずっと以前から繰り返しているように,おそらくはもう大学教育は致命傷を負っているので手遅れです.
まだ本格的に表在化していないだけで,そのうち「どうしてこんな事態になるまで放置したのか?」などと言い出すに決まっています.

でもそれは,決して国民自身の判断を問うようなものではなく,きっと「大学側の情報発信や主体性が弱かった」とか,「文部科学省にヴィジョンが無かった」とか,もしくはその時になってもまだ「時代に取り残された象牙の塔」などと言うに決まっています.

5年前の記事でも取り上げましたが,大学改革を始めたのが間違いなんです.
反・大学改革論
改革をすれば良くなるという意味不明な信仰が,将来の,少なくとも向こう50年くらいの日本人の知性を破壊してしまいました.
享保の改革とか天保の改革とか,とにかく「改革」と名のつくことは碌な結果にならないというのは学校の授業で教わることですが,この麻薬のような中毒性を喜ぶ人は多いものですね.

この破壊は自己回復不可能です.
また100年くらいの時間をかけて直さなければなりませんが,まだ絶賛破壊中ですので,そのスタートラインに立つ日はずっと先のようです.
少なくとも,私達の世代が引退するくらいの時には,そのスタートラインに立てるように頑張っていきたいものですね.期待薄ですが.

さて,そんな高等教育に関するデタラメっぷりですが,これをまともな方向で是正しようと考えても,絶対理解してくれません.
絶対理解してくれないのには理由があります.

前回の記事でもお話ししたように,例えば「大学無償化」は,現状のまま取り組んだり,現政権が目論む「民間経営的手法」を促進させる政策と抱き合わせることによって,教育現場を壊滅させることができます.

これをまともな方向で是正しようとすれば,その一つとして考えられるのは,「大学無償化」と合わせて「卒業基準の厳格化」をすることで教育現場は救済されます.
大学教育を無償化(現実的には格安化)する代わりに,簡単には卒業できない仕組みへと徐々にシフトさせるものです.

これはつまり,現在の「学生から人気のある大学が優良大学」という捉え方から,「高い学術レベルの学生を輩出する大学が優良大学」と捉えることへと移行することを意味します.
実際の教育現場にいる方々からはご賛同いただけるかと思いますが,高い学術レベルをもった学生を輩出するためには,大学教員や研究グループが不断の研究活動をしていなければいけません.

「教え方がうまいから,学生が伸びる」というのは,極めて初歩的な段階の話.
極一部の領域を除き,大学は何かを教えるところではありません.学術的思考力を鍛えるところです.
それは「教え方」でなんとかなるようなものではないのです.

ところが,こうした着想はメディアで取り上げられることもなく,政策にも反映されることはありません.
巧言令色な現在の大学よりも,質実剛健な大学に変わってくる方が喜ばれるかと思うのですが,そんな声は聞こえませんね.
なぜなら,そんな大学を多くの人が望んでいないからです.
もっと煽った刺激的な言い方にすれば,そんな大学にしてしまうと,次代を担う若者のレベルが自分たち自身より高くなってしまうので,それが悔しいからです.

もっと簡単ところから言えば,教育全般について「無償化」や「機会の平等化」を嫌う人は,おそらく自分自身を「勝ち組」と認識している人が多いのではないでしょうか.
そんな人が考える「教育システムの成功モデル」とは,自分自身の履歴です.
故に,自分自身が歩んできた道を「この日本社会における成功モデル」として固定化させたいという欲求が出てきてしまう.
別に批判するつもりもありません.それは人間らしい欲望ですからね.可愛らしいですね.

勝ち組の人達からすれば,自分たちの成功モデルを否定することは難しいものです.
もっと言えば,その成功モデルにありつけた人は,できるだけ少ないほうがいい.なぜなら,希少価値が高くなるからです.

あれだけ頑張って受験勉強して合格した大学が,これからは簡単に入学できる大学になってしまう.なんてことは避けたいという心理が働くのもわかります.
ましてや,「入学した」ことよりも「卒業した」ことの方が価値があるなんてことになったら,現在自分が保有している「◯◯大学卒業」という肩書がキャンセルされてしまうわけです.彼らにとって「卒業」とは「入学」のことを意味しているからです.

斯くして,「大学を卒業した人々」は,高等教育の研究教育レベルを向上させる政策を望みません.

一方の,「大学を卒業していない人々」も,高等教育の研究教育レベルを高めようという気はありません.
これには2つ理由があります.

1つ目は,単純に,大卒のレベルが高まることを望まないからです.
簡単な話です.彼らにとっては,大学で学ぶ人が受ける恩恵は低い方がいい.
大学に行くことは,あくまで肩書をつけることであってほしくて,本当に実力がついてしまうと悔しいという話です.
ようするに,これからもずっと「大学なんて所詮は肩書をつけに行くところさ」と罵りたいという心理です.

2つ目は,学校教育の延長でしか要求ができない,というものです.
つまり,この人達には学校と大学の違いが分かっていません.いえ,むしろこれには大卒の多くも含まれていることでしょう.
学校と大学の違いが分かっていない人達だから,しかもウィキペディアでその違いを調べることすらしない人達だから,自分の頭の中だけで「教育」を語りたがります.
結果,上述したような「教え方がうまい」ことに価値を見出したり,大学を「職能を伸ばしてくれる」ためのサービス機関だと捉えています.
そんな人達が求めるのは,学生が寝坊しないためのモーニングコールであり,より多くの資格を取得できるカリキュラムであったりします.

そして,「人気のある大学が優良大学」「定員割れする大学はダメな大学」というドグマに支配されることにより,大学側もそれに対応した経営をするようになります.
あとは負のスパイラル.

とどのつまり,嫉妬と妬みなんですね.
これが大学教育と,日本の学術研究を破壊しています.
大学が一体何をするところなのか? それに立ち返って考えてもらいたいものです.


関連記事

2017年11月9日木曜日

絶対理解してくれない高等教育論

大学等の高等教育を無償化させたり,学部の切り売りを促したりといったニュースが続いています.

「教育無償化」高等教育に8000億円 2兆円配分の大枠(毎日新聞2017年11月9日)
政府は教育無償化など2兆円規模の政策パッケージについて、配分の大枠を固めた。大学など高等教育の無償化に約8000億円を配分。幼児教育・保育の無償化では、0~2歳児に100億円程度、3~5歳児は8000億円程度を充てる。高等教育と0~2歳児については、無償化の対象を住民税非課税世帯(年収約250万円未満)に限定する方針。

私大に「学部の切り売り」認める…大学再編促す(読売新聞2017年11月8日)
18歳人口の減少で経営悪化した大学の「学部の切り売り」を認めることで大学再編を促す。(中略)学部の譲渡が可能になれば、経営が行き詰まった大学が学部の一部を他大学に売却し、当面の運転資金を確保できる。また、経営の効率化を図りたい大学の場合は、不人気学部を切り離し、研究成果が顕著な学部や人気学部を強化できるようになる。
具体的な方策が見えていないのでなんとも評価し難いのですが,どれもこれもデタラメ臭さが漂っています.

以前の記事でも取り上げましたが,私は大学無償化には反対していません.どのような方策になるかにもよりますが,多くの国民が高等教育を受けられる状態にすることは,国家として望ましい在り方だからです.

ただ,「学部切り売り」とかいう政策を考えているところからして,おそらく碌な思想・信条に基づいていないことが推測されます.
現政府には注意が必要です.

教育無償化に反対する人のなかには,「そんなことしたらFラン大学をのさばらせるだけだ」という人がいます.
お気持ちはわかりますが,ご安心ください.そんなことにはなりません.
「高等教育(大学)無償化」については,ある教育政策と抱き合わせることで,現在のFラン大学であっても有名大学と変わらない教育が実現できるのです.

昨今のニュースでも取り上げられているように,現在の日本の大学は,研究レベルや教育水準の低下が著しいんです.
「このままではノーベル賞がとれなくなる」という懸念もされていて,まあ,ノーベル賞はどうでもいいですけど,まともな学術研究ができない環境にあります.
実際,日本では大学・研究所と研究者は増えているのに,発表論文数は低下しています.

その理由はというと,現在の日本の大学は,教員や研究員が「研究」するよりも「経営」することに注力しなければいけない状態にあるからです.
安定した経営ができない大学運営者としては,教職員に学生募集とか広報といった活動を精力的に取り組ませることで,「この難局を皆で分かち合いたい」という気分にさせています.
結果,当初は上層部の先生たちの研究する時間が減っただけだったのですが,次第に大学全体で取り組むようになり,そのうち若手に振るようになったもんだから,若手が研究できなくなっている状態にあります.

ノーベル賞もそうですけど,その研究者が自身のキャリアにおける代表的な研究業績に取り組んでいた期間というのは,30歳〜40歳ぐらいの若手の時なんです.当たり前ですよね,その時が頭脳も体力も充実しているわけですから.
ところが,現在の大学はというと上記のような次第で,非常に多くの「画期的な研究の芽」をこれでもかと潰しまくっている状態です.

大学教育というのは,研究者である教員が取り組んでいる研究成果を資源としていますので,教員が研究できない状態というのは,これすなわち教育できない状態となります.
ところが残念なことに,世の中の多くの人々は,大学教育を学校の延長だとしかイメージできない人や,大学教育とまともに向き合わずに卒業した人が圧倒的多数を占めています.
だから,「大学で学んだことは社会で役に立たない」とか「これからの大学は,研究よりも教育にシフトすべきだ」などとトンチンカンな事を言い出しますし,それが多数派となる.

前置きが長くなってしまいましたが,高等教育無償化と抱き合わせるべき政策というのは,大学卒業基準の厳格化です.
現在のように,「Fラン大学」だとか「難関大学」だとか言って,「入学」することに価値を見出しているかぎりは,大学教育の無償化は絶対失敗します.

Fラン大学であっても,そこにいる教員の質が低いわけではありません.Fラン大学に勤めている時に良い研究業績を積んだり,流行りの研究テーマになったからということで有名大学に招かれるケースは多いものです.
なので,有名大学には「ハズレ」の先生が少ないとは言えますけど,研究者・教育者としての能力は,どの大学であっても,そこにいる教員に差はありません.

ところが,Fラン大学は「Fランだから」という理由で学生数確保に難儀し,入試による基礎学力の差から,卒業させるためのハードルは大学間で相対的なものになってしまいます.
その結果,「Fラン大学の卒業生よりも有名大学の卒業生の方が優秀」という状況が,なんだかんだで発生してしまう.

「Fラン大学の学生でも,しっかり育てれば学術的思考力はつくし,有名大学と比べても遜色ない能力を引き出せる」と考えている人たちは多く,私もその一人です.
しかし,文部科学省から大学に向けられる指示には,有名大学であろうとFラン大学であろうと,進級や卒業といった場面で,一定数以上の留年者や卒業延長者を出してはいけないという圧力が作用します.まさにお役所的発想ですね.別に批判するつもりはありませんが,非難したい話です.

学士のレベルを維持・向上させたいのであれば,進級・卒業のレベルを維持,または引き上げれば済む話です.
Fラン大学ではなおのこと,学習目標が達成できていない学生が多くなるはずなので,どんどん落とせばいい.
そうやって,どの大学に入学しても教育レベルが一定になるようバランスをとれば,卒業生の学術レベルは保たれることになります.
簡単な話だと思うのですが,世の人々には受け入れられません.不思議ですね.

それよりも「手厚い指導と支援により,進級できない学生や,単位を落とす学生を減らすように努力する」ことを求められます.
最近の大学では,学生が寝坊しないようにモーニングコールをしたり,保護者説明会や学生親睦会を頻繁に開くなどして,大学に登校しやすい配慮をするようになっているのをご存知の方も多いかと思いますが,それは上記のような理由によります.

もちろん,Fラン大学で優良大学並の厳しい(?)指導をしてしまうと,退学する学生や定員割れする大学が “最初のうちは” 頻出するであろうことは容易に予想できます.
しかし,それこそが「大学教育無償化」によって,Fラン大学の経営難を緩和すべきことなのです.

どの大学であっても卒業生のレベルに差はない.
もちろん完全にそんなことにはならないだろうし,各大学のオリジナリティなども出てくるはずですし,そうであってほしいとも思っているのですが,日本の大学教育無償化が目指すべき方向性だと思います.
これは夢物語ではなく,例えばドイツ系の大学では,「私は◯◯大学卒業です」といったステータスはなく,どんな学問領域を専攻したのかが問われるそうです.ドイツの人から聞いたので間違いないはず.
むしろ,日本のように大学間でステータスの差があることに驚いていました.

ですが,そんな簡単なはずの話が,なぜか「学部の切り売り」などという政策との合せ技になっているようですね.
つまり,政府としては大学教育を「民間経営」の思想と基準で進めていくつもりなのです.
ニュースにもあるように,経営を効率化させたり,人気学部を強化したりしたいのだそうです.
そもそも学部を切り売りしたところで,そんな学部を買う機関があるのか? あったとして,そんな機関はどんな所なのかが気になりますが,脳ミソがとっ散らかっているような政策であることは間違いありません.

この記事のタイトルですが,「絶対理解してくれない」というのは,大学教育を充実させ,大学教育を受ける機会を増やすことの恩恵を,世の人々が理解してくれないという意味です.
これは世論の理解は期待できませんから政治的に進めるしかないのですが,現政権には期待できません.むしろ悪化させる可能性大です.

一昔前も,どの国の「世論」も似たようなことを言っていました.
「学校なんかで勉強するよりも,丁稚奉公させたほうが仕事ができるようになる」
「頭のいい子供だけが勉強すればいい.こいつは頭が悪いから肉体労働をさせる」

時代が変わり,学校が大学に変わっただけのこと.10歳くらいの話が,20歳くらいの話になったわけです.
将来,50年〜100年くらい経ったら,今度は30歳,40歳といった社会人が学ぶ(という概念ではなくなっていると思うけど)機会を,国がどのように提供するか? について議論されていると思います.

教育とは,そこに完成形として存在するものではありません.流れのある話です.
遠い将来についての私見としては,「勉強・学習」というよりも,「研究・調査」という概念で進められる活動だと考えていますが,まぁ,これは完全に推測です.

学校や大学で勉強するのは,良い就職先にありつくためではありません.勉強が仕事に役立つわけでもない.
それらは,学校や大学で勉強することによって,随伴して得られるものであって,最大の目的ではないのです.

人が勉強するのは,より良く生きるためのヒントを得るためです.
それを踏み外した教育政策にならないよう注視していく必要があります.


2017年11月7日火曜日

私の天皇論

今上陛下が生前退位の意向を表明されてからというもの,ネット上でもこの議論をよく目にするようになりました.
平成30年を節目として譲位することが計画されているようです.
元号が変わることが決まっていると,なんだか楽しみですね.

私は生前退位には賛成します.
死ぬか心身がボロボロになってからじゃないと譲位できないというのは惨い話です.
歴史的には天皇の生前退位はいくらでもあったのですから,あとは在位中の天皇の意向に沿っても良いのではないかと思います.

私としては「天皇」のことについて何か論じるほど知識も関心も無いので扱ってこなかったのですが,一臣民として天皇をどのように捉えているかブログしておくことも良いかと思いキーを叩いています.
今回は,生前退位の件で取り沙汰されることの多かった,「万世一系」「男系継承」という点について.

まず明らかにしておいた方がいいであろう私の考え方として,日本に天皇をおくことについては諸手を挙げて賛成しています.
今の日本の在り方を象徴する存在として,天皇と皇室は無くてはならないものです.

しかし,天皇と皇室を廃止するような動きがあったとしても,これに頑なに反対するつもりはありませんし,何かしらの事件・事故等で皇室の皆さんがいなくなったとしても,日本が混乱して立ち行かなくなるような事態にはならないだろうと楽観してもいます.

右翼系の人のなかには情熱的に皇室を捉えている方々がいます.皇室がなくなったら日本ではなくなる,と考えている人も少なくありません.
別に彼らを批判しようってわけではありません.
むしろ,熱心な人達だなぁ,と感心している次第です.

逆に,皇室や天皇制を廃止しようと訴えている人たちを批判するつもりもありません.
彼らは彼らで,天皇に代わる何かを用意して日本国と日本人をやっていけるのでしょう.
別にそれでも構わないと思いますよ.

作家で元東京都知事の極右政治家とされる石原慎太郎は,「皇室は役に立たない」とか「天皇を最後に守るべきものではない」と言っているようですが,これは私も別の意味で賛成します.賛成するというのは,石原氏の考え方にではなく,表現に対してであって,私は真逆の意味で言っています.
つまり,皇室は役に立つためにあるのではないし,天皇よりも守るべきものは日本にはある.天皇や皇室とは,そういう「機能」とか「価値のランキング」にかけるようなものではない,というのが私の考えです.
もし,皇室や天皇が今の日本からなくなったとしても,おそらく日本人は「天皇のようなもの」を新たに創造して「日本」であることを確立させる.今,天皇制に反対している人たちは,そういう日本が見えているのかもしれません.

もちろんこれは今の日本であって,遠い将来においては,日本は天皇を戴いていたとしても「日本」ではなくなるであろうし,その時が,おそらくは天皇制を廃止する潮目なのかもしれません.
言い換えれば,「皇室があるから日本たりうるのではなく,日本たりえているからこそ皇室がある」ということ.
私は天皇と皇室の存在をそのように捉えていますし,どちらも遠い将来においては消えゆく定めをもっているものと考えています.
日本が近代に入ったことで,「消える」ことは決定的になったとも言えるでしょう.
そういう意味で,天皇制反対を唱えている人は,私からすれば時期尚早だし,せっかちだと思います.そんなに急がなくてもいつか必ず「天皇制の廃止」はやって来きますので,のんびり待っていてはどうでしょうか.

さて,そんな天皇の跡継ぎ問題ですが,私はこれにも楽観的で,むしろ男系であれば誰でも天皇にしていいのではないかと考えています.
これについては男系男子にこだわる右翼系の人たちとも意見が一致すると思います.

でも,私はそもそも歴代の天皇が男系だけで継承されてきたとは思っていません.
だからもっとゆるく捉えてもいいのではないかと,そういうことです.

皇位継承ですが,神話である神武天皇からのつながりはもちろんのこと,実在が有力視されている応神天皇や,一度途切れているのではないかされる継体天皇からの血筋も怪しいものです.
おそらく,明治天皇から現親王までの皇統は,メディアにさらされているので本当なのでしょう.
ですが,それ以前なんてかなり適当だと思いますよ.

昼ドラ的な話で,その女性が皇族ではない男性の子を身籠ってしまい,その子かその子孫が天皇になってしまった,なんて事態は容易に想像できます.
昼ドラ的な話じゃなくても,皇室がどうしても男子が欲しいという事態に迫られた時に誤魔化した場合だってあるでしょう.例えば,キチガイ地味た天皇やその側近が「男子が生まれなかったら殺すぞ」などと側室の女性を脅していたとしましょう.で,産まれたはいいけど残念ながら女子だった時に,その周囲の人達がこの女性を憐れんで,昨日どこかで産まれた男子を拾ってきて入れ替えた,なんて歴史ミステリーも想像できます.
こんなに複雑な話じゃなくても,都合に合わせて子供を用意したというのはあり得たのではないでしょうか.

なんにせよ,天皇の血統が男系だけで「本当に」継承されているというのは,人間模様を含めて考えれば確率的に言って非常に怪しいと思うんです.
私はなにも「皇統はデタラメだ」と言いたいわけじゃなくて,「万世一系」「男系継承」について,もっと遊びを持って捉えたほうがいいのではないかと言っているんです.

天皇の存在は,万世一系,男系継承されてきたから価値があるわけではない,ということ.もっと別のところにあるのではないか,私はそのように考えています.
現段階で私が捻り出せる言葉としては,「日本人が天皇という存在を共有する」という状況それ自体に,その存在価値があるのではないかと思うんです.そしてそれが,天皇を中心とした国の在り方と評される.

福田恆存が書いた『芸術とは何か』の冒頭に,「呪術について」という評論があります.
「呪術を用いていた原始人は,その効果を本当に信じていたのか? いや,彼らは呪術に効果などないことを知った上で,それでも呪術を用いていたのではないか」という趣旨なのですが,これが天皇を戴く日本にも同じこと言えるのではないかと思います.
これは,天皇が「君主」という側面よりも,「祭主」としての存在が強いことも親和性が高くなることに影響しているでしょう.

私が天皇を「役立つもの」でも「守るべきもの」でもないと言うのは,福田氏のこの文章で説明できます.
呪術は自然を客観的に説明するためのものでもなく,また直接的に自然を支配するためのものでもありません.それは人間が自然と合一するための行為であり,より純粋に,そしてより強烈に,みずからが自然物であることを意識し,その自覚に酔うための行為であります.
天皇は,世界に誇れるから残した方がいいわけでも,万世一系を保ち続けているから価値があるわけでもない.ましてや,価値があるから守るべきだとも思っていません.
天皇には何かの機能があるわけではない.我々日本人が,日本人であることを確認するために見つめているもの,それが天皇ではないかと思うのです.

その「見つめ方」には人それぞれあるでしょう.
天皇に国家の伝統を見る人もいれば,世界への自慢を見る人もいる.存在に反対する人もいれば,抹殺を企てる人もいる.彼らは各々の理由でもって天皇を見つめ,考え,それに酔っている.
でも,そういう見つめ方がたくさんあること自体が,この日本を形作っていることの証左であり,だからこそ私は天皇に「存在理由」などいらないというわけです.

天皇と皇室がどれだけ偉大なのかを,あれこれ理由をつけて説明したがる人がいます.
でも,そういうのに私は気持ち悪さが湧くんです.なんか違う,と.
これについても福田氏の文を引いておきます.
われわれ現代人が原始人を嘲笑することなど,もってのほかだ.かれらは知っていたのです.なにもかも知っていた ― すくなくとも現代の文明人以上に.つまり,かれらはだまされることを意識してだまされた.が,われわれはだまされまいとして,いや,だまされていないと安心していて,その結果,けっこうだまされている.
今の日本ほど,天皇のことを騒ぎ立てている時代はないのではないか? そして,その騒ぎ方は小賢しい理屈にまみれていて,天皇を戴いていることの本質から外れているのではかいかと感じています.

2017年11月2日木曜日

体育学的映画論「クリーピー 偽りの隣人」

神奈川県座間市で起きていた事件と似ている.ただそれだけの理由で取り上げてみた映画です.
今回の事件のニュースを見て,きっと他のとろこでも「状況がこの映画と似てる」と言わているかと思います.

神奈川県座間市で起きていた事件というのは,こういうやつです.
座間のアパート、計9遺体発見…住人の男を逮捕(読売新聞2017.10.31)
神奈川県座間市のアパート一室から複数の遺体が見つかった事件で、室内からは計9人の遺体が見つかったことが捜査関係者への取材でわかった。遺体はいずれも切断され、クーラーボックスなどに入っていた。
どうしてこんな事件が出来たのかというと,自殺幇助をほのめかして誘っていたようなんです.
「一緒に死のう、自殺手伝う」書き込みで家誘う(読売新聞2017.11.2)
神奈川県座間市のアパート一室で男女9人の切断遺体が遺棄された事件で、白石隆浩容疑者(27)(死体遺棄容疑で逮捕)は、ツイッターで自殺志願者を探しだしていたことが捜査関係者への取材でわかった。(中略)「一緒に死のう。1人で死ぬのは嫌なので」「自殺を手伝う」などと書き込んで接近し、自宅に誘っていた。遺体で見つかった9人のうち、女性の8人とはツイッターで知り合ったという。
精神的に異常をきたしている人が,精神的に異常な人に吸い寄せられていくのはよくあることです.
でも,意味がわからない事件ですよね.私もそうですが,世の大多数の人々には受け入れ難い話です(受け入れるのもおかしいけど).

黒沢清監督「クリーピー 偽りの隣人」(2016年)は,そんな精神異常者たちが作り出す箱庭を眺めているような気分にさせてくれる映画です.
案の定,こういう映画は世間からのレビュー・評価がとても低い.

たしかに一般人を喜ばせるためのエンターテイメントの構成にはなっておらず,一応はストーリーができているものの,出来事を映し出すだけになっています.だから,分かりやすい物語だと構えて見てしまうと退屈になってしまうのです.

この作品には視聴者に対する大きなフェイクがあります.
それは,劇中に登場する人物のほとんどが精神異常者だということです.
精神異常者の設定である香川照之演じる西野とその娘は,紛うこと無き精神異常者であり,サイコパス殺人鬼なのですが,隣人として引っ越してきた主人公の高倉夫婦も精神異常者です.
西島秀俊演じる高倉は,一見「犯罪心理に詳しい熱血刑事」ですが,要するに犯罪心理マニアで,犯罪そのものが大好きな危ない奴です.
そして,竹内結子演じるその妻は,孤独と寂しさのなかで完全にイッてしまってる女性です.そんな事態に至るまでの描写が弱いからそう捉えにくいのですが,こういう破滅的な人って結構いますよね.

映画のレビューなんぞを見てみますと,
「どうして高倉の妻があんなことするのか分からない」とか,「普通に考えておかしい」といったものがありますが,そもそも,ここに映し出されている人物はみんな普通じゃないんです.普通に考えてはいけません.
サイコパスである西野に基準値が設定されてしまうため,それに対峙する人物は「普通の人」であると考えてしまいますが,実は劇中の人物は誰もが異常者なんですよ.

「どうしてそんなことをするのか分からない」という疑問を,殺人犯である西野に向けることはありませんよね.なぜなら,彼はサイコパスだからです.サイコパスによる殺人に理由を求めることはできないことは,少しずつ世間に浸透してきました.
これと同様のことが,高倉やその妻,その他の登場人物の行動にも言えます.

登場人物たちの行動には理由がない.「それって物語や映画として破綻してるんじゃないのか」と考えられなくもないのですが,そういうもんだと思って見れば,それなりに興味深い作品ではあると思います.判別しにくいだけで,それを示す描写はずっとあるわけですから.

つまり,「サイコパスに翻弄される普通の人」というよくありがちな設定ではなく,「サイコパスの周りにはサイコパスみたいな奴が寄ってくる」というのが,この映画で描かれている重要なテーマです(と私は受け取りました).

一見普通の女性が,「どうしてあんなクズみたいな男と結婚したのか?」という話も枚挙にいとまがありません.
「クリーピー 偽りの隣人」のテーマもこれと一緒.実は身近なお話と言っていいでしょう.


2017年10月29日日曜日

体育学的映画論「ブレードランナー2049」

この週末はあっちこっち飛び回って結構忙しいのですが,ちょっと無理してドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『ブレードランナー2049』を見てきました.

これは10月27日(金)に公開された映画.
仕事が一段落してからとも思ったのですけど,リドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982年)のファンの一人としては居ても立ってもいられず,スケジュールにねじ込んだところです.

以降,ネタバレは最小限にしますが,関係が深い話が出てきます.ご注意ください.
でも,ブレードランナーのことをあまり知らない人にとっては,むしろ以下を知った上で見たほうが良いかもしれません.ご参考まで.

さて,前評判では賛否両論でしたけど,私としてはかなり楽しめました.
さまざまなところで論じられていることですが,この『ブレードランナー2049』は前作を含めて万人受けする映画ではありません.
今でこそ1982年の『ブレードランナー』はSF映画の最高峰として有名になっているようですけど,公開当時はアメリカでも難解なクソ映画として酷評されていたとのこと.
生命科学や哲学の論考を好む人達に好かれるタイプの映画であり,家族で楽しむエンターテイメントでもなければ,デートで気軽に鑑賞して話題にすることもできません.

かくいう私も,子供の頃にテレビで放送されていた『ブレードランナー』を見た時はイマイチ話がわからず楽しめなかったんです.でも,何度か見ているうちに,どうして人造人間たちが反乱を起こしているのか?とか,なんで人造人間は最後にデッカードを助けたのか? なぜデッカードは寿命が尽きるはずのレイチェルと共に逃亡したのか? その際に玄関に落ちていた折り紙がなぜユニコーンなのか? とか,大人になるにつれていろいろ解釈できるようになってきます.
つまり,見る度に魅力が増してくるのがブレードランナーという映画の特徴なんですね.
大学生以降では1年に何回か見る映画になっていたので,その都度借りたりネット上で探すのが面倒になって,7年くらい前についにDVDを購入しました.
私がDVDを購入するのは極めて珍しいことです.

今回の『ブレードランナー2049』は,前作の世界観をそのまま引き継いでいます.
ブレードランナーって「陰鬱なゴミゴミした街に汚い雨が降っている」という世界が象徴的ですよね.この世界観がその後のSF作品に及ぼした影響は大きいとされています.
この風景のモデルは日本・新宿歌舞伎町とのこと.
今回のブレードランナー2049は東京の映画館で見たのですが,見終わって映画館を出てみますと,台風の影響を受けて薄暗いなか雨が降っているんですね.それが完全にブレードランナーの世界と一緒.思わず鳥肌が立ちました.

テーマについても前作と同様,人間とは何か? を問い続けています.
シンプルなアクション映画だと思って見ると面食らうので注意が必要です.
今作の捜査官(ブレードランナー)である主人公のKは,新型の人造人間(レプリカント)であり,周囲からは「人間もどき」と侮蔑され,同じレプリカントからは憎まれています.さらに,そのKの恋人は人工知能という設定.

実は前作の「ブレードランナー」においても,主人公のデッカードは新型レプリカントであるという解釈があります.デッカードの目が赤く光るシーンがあること.ユニコーンの夢を見て,そのユニコーンの折り紙を見つけて頷くシーンが入っていること.原作がフィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」という点からです.
※詳細はウィキペディアを御覧ください.■ブレードランナー(wikipedia)

この点を「ブレードランナー2049」におけるヴィルヌーヴ監督は “きっとファンのために” きちんと回収しており,前作の主人公デッカードが,
「自分のことを人間だと思っていたけど,実はレプリカントだったのか!?」
というものに対し,今作の主人公Kでは,
「自分のことをレプリカントだと思っていたけど,実は人間だったのか!?」
というストーリーに仕立てられています.
その結論は映画を見てのお楽しみ・・・,ですし,さらにファンとしては嬉しいことに,この点も実は「結局のところ謎なのではないか?」として曖昧になっているのが,さすが「ブレードランナー」です.
「Kは何者なのか?」は,見る人の妄想を掻き立てられるようになっている.

あと,「ブレードランナー2049」の重要なストーリー設定が,「妊娠できるレプリカントがいる」というものです.
レプリカントが妊娠できるとなると,では「人間」とは一体どういう存在になるのか? 何を持ってレプリカントと人間を分かつのか?
これが今作における重要なテーマになっています.

もちろんお察しの通り,「妊娠できるレプリカント」とは前作のレイチェルであり,その父親がハリソン・フォード演じるデッカードなんですが,ではその子供は人間なのか?人造人間なのか?
こうしたテーマが,今作の主人公であるKの存在や,その恋人が人工知能のホログラムである「女性」であることと鮮やかに対比されています.

今回の「ブレードランナー2049」には前日談が用意されていて,この世界ではデッカードとレイチェルが逃亡した2019年のあと,2022年にアメリカ中を「大停電」が襲っているとのこと.
それによりあらゆる電子媒体での情報が消えてしまい,その復旧に膨大な時間がかかっており,未だに完全な情報としては残っていないという設定があるんです.
その事件の経緯がユーチューブでアニメ作品として公開されています.
ブレードランナー ブラックアウト 2022(youtube)

前作の2019年に反乱事件を起こしたレプリカントは「ネクサス6型」なのですが,この型には寿命が4年という設定がありました.
次に生産されたのが寿命に制限のない「ネクサス8型」であり,このネクサス8型が大停電のテロ事件を引き起こします.
ちなみに,2049年において活躍しているのは「ネクサス9型」で,主人公のKもこの形式です.

ところで,「じゃあ,ネクサス7型はどこいった?」と思われるでしょうけど,そのネクサス7型というのが繁殖能力を付与されたレプリカント「レイチェル」(そして,もしかするとデッカードも)だったという設定なのが「ブレードランナー2049」なんです.

で,ここで先ほどの「大停電」という事件の重大性が頭を擡げてきます.
結論から言えば,「ネクサス7型はレイチェル(とデッカード)だけだったのか?」ということです.
「大停電による全米の電子データの消失」により,天然の「人間」と,人造の「人間」の区別が,役所や製造元に記録されていた「登録データ」からは判別できなくなっているんですね.
もしかするとネクサス7型は既に何体も製造されていて,しかもレイチェル(とデッカード)と同じように,自分がレプリカントだと知らずに生きている可能性は高く,彼らネクサス7型の子供やハーフが何人も生まれているのではないか? そして,大停電からの復旧に際し,「妊娠して誕生しているのだから」ということで,登録データを「レプリカント」ではなく「人間」として記録されている人がたくさんいるのではないかということです.
こうして,いろいろ妄想できるのもブレードランナーの魅力ですし,その余地を残して「2049」を作っているヴィルヌーヴ監督も憎い配慮をする人です.
DVDやネット配信されるようになったら,何度か見直してやろうと思います.

そう言えば,繁殖能力をもった人造人間の誕生について取り扱ったものに,先日発行された森博嗣 著『ペガサスの解は虚栄か?』があります.
今回のブレードランナー2049は,人造人間と人工知能が,遠い将来に「人間」としてどのように関わっていくかが描かれているとも言えます.
これと同じことが森博嗣氏の小説Wシリーズと百年シリーズで扱われており,ブレードランナーのパラレルワールドとして楽しむことも出来ますので,それだけにタイムリーなストーリーだったなと思います.

その「ペガサスの解は虚栄か?」の最後の方に,こんなセリフが出てくるんです.
「このままでは,人類は滅亡する.それさえも望んでいるのかもしれない.我々の子孫は,人工知能とウォーカロン(人造人間)だ.あとは,彼らに任せよう,といったところかな」

人造人間との間に生まれた子供は何者なのだろうか?
人工知能との間に「愛」は生まれるのか?
ということをウダウダ考えるよりも,そうしたことを当然の前提とした上で,彼らこそが人類の子孫だと捉えて解釈していく物語が刺激的.こちらの小説もオススメです.


関連書籍
  


2017年10月27日金曜日

体育学的映画論「関ヶ原」

どうしても映画館で見ておきたかったので,先週末の台風が近づく雨の中見てきました.
別に動画配信になってからでも良かったような気もするのですが,やっぱり日本を代表する合戦「関ヶ原の戦い」はスクリーンで見ておくべきだと思ったのです.

結果,残念な思いをしたところです.

そうは言いましても,昨年一番の残念な思いをした映画,
でも述べたように,監督や役者さん,スタッフの皆さんがせっかく作ってくれた映画ですから,こき下ろすような批評はしたくありません.

どうしてこんな出来になってしまったのか?
どうして(少なくとも私の)心に響かない作品なのか?
といった点をしっかり考察することによって,(少なくとも私の)今後の映画鑑賞の足しになればと思います.

以下,この記事を読んだ皆様の参考になれば幸いです.
以降より映画のネタバレを含みますが,史実に基づく関ヶ原の戦いがテーマなので,ネタはももともとバレてるだろうとも言えます.

今回の「関ヶ原」は,ここ最近の(って言い出して久しいのだろうけど)日本映画にありがちな,「どうしてこうなった?」が満載の映画です.
むしろ,その点を考察することで日本映画の質の向上,そして、今後の展望が見えてくるとも言えます.

まず,とにかく中途半端ですよね.
この一言に尽きると言っても過言ではない.
徹底して中途半端な作品です.
中途半端であることにかけては他の追随を許さない.そんなところを目指した作品だと言われてもおかしくありません.

本作はテーマがてんこ盛りです.
・原作・司馬遼太郎による解説と語りを基にした展開
・関ヶ原に至るまでの経緯を猛スピードで追うスタイル
・石田三成と女忍者との恋愛模様
・各武将の生き様の紹介
・エキストラを大量動員した壮大な合戦
・よく分からない素性の登場人物(朝鮮人兵士とか医療班とか)
史実と違うとか,余計な色恋沙汰を入れるなとか,そんな批判もありますが,私としてはどれもそれらはそれらで魅力的だと思いました.
でも,いかんせん全てが中途半端だった.

私的には,どうせなら石田三成と女忍者の恋愛模様にフォーカスを当てた方が良かったのではないかと思います.それこそ,莫大な予算がかかったであろう合戦シーンなんかは,適当なCGやNHK大河ドラマ並みの濃霧(煙)で誤魔化してしまえばいい.むしろカットでいい.

実際,女忍者役の有村架純さんは気合いの入った演技をしていました.ヘラヘラしておらず,かなり自然にくノ一を演じられていたと思います.アクションシーンも迫力があって及第点です.もっと彼女に焦点を当てれば良かったのに.

ただ,前言を撤回するようですが,戦国武将とくノ一の色恋もいいんですけど,やっぱり「関ヶ原の戦い」の映画でそれはないよね.
結局,どんな映画にしたいのか決めきれずに作り出したのが原因ではないかと邪推しています.だから中途半端になってしまった.

どうして古今東西の映画監督って,この手の戦争スペクタクル映画に辻褄の合わないショボい色恋沙汰を入れたがるんでしょうね.
もしかすると,「人気俳優・女優のからみを入れておけば,OLとか主婦層を取り込めるのではないか」などというプロデューサーやらスポンサーからの圧力があるのでしょうか.
そんなもの見せられても全然つまらないし,映画の質は絶対に下ります.それで成功した映画がない以上,もうそろそろ気づけよと思うんですけど.
たぶん,「マーケティング」とか「アンケート調査」の弊害です.不安なんでしょうね.
昨今の大学経営と似たような感じですな.

大きなテーマを扱う手前,あれもこれもと思いつき,「全部のせ」の「ごった煮」になってしまう.
我々の業界で言えば,抽象的なテーマで依頼された研究発表や,ピンポイントの授業とかオープンキャンパス用のスライドとかでよくある失敗です.
今作の「関ヶ原」では,それと同じものを見せられた気がします.

実際,ウィキペディアにはそれを匂わす経緯が紹介されているんです.
関ヶ原(映画)(wikipedia)
監督の原田眞人は1991年から映画化の構想を抱いており、当初は島左近を主役に考え、1998年には主役を小早川秀秋に変更していた。2003年に『ラストサムライ』に出演した際に目にした合戦シーンに触発されて「日本発の世界戦略時代劇」を作りたいと考えるようになり、主役を島津義弘に変更したが、最終的には小説と同じ石田三成を主役にすることになった。
言われてみれば,映画の構成がたしかに『ラストサムライ』っぽい.
けど,「日本発の世界戦略時代劇」というのであれば尚の事,島津義弘を主役にして,関ヶ原の合戦における壮絶な「リアル・スリーハンドレッド」を撮れば,関ヶ原マニアにはたまらない作品になったのに.
それこそ世界に向けて,「300人が撤退するために数万の敵本隊に向かって突進」という謎の作戦や,薩人マシーンによる『敵将のみロックオン戦法(捨て奸)』を見せてあげれば,
「Oh! カミカゼ・アタックの起源はココにあったのデスネ!」
って話題になること間違いない.
ハリウッドの「ラストサムライ」のサムライ達は敵中突破できませんでしたが,例の一族ならやってのけます.事実なんだから仕方ない.
朝鮮人兵士による自爆テロを見せられても,日本発の世界戦略時代劇にはならないと思うよ.

せっかく「関ヶ原の戦い」という極上サーロイン肉があるんです.
小洒落た創作料理なんかにせず,普通にステーキで食べさせてくれればそれでいい.それが私の希望です.
具体的には,2017年現在において最も史実に近しいと考えられる関ヶ原の戦いの戦況推移を描いてくれた方が嬉しかった.

つまり,「この映画を見れば日本のサムライの戦い方が全てわかる!」という映像資料も兼ねた映画です.
その方が,ことあるごとに世界中の教育機関で中世日本の「サムライの戦い」の映像資料として使ってもらえるので価値が出るんじゃないかと思うんですよ.
例えば,大学の「中世日本の歴史」なんかの講義があったとして,そこで学生に見せる教材としても便利でしょう.
興行的には歴史マニア以外は鑑賞しないでしょうから収入の面では厳しいでしょうけど,それ以上の意義があると考えられます.

現在,時代考証が考慮された中世日本における質の高い合戦シーンを撮った映画って無いですよね.
これってお金はかかるけど日本映画界の「仕事」としては重要だと思うんですよ.ハリウッドとか外国じゃやってくれないから.
どうやら日本の合戦シーンを撮る技術も失われてきているらしいので,その技術の維持と発展のためにも大切ではないかと思います.


2017年10月23日月曜日

選挙結果の話

選挙結果が出ましたね.
自民圧勝というのか,現状維持というのか,評価はいろいろでしょうけど.

先日お話ししたように,私は選挙・投票には滅多に行きません.今回も行きませんでした.
選挙結果にも関心がないとも言いましたが,全く目を通していないわけではありません.
それなりに国情は分析しています.

「投票しなかった奴は政治に口出しするな」と言い出す人もいますが,投票した奴だからと言って口出しできる道理もありません.
選挙なんて所詮は人選びです.裁判員制度とかみたいに抽選で決めたっていいくらいだと思います.

そもそも,「我こそは選挙で投票した者であるぞ!」ってドヤ顔したところで,その選挙結果にあれこれ言っても無駄ですよね.もう結果は出ているんだから.
これはちょうど,我々の業界で言うところの「オープンキャンパスの来場者数」とか「入試志願者数」に対する講釈と似たところがあります.
そんな話を以前したこともある.
オープンキャンパスの来場者数を想う
実のところ,選挙と大学のオープンキャンパスや志願者数争奪戦はよく似ています.

「政治家と国民」「大学と学生」,いずれも始まってからの取り組みの方が大事なのに,その入口に立ったところがゴールと思ってしまっている.
これは日本人の特性なのかもしれませんね.もしかすると,学校や大学教育の取り組み方を改善することで,半世紀くらいすれば選挙や政治への視座も変わってくるのかもしれません.

いずれにせよ,選挙で投票することが国民の政治的主張の表明であるという勘違いは早急に是正されるべきです.取り返しのつかないところまで行く前に.

ところで,私の地元の選挙区・高知2区では,「保守王国・高知」を示す結果が出ておりました.
無所属の広田一氏が,元農水大臣であった自民党・山本有二氏を破って当選したのです.
山本前農相が比例復活 高知2区は無所属候補勝利(西日本新聞2017.10.22)
もちろん,山本有二氏は農水大臣であった昨年にTPPを強行採決する旨の発言が物議を醸しており,これが響いたことは間違いありません.
ですが,高知県は農林水産業で成り立っている地域です.そんな地域出身である山本氏が農水大臣をやっているのに,政府のTPPの方針にホイホイついて行くような姿は地元民にどのように映ったか.

というか,もともと,高知2区での山本有二氏への信頼は薄かったんです.
昨年の記事である■山本有二:鳥無き島の蝙蝠にノミネートでも書きましたが,私の両親を始めとして,地元民の方々の評判はすこぶる悪い.
昨年の農水大臣での所業を見た高知県民は,ついに山本氏を見限ったと言えます.

先ほど高知は保守王国だと言いましたが,本当に保守的なんです.もともと,昨今の自民党中枢部が掲げているような左翼思想には反発する気質があります.
2005年の郵政選挙の時も,高知では自民党議員を当選させる一方で,根強く郵政民営化反対の嘆願がありました.
さらに言えば,高知は保守王国である一方で,共産党王国でもあります.
2013年参議院選挙日本共産党得票率
2012年衆議院選書日本共産党得票率
つまり,右翼と左翼の両翼が強いという,とても特徴的な地域なんです.
「保守=自民」「保守=反共産」と考えているニワカ者には分からないでしょうけど,この感覚は大事です.

別に難しい話ではありません.これが本当の意味での保守的な地域なんです.
右翼が強くなったら左翼に移り,左翼が強くなったら右翼に移る.
そうやってバランスをとるのが保守です.

かつての高知県知事である橋本大二郎氏は,高知の県民性をこのように評価したとされます.
※私の父から伝え聞いた話ですので,間違っていたらごめんなさい.
「高知県の人は議論を好む.あれをすればいい,これをすればいいと,いろいろ面白い提案をしてくれるのだが,問題なのは,いざそれを始めるとなった時にまとまりがない」
えぇ,分かります.
何か一つのことで一致団結することはありません.天邪鬼気質っていうのでしょうか,必ず対立構造を作りながら進めるんです.傍から見たら面倒くさいのでしょうけど.
畢竟,トップダウンが嫌いなんでしょうね.現場でアレヤコレヤと話し合いながらやるのが好き.だから保守気質も維持される.

そう言えば,2014年に文科省が企画した「スーパーグローバル大学構想」ですが,それに応募した高知大学のプロジェクト構想名がこれ↓
「スーパーグローカルな高知大学の形成」
平成26年度スーパーグローバル大学等事業申請状況(文部科学省:PDFページ)
構想名からして企画の趣旨を真っ向否定.さすがトップダウンが嫌いなだけはある.
もちろん不採択でした.

今回当選した無所属の広田一氏も,以前は民主党からの推薦を受けていたこともあります.
今回の選挙では民進党の成れの果てである「希望の党」からのオファーがあったそうですが,これを断り,完全な無所属で「反安倍政権」による選挙活動を展開しています.
つまり「反自民」を掲げているわけで,今回の選挙結果は高知が反体制・反中央を示したと言えます.
ようするに,安倍政権に擦り寄るような奴をここから出したくない,ということ.世が中央になびく時代になったから,その反対の道を選んだということです.

冒頭にお話しした,「選挙とオープンキャンパスは似たところがある」ということについてですけど,それを一言で表せば,
「獲得数(入場者数)は選挙(オープンキャンパス)が始まる前に決まっている」
ということです.
これはオープンキャンパスではなく入試志願者数にしても一緒.
さらに付け加えるならば,
「その獲得数(入場者数)を増やそうと躍起になることで,本来の政治(教育)ができなくなる」
と言えます.
だから程々にしなければいけません.難しいのでしょうけど.

大学がその年にどんなに広告を頑張ったところで,入試志願者数が増えたりすることはありません.
志願者数とは,大学がそれまでの過去5年,10年の間にやってきたことの結果です.
これは選挙結果も一緒ですね.というか,そうであるべきです.

例えば沖縄県では,その他の地方の情勢とは裏腹に,自民党が負けました.
沖縄、自民に逆風強く 3選挙区敗北
こういうことに対し,「沖縄は左翼が強いから」と批判めいたことを言う人達もいますが,そもそも,沖縄で左翼勢力が強くなってしまった経緯や,左翼に頼ろうとする状況に目を向けなければいけません.

私も必ず毎年1〜2回は仕事で沖縄に行きますし,ゼミの学生にも沖縄出身の人がいるのですけど,ここ数年,いろいろ話を聞いてみても,この地では反基地の機運が高まっているのを確かに感じます.
それは,「沖縄県民の多くは,本当は基地を望んでいる」とか「反基地運動は本土から来た活動家がやっていること」などというレベルではなく,ようするに中央政府のやり口に辟易している住民は多いんです.
ですから,今回の沖縄の選挙結果は真摯に受け止め,基地問題について沖縄県民の要望はしっかり耳を傾けるべきです.

それに対し,「沖縄では反基地が勝ったかもしれないが,全国では自民が大勝している」と言い,その挙句,「だから沖縄は,日本政府における基地政策を聞き入れろ」と言い出す人もいます.
やばいですね.日本各地で選挙をして,そこから議員を選出している意義が分かっていないんでしょう.
2010年の民主党・鳩山政権の時にも同じこと言えばよかったのに.「“最低でも県外” は日本政府における基地政策なんだから,国民は聞き入れろ」って.

結局,これまでに沖縄県民の顔を札束ではたくような政策を続けてきたつけが,今になって噴出してきているんです.
そのつけは国民全体で考えなければいけないし,丁寧に向き合わなければならない事です.
その他,沖縄基地問題に関する話は過去記事にもありますので,ご参考まで.
沖縄基地問題を諦める
続・沖縄基地問題を諦める:私と同じ認識を示した某女性歌手への保守系論者の反応

他にも,「どうしてこんな奴が当選したんだ!」と憤りたくなる選挙結果はあるものです.
でも,彼ら/彼女らが当選したからにはそれなりの理由があるはずです.
その候補者に政治家になってもらおうという人々の要望はあったはずで,それがどういう性質のものかを考えなければいけません.
そこに善悪や正誤を見出すかどうかは別としても,これらをしっかり分析し,次の時代に備える.
こうした飽くなき取り組みが,政治の質を維持するためには大事だと想うのです.


2017年10月22日日曜日

今日は選挙ですね.お疲れ様です

今日は選挙ですね.
昨年の参議院選挙の時もそんな記事を書きました.
今日は参議院選挙

その時にも話したことですが,私は選挙には関心がありません.
選挙結果を動かすことになる部分での情報や話題の提供をすることにしています.その方が私一人投票に行くよりも有効だからです.私が1票投ずるよりも,私の考え方に動かされた誰か2名が投票してくれる方が,世のため私のためになるのですから.
方法としてはこのブログはもちろん,大学での授業とか井戸端会議などがあげられます.
それが私なりの政治参加と言えるでしょう.

ちょうどいい機会なのでここで告白しておくと,私自身が選挙に行くことは滅多にありません.
投票日に暇で時間を持て余している時には行ったことがあります.
たまに興味本位で行けば気分転換にもなりますし.
でも,今日みたいに雨が降っている日は絶対に行かない.
細かい話は上記記事で書いているので繰り返しませんけど.

でも,こういうこと言うと怒り出す人がいます.
「投票しなかった奴は政治に口出しする資格はない」とか,果ては「選挙で決まった結果が気に入らないなら日本から出て行け」などと言い出す人です.
こういった人が人間社会には一定数いるのは仕方がないことです.
もしかすると,いつもあまり時間がとれずに,選挙とか政治のことを深く考えられない人もいるかと思いますので,そのためかもしれません.

でも,心の底から本気で「投票しなかった奴は政治に口出しできない」と考えている人っているものです.けどこれは,「選挙と政治」について丁寧に考えてくれれば間違っていることはすぐに分かります.

よく,「きちんと筋道立てて考えれば誰でも分かることだ」と言う人がいます.
私も授業とか論文指導でも同じことを学生に言いますし,このブログでも使うことがありますけど,実はこれは嘘です.
どんなに丁寧に時間をかけて考えても,分からない奴はずっと分かりません.
私が授業やブログでこれを言うのは,ちょっと煽って聞き手の思考への動機を促すためです.本心からではありません.手遅れな奴には無意味です.
世の中の人全てに叡智を授けられるような教育方法はないのが現状なのです.

例えば,「投票しなかった奴は・・・」などと熱り立っている人に,選挙で投票することが政治参加することになっていないこと丁寧に語っても,そもそもこの人物に話を聞く準備(レディネス)ができていないから理解しません.

極稀に大学生にもそんな人がいますね.
「俺が考えていることが絶対に正しいのだから,この考えを受け入れてもらうために頑張ることがレベルの高い大学生の在り方なんだ」みたいな感じ.
最近では,むしろそんな骨のある学生が減ってきて面白くなくなった,と仰る先生方もいますけど.

そんな学生と向き合い学術的な思考法を教えることによって,かえってこういう学生の方がアカデミックな領域に興味を見出すことがあります.それまでの反動でしょうか.
自分が信じて疑わなかったものが壊される快感,唯一絶対の解など無いことを知り,だからこそ唯一絶対のものを探したくなる好奇心.

結局のところ,大学教育というのは「何が正しいのか」ではなくて,「何が間違っているのか」を研究するところのように思います.そのほうがしっくりくる.
何が正しいのかを研究するのは,大学教育を受けた先のことです.

そんなこと言っていると,「四の五の言う前に,『投票しなかった奴でも政治に口出しできる』その根拠を言えよ」と言い出す人もいるかもしれません.
もしあなたが本当にそのように考えているのであれば,こう考えてみてははどうでしょう.
「投票しなかった奴は政治に口出しできない状態」をつくるとどうなるか,ということ.
これでは政治が成り立たないことが容易に分かるかと思います.投票しなかったことが理由で政治に口出しできないとか,どんな酔っぱらい国家だよ,と.

さらには,政治に口出しするとはどういうことか? なにをもって口出しなのか?
そもそも,政治とは何を指しているのか?
逆に言えば,投票した奴が政治に口出しできるという根拠はどこにあるのか? 投票という行為によって「口出し」できるようになる理屈はなんなのか?
投票しなかった奴が政治に口出しできない理由はなにか?

考える時間がなくて感情的に「投票しなかった奴は・・」と言っていた人であれば,すぐにこの主張のバカバカしさを察知できると思います.
でも,分からない人もいますよね.はい,いるんです,どうしても一定数は.

別に思考能力に障害を抱えているわけじゃない.自分の今の状態や考え方が絶対的に正しいと居直っているのです.
その理由はきっと,人生のどこかで「選挙で投票することが国民の政治参加」だとでも教えられたのでしょう.
本人は至って「正しいこと」をしているつもり.だからその「正しいこと」とは反対のことをしているのは「間違っている」と.典型的なバカですね.

選挙と食事はよく似ています.先日,選挙期間ということもあって私の外食事情を記事にしましたが,これは私なりの選挙論です.気になる人はこちらも合わせて読んで下さい.
最近の自宅周辺の外食事情
私は馴染みの寿司屋と中華料理屋では,注文しなくても料理や酒が出てきます.
それを見て「あの人,注文せずに料理を食べているのはおかしい」とは言いませんよね.
「注文」という手続きを踏むことは正しいことです.でも.そうでない道があることも知るべきです.
注文したからって美味い料理が食べられるわけでもないし,その逆もまた然り.
だから,気に入らなければ「今日のこれ,あんまり美味しくないですね」って言えばいいことです.注文してないからって批評してはいけない理由はない.むしろ,注文していなからこそ店の側には響くとも言える.
もちろん,それで店に行くのを辞めるわけじゃない.これからも足繁く通うんです.でも,批評はする.それでいいじゃないですか.
ココらへんのことが分かってくれれば,選挙も同じことだと察してくれるでしょう.

結局,「投票しなかった奴は・・」などと言っている人は,選挙や政治に対する捉え方が幼稚なんです.誤解を恐れずに言えば,選挙での投票を義務付けている国・社会もやっぱり政治として幼稚なんですよ.国家としての連帯の危うさを漂わせていることの裏返しと言えます.要するに学校の「部活」みたいなもの.
幼稚っていうのは言いすぎでしょうけど,こんなことを義務みたいに考える社会は恥ずべきものです.実際,投票を義務にしている国なんてほとんどありませんし,あってもそれなりの事情が垣間見えます.
義務投票制(wikipedia)

いえ,別に私はこういう人達を否定したいわけではありません.こういうような人達であっても,我々日本国民であることに変わりはありません.
国が安定してくれればそれでいい.そのために選挙が機能してくれればいいんですよ.
選挙とは,「我々国民の意見を聞け〜!」っていう人を黙らせるシステムと言えます.
投票させてあげることで「私は今,政治参加しているぞ!」という気分になってくれるのであれば,それでOKなんです.

でも最近は,衆議院と参議院を一緒にして「一院制」にしようとか,国民が首相を選挙で直接選ぶ「首相公選制」にしようといった話が持ち上がっています.
これこそが最も危ない.
注文することに正義感と義務感を見出した者は,その欲望に取り憑かれます.
つまり,「投票した者こそが政治に口出しできる」というところを通り過ぎ,「投票によって政治に口出しできる」ところまで来てしまった.

こういう話は選挙結果や,投票に行った/行かなかったでどうにかなるものではありません.
選挙とか投票率とは関係がないことです.世論に訴えなければならない話ですから.

料理屋に来たからには,どうしても自分の気に入ったものを食べたいと考え「注文」する人は多いでしょう.
でも,注文しようとしまいと,旨い料理を食べることとは関係がないことを知るべきです.むしろ,メニューを選りに選って,結局まずいものを注文することだってある.
それに,注文の数にこだわり「人気メニュー」など分析していたら,料理人もそれに翻弄され,本当に旨い料理が食べられなくなるかもしれません.

2017年10月19日木曜日

体育学的映画論「ダンケルク」

先月から公開されているクリストファー・ノーラン監督作品『ダンケルク』(2017年)を,先日ようやく見ることができました.
公開前からかなり期待していたのですが,その期待を裏切らない迫力ある映画でした.

ネット配信されるようになったらもう一度見てみようとは思いますが,これは映画館で見ることをオススメします.
「追い詰められた軍隊」について,戦地での緊迫感や絶望感を追体験できる映画です.
特に,映画冒頭にある「最初の弾丸」からの銃撃戦で「生き残るために逃げている」側にいることを意識付けられ,没入感は最高.

そう言えば,三谷幸喜監督の映画に『ラヂオの時間』(1997年)というのがあるのですが,そこで「頭にマシンガンの音が必要なんだ.そこで惹きつけておかないと客が食いつかない」とマシンガンの効果音に拘る場面があります.なんだかそれを思い出させられました.
あとは終始,ハンス・ジマーによる不安を煽る重低音の音楽が(いい意味で)ダラダラと流れつづけており,気分が滅入ります.

予告映像にもありますが,浜辺にて帰国用の船を待つ兵隊の行列.
爆撃や機銃掃射を受けても,彼らは行列を崩さない.東京人もびっくりの「行列のできる浜辺」です.
私が過去記事で言いたかったことを「戦争」を通して間接的に表現しているとも言えます.その意味でもとても興味深い.
整列乗車はマナーではない

陸・海・空それぞれのシーンで異なる時間軸により話が進んで行き,最後に3つが統合されるという手法をとっているのですが,これも小説を読んでいるようで面白かった.

とりあえず,英国ジジイがカッコよすぎる映画です.

映画評なんかを見てみますと,ストーリーがないので退屈だとか,「ダンケルクの戦い」を事前に知っていないと意味がわからないなどというコメントが散見されます.
たしかに,ただひたすらダンケルク港からの撤退作業を見させられているのは事実です.
でも,私としては「こういう戦争映画が見たかった」と感じさせられたのも事実でして.
戦争映画の描き方の転機となる作品になるのではないかと思うんですよ.

それはもしかすると,近代以降における「戦争」を考えるテーマにもなるかもしれません.
つまり,「近代戦争とは,そもそも『ストーリーがない』のではないか?」という問題提起.
現代においては尚の事,顔の見えない,物語のない戦争が展開されている.
以前,そんなことを記事にしたこともありました.
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

いえ,戦争にストーリーがないのは近現代に限らず,人類の歴史すべてにおいて言えるのかもしれません.
しかし,かつてはストーリーにすることができたのです.人の姿形が見えていたからです.

スピットファイアと小舟が,戦争において「人の姿形」を見せるための最後の依代だ.
『ダンケルク』において感じるのは,そうした戦争と身体の臨界点のように思えます.

2017年10月16日月曜日

最近の自宅周辺の外食事情

関東に移住してしばらくは味付けの違いに辟易しており,仕方なく自炊することも多かったのですが,ここ数年は自分好みの料理を出してくれるお店を見つけて安定しております.
自宅周辺と勤務先の間にある,うどん,寿司,ラーメン,中華をローテしているところです.
安定するまで2年かかりました.

もともと,外食に限らず同じ店に繰り返し足を運ぶタチではあります.
理髪店もずっと馴染みのお店ですし,衣服もずっと自宅近くのAOKI.毎朝・毎晩通うコンビニも,自宅前のセブンイレブンです.

同じ店を使い続けると,当たり前ですけど「常連客」になります.
常連客って楽なんですよ.きっと店側もそうです.
そういう関係がなにかと楽だし,楽だから「楽しい」.

理髪店なら「いつもの感じで」で済ませられるし,ちょっとした追加注文するにしても話が通りやすい.床屋談義は月に一度の楽しみになります.
服を買うにしても,いつもの店なら馴染みの店員が対応してくれるので,最近のファッション事情なんかをいろいろ教えてくれます.私は服選びで悩みたくないので,その店員に任せることにしています.そこらへんの詳細は,過去記事にしたことがあります.
若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

さて,外食の話ですけど,私は30歳を越えてから寿司屋に足を運ぶようになりました.
もちろん回転していない店です.独身貴族ならではの楽しみだと思っています.
私が通っている店はそんなに高級なところではなく,安くあげれば3000円くらいで満腹になります.
けど,腕は確かなようでして,いつも繁盛していて予約無しで入ることは難しいですね.

私はいつも予約して行っています.一人なので席を取るのは簡単です.
何回か通っているうちに私を覚えてくれて,注文もスムーズになりました.
そのうちこっちが何も言わなくても「次,玉子握りますね」とか「お味噌汁を出していいですか?」,最後は「お茶を出してもいいですか?」ってなります.

いつも混んでいる店ですが,たまにポッカリと空いている時があるものです.
私は普段口をきかないのですけど,こういう時だけですね,大将と話しをするのは.
私も高知の港町出身ですから,それなりに魚の話題では盛り上がれます.魚料理や寿司屋について,いろいろ話が聞けるのは楽しいものです.
混んでいる時は,脂ギッシュなオッサン達が次から次へと「ヘイッ大将!」ってな感じで喋りたがるので,私みたいな若輩者が口を出すのは控えているんです.
大将としても,混んでいる時は私とは二言三言話して,あとは一人にしてくれます.あくまで私が「夕飯を食べに来ている」ということを尊重してくれるんです.夕飯用のものを握ってくれるし.

あと,寿司屋が暇な時にはよくあることなんでしょうけど,本来なら出さないネタを握って出してくれたりします.
先日は熟成マグロを出してくれました.なんでも,大将が最も好きなネタなんだそうです.
私,マグロって好きな魚じゃないんです.関東の人は好んで食べますけどね.ブリとかカツオのほうが美味しいのにって思っていました.
でも今回,熟成マグロを食べさせてもらって,マグロをみなおしました.あれはたしかに旨い.
こういうところが常連客になるいいところですね.

その寿司屋から200mほどのところに,行列のできる不味いラーメン屋があります.
どうして行列ができるのか不思議でならないのですけど,そのラーメン屋の向かいに中華料理屋があります.
ここがメチャクチャ美味い.

中国人のオッサンが料理やってて,店員も中国の女の子.客にも中国人が多いんです.
案の定,エビチリが不味い.けど,その他のメニューはすこぶる旨い.
ここも足繁く通っているうちに店員に覚えてもらえました.
この1年くらいはずっと「ピーマンと牛肉の細切り炒め」か「ナスと豚肉の甘味噌炒め」を基本とする定食しか注文しなくなっているので,注文を取りに来た女の子が「キョーはナスが無くなったデスヨォ」って親切に教えてくれることがあります.
実は「キクラゲと玉子の炒め物」もかなり美味しいんですけど,そこは一つ「じゃあ,ピーマンで」って.もしかしたら厨房のオッサンも既にピーマンを炒め始めてるかもしれないし.
こういうところが常連客のいいところですね.

この中華料理屋から100mほどのところに,行列ができない旨いラーメン屋があります.
行列ができないというだけで私のポイントは高い.極めて優秀な経営をされています.
麺,スープ,具,どれをとっても非常にオーソドックスなものを出してくれる店で,「私は今,普通にラーメンを食べているぞ」という気分にさせてくれるところです.

ひたすら黙々とラーメンを作り続けるオヤジ.無駄なことは一切しない.
私も昨年までは「麺は硬めで」と追加注文していましたが,最近は何も言わなくなりました.
「えぇっと,ラーメン」
「はいよ」
・・・
「はいお待ち」
それだけ.
こちらも食ったらすぐ帰る.
滞在時間およそ10分.
これぞラーメン屋.


2017年10月15日日曜日

パイナップルの食べ方

どうでもいい話ですけど,高知つながりでもう一つ.
毎年,実家からパイナップルが送られてきます.しかも,年に何回か.

母の園芸の趣味が発展してゆき,15年くらい前から実家ではパイナップルが栽培されているんです.

過去記事の■“日本一”の故郷を撮るでも紹介しましたが,こんな感じです↓

先日も「今年最後だから」などと言いながらパイナップルが3個送られてきました.
実際,これを処理するのが大変です.
大学院生だった頃は,院生室の皆で分け合って食べていたのですけど,今となっては「パイナップルを分け合う」ような環境にもなく.
私が家族持ちなら楽しく食べるイベントになるのでしょうけど,そうではないので「処理」という言葉がぴったりなのが哀しいですね.

パイナップルは新聞紙にくるまれて送られてきます.
高知からなので高知新聞にくるまれています.


冒頭の写真や見慣れたパイナップルと比べると果実が強いオレンジ色ですが,これが完熟したパイナップルの証拠です.
ここではキッチンの電球の色の影響もありますが,普通に売られているものと比較すると真っ赤です.

これを切っていきます.
まずは実の上下を切り落とします.


次に,側面の皮を削ぎ落とします.
遠慮なく大胆に切り落として構いません.「処理」なので.
「もったいない」からと細かく削っていたら面倒くさいことこの上ないですし.
あと,新聞紙の上で切れば,あとの片付けが楽です.


皮を削ぎ落としたら,次は「芯」の周りにある果肉を削っていきます.
これも大胆に切り落としていく感じです.
ここまでくると部屋中にパイナップル臭が充満し,トロピカルな雰囲気を漂わせます.
一旦部屋を出た後,また帰ってきた時の匂いが凄いです.


芯だけになりました.


普通はこの「芯」は捨ててしまうのですが,実はこの芯の周りにある果肉こそがパイナップルで最も美味しいところです.
さしずめ「マグロのなかおち」「ヒラメのエンガワ」みたいなもの.
なので,以下のように削っていきます.


一般に売られているパイナップルでは「芯」の周りは美味しくないかもしれません.
繊維質ばかりで食べられたものではないかと思います.
ここが美味しく食べられるのは,ちゃんと完熟したパイナップルだけです.
パイナップル独特の刺激性がなく,程よい上品な甘さが絶妙なところなんですよ.

皿に盛り付ければ完成.

気分はすっかり南国ハワイ,ではなく,南国土佐の実家の庭です.
これが実家の庭園↓


2017年10月14日土曜日

高知と映画(全体とは部分の総和以上のなにかである)

どうして高知の映画の話題なのかと言うと,私が高知出身だからです.
知らない人がいたらと思い,念のため.

先日,こんなニュースがありました.
「0.5ミリ」の安藤桃子監督が高知に映画館オープン(映画.com 2017.10.7)
安藤サクラ主演の「0.5ミリ」などで知られる映画監督の安藤桃子氏が企画・運営する映画館「ウィークエンドキネマM」が10月7日、高知市内でオープン。父で映画監督、俳優の奥田瑛二、エッセイストの安藤和津ら奥田ファミリーも応援に駆けつけた。(中略)安藤監督は外観、内装から、作品選び、配給まで全面プロデュース。映画館前の通りには出店で賑わう中、呼び込み、チケットのもぎり、上映前には作品紹介の“前説”も。「ザ・トライブ」の上映の際には、通りかかった10代の若者グループに丁寧に説明し、勧誘に成功。「目標は高知の映画人口を増やすこと。映画をきっかけに町が賑わいを取り戻せたら」と言葉に力を込めた。今後は、トークショーやイベントなども企画しているという。
映画そのものの凋落もありますが,過疎化が進む高知では映画館が軒並み潰れているのが現状でした.
なぜ安藤監督が高知で映画館を始めたのか? というと,以下のような理由なのだそうです.
安藤監督は13年、「0.5ミリ」を高知で撮影したことがきっかけで移住。その際、04年に廃館になった高知東映の存在を知り、復館できないものかとの思いを強くした。
なんと,高知に移住されていたんですね.
父、奥田は07年11月から約4年間、山口県下関市で自身のミニシアター「シアターゼロ」を運営しており、奥田ファミリーで映画館を経営するのは2館目となる。「シアターゼロ」の立ち上げも手伝った安藤監督は「父が下関の映画館で苦労する姿、喜ぶ姿を見てきた。独立プロで映画を作ってきた人間としては、映画の入り口から出口までやってみたいとの思いが最初からありました」と話した。
奥田は「僕は映画人として、監督をやって、興行もやり、全てを経験したけども、奇しくも親子で、新たに映画のシステム全体を経験する人が生まれることはうれしい。僕が下関でやってきたことを受け継いでくれたかなと思うと、感無量です」と喜んでいた。
お父様である奥田瑛二氏も,山口県で同じことをやっていたのだそうです.
私は体育・スポーツ科学の研究者・教育者・指導者をやっていますけど,安藤氏が語る「入り口から出口までやってみたいとの思い」というのは分かる気がします.
部分部分を突き詰めていくのも良いですし,今時,効率よく生きていくにはどうしても「部分」を扱わざるをえないという現実がありますけど,やっぱり「全体」を扱う楽しみはあるものです.研究は研究,教育は教育,指導は指導という具合いに分断させて活動している同業者は多いものですが,これらを連結させることは魅力的です.

高知新聞にはこんな記事も載っていました.
高知市街に10/7に映画館が開業 安藤桃子さん運営(高知新聞2017.9.21)
「街中に映画館を再興したい」との4年越しの情熱を実らせた。「何かが起きる劇場にしたい」と思いを膨らませている。(中略)桃子さんが代表を務める会社が運営し、上映本数は月6~8本が目標。東京からゲストを呼んだり、奥田瑛二さんが活弁士を務める無声映画を上映したりする構想もある。
「高知のお客さんが求める作品を探りながら、これぞという作品があれば上映したい」と桃子さん。「少々アバンギャルドな作品も挑戦します」と、いたずらっぽく笑った。
「何かが起きる企画にしたい」というのは,見通しの甘さからくる失敗フラグとも言えますし,一昔前の私なら「こりゃダメだな」と思っていたことです.
でも,大人になってからはそんな取り組みも有りかなと考えるようになりました.
この安藤監督ですが,年齢も私と違わない人ですし,いろいろと注目しておきたい人です.

ところで,安藤監督は「少々アバンギャルドな作品も挑戦します」とのことですが,高知ではアバンギャルドな作品を好む下地はあるようですので,挑戦のし甲斐はあると思われます.
実は今夏,高知で珍しい映画の取り組みがありました.
「神様メール」で知られるベルギー映画界の鬼才ジャコ・ヴァン・ドルマン監督が手がける『キス&クライ』を,日本で唯一公開したのが高知県立美術館だったんです.

「キス&クライ」はただの映画ではありません.舞台でもあるのです.いえ,映画を舞台にしているとも言える・・・.と言っても難しいですね.
どういうことかというと,今まさにそこで舞台をしつつ,それを映画として上映するという奇妙奇天烈な作品だからです.つまり,観客は舞台を見ながら,同時にその舞台を映画として見ることができる.しかも,作品時間は90分間と非常に長い.

詳細は以下をどうぞ.
ホール事業:「キス&クライ」-KISS CRY-(ベルギー)(高知県立美術館)
全篇90分にも及ぶ長篇映画を創り出せるのは、計算し尽くされた緻密な動きの構成と、ドルマル監督率いる最高の映画スタッフの布陣の賜物。ミシェル・アンヌが考案した手の踊り“ナノ・ダンス”は、見えない主人公の視線や気配を感じさせ、優しく語りかけるナレーションが相まって、直感的な解釈を際立たせてくれます。メディアに“記録”して再生可能にする「映画」に対し、限られた時間に劇場へ足を運ぶ観客の“記憶”にのみ共有される「舞台」。相反した手法が見事に融合した珠玉のスペクタクルは、観劇する者のみに贈られる至上の時間となるでしょう。
こういうの,私は好きですよ.見れてないけど.
「舞台を映画にしてしまえ」っていう企画を本気出してしまった結果ですね.

この「舞台と映画の融合」の似た取り組みに,監督・三谷幸喜,主演・竹内結子の『大空港2013』というのがあります.
約100分の映画ですが,それを全てノンストップのワンカットで撮りきっているんです.これも非常に面白い.
最近話題になったものとしては,ドイツの『ヴィクトリア』っていう映画があります.

これらはどちらかと言うと「映画で舞台をやった」という趣旨ですが,前述のキス&クライは「映画を舞台でやった」というところ.
いずれも作品としては映画ではありますが,舞台の魅力も併せ持っているわけです.

舞台では視点や焦点,視野・画角といったものは観客に委ねられます.「見るところ」は見る側が決めているんです.一方,映画ではカメラに頼ることになります.カメラが撮っているところが「見るところ」なんです.
その点,「映画で舞台」をやったり,「映画を舞台」でやることによって,舞台や映画において前提となっている「見るところ」が観客の前で解体されてしまう.そこに,こういう手法の魅力があるのだと思います.


2017年10月8日日曜日

体育学的映画論「鬼龍院花子の生涯」

ちょっと前の話ですが,本学の野球部の数名が不祥事を起こしました.
当事者間での示談で済んだので表沙汰にはならなかったのですが,週刊誌あたりが嗅ぎ付けるとそれなりに危ない事件ではあったんです.

最近の大学では,初年次教育で担当しているクラス(主に「基礎演習」などと呼称される)を,学校で言うところの「ホームルーム担任」のように扱っているところが少なくありません.
学生生活の相談事や,今回のような学生の不祥事があったら,その担任の教員が対応するという次第です.
うちの大学もそうでして,私もその担任をやっています.

不祥事を起こした野球部の一人が私が担任をしていたクラスの学生でしたので,担任である私も呼ばれて「面談指導」をやることになりました.
知らない人は驚かれるのですが,今の大学はこういうことをやるんです.「学生課」とか「教務課」あたりが処理するわけじゃありません.

学科長と,当該学生たちの担任である私ともう一人の先生が面談を担当しました.
事の次第を聞き取り,彼らの反省の弁を聞くということだったのですが,私にはそのうちの一人がどうも反省しているように見えなかったんですね.
「はいはい,反省してるって言えばいいんでしょ」みたいな態度でふんぞり返って,薄ら笑いを浮かべる場面もあったりで.

さすがの私も,それにキレてしまったようなんです.
私と面識のある人は知っているかと思いますが,私はとても優しく心穏やかな人物です.私が怒るところはもちろんのこと,機嫌が悪いところも見たこと無いはずです.パワフルプロ野球なら「安定感」と「ピンチ◯」が必ずついているでしょう.

だから「キレた」と言っても,結構穏やかにキレたはずなんです.怒鳴り散らすようなことはしていません.
「君たちがやったことは,とても大変なことなんだよ.そんな態度でいると,今に取り返しのつかないことになってしまうよ.なめてかかってはいけませんよ」という趣旨のことを言ったと思います.

あんなに優しく朗らかな私がブチ切れたのですから,これが学生(だけでなく他の先生も)には衝撃的だったらしく,泣き出しそうな奴もいました.
以後,彼らは反省したようで,授業でも大人しくなったようですし,野球部内での素行の悪さもおさまったと聞いています.
中高生とは違い,さすがに大学生になったら聞き分けがありますね.

面談が終わって,同席していた学科長が言うんです.
「先生が高知出身だということを,あらためて知った気がします」って.
どういうことですか?って聞いたら,
「昔の映画にありましたよね.夏目雅子の『なめたらいかんぜよ!』っていうの.あれを間近でネイティブから聞けて嬉しかったです.やっぱり土佐弁は迫力がありますね」なんて言うんですよ.
どうやら上述した学生に諭した言葉を,私は高ぶる感情のなか「土佐弁(厳密には幡多弁)」でしゃべっていたんです.
東京の人たちには刺激が強かったかもしれません.

かつて,「なめたらいかんぜよ」というセリフが流行したらしいんですね.実際,私が高知出身だというと,これを話題にする人がたまにいます.
でも,それがどういう映画の誰のセリフなのか知らないままでいたんですが,この度,動画配信サイトで『鬼龍院花子の生涯』(1982年)を見たので「あぁ〜,これかぁ!」ってなりました.
「なめたらいかんぜよ」は,以下のユーチューブ動画で見ることができます.
夏目雅子「なめたらいかんぜよ」(youtube)
ちなみに,それまではなんとなく「スケバン刑事」あたりのセリフかなって思ってました.スケバン刑事も見たことないですけど.

「鬼龍院・・」なんてところから察せられるように,これはヤクザ映画,任侠映画です.
実は1984年にテレビドラマ化され,また最近になって観月ありさ主演(2010年)でテレビドラマにもなったらしいんですね.全部知りませんけど.

ヤクザ映画の面白さがずっと分からなかったのですが,ここ数年見るようになりました.
決して誉められた生き方ではないけれど,それだけに,だからこそ「自分の人生」として納得できるものにするため,必死に藻掻く人間の姿を描いているものが多いですね.

「鬼龍院花子の生涯」はその典型で,主人公の松恵の境遇がヤクザ映画の本質を見せているように思うのです.
主人公・松恵は鬼龍院家の実娘ではなく,望んでヤクザの家の娘になったわけでもないし,大人になってからも小学校の先生として生きようとしています.
とにかくヤクザの世界から逃げ出そうとしているのですが,それでも運命は彼女に味方せず,本人も結局は鬼龍院の娘であることを受け入れる.
例の「なめたらいかんぜよ」というセリフは,それを象徴するシーンで発せられます.

そんな松恵の視点から見ることによって,鬼龍院の実娘である花子への哀れみは格別のものとなります.
小説や映画のタイトルが『鬼龍院花子の生涯』となっていますが,一見,鬼龍院花子のエピソードやシーンは少なく,主人公であり語り部である人物も,その姉である松恵です.
でも,そんな境遇の松恵の視点から見るからこそ,ヤクザ者の世界の虚しさと,その中で必死に「良い生き方」を模索する人々の,なかでも「極道の女」である花子の生涯が際立つのでしょう.

ちなみに「極道のオンナ」と言えば,主人公・松恵の義理母であり鬼龍院政五郎の妻である歌役をした岩下志麻さんは,この映画で初めて極道の妻を演じたそうです.それまで岩下志麻さんは清楚で可憐な役柄で売っていたそうなので,そこから180度方向転換した体当り出演ということなります.
しかしこれが「岩下志麻=極道の妻」誕生の瞬間となりました.
私達の世代にとっては,岩下志麻さんと言えば,高そうな着物着てマシンガン撃ってるイメージしかありませんからね.


2017年10月6日金曜日

大学現場の凄惨さがネット記事になっている

こんなネット記事がありました.
日本のアカデミズムは危機にあるのか――ノーベル賞受賞者も警鐘(ヤフー・ニュース2017.10.5)

「危機にあるのか?」とか言ってる場合じゃなくて,もう既に危機を通り過ぎて「手遅れ」になっているんだ,ということを,このブログでは5〜6年前から指摘してきたところです.
ようやく,こういう人目につくニュース・サイトでも大学教育の危機感を煽るようになってきましたね.
でも,そういう段階になっている時点で,先ほど申したように既に「手遅れ」なんです.
一般大衆ですら「気になる」ようなレベルになった時点で,もう打つ手はなくなっています.

私がこのブログを始めるよりもずっと以前から,大学教育のことを本気で心配していた諸先生方は「このままじゃヤバい」とさんざん指摘していました.
しかし,こういう指摘は当時,「象牙の塔にはびこる保守的な態度」と言われたり,「大学教員なんて所詮は社会不適合者の集まりだから,もっと外部の風を取り込まなければならない」などと嘲笑されていたのです.

上記のネット記事のアウトラインを並べてみました.
・地方から失われていく、科学研究の基礎体力
・世界における「科学エリート」の地位を失いつつある
・「就職できないから」東京大学でも大学院生が減少
・問題を抱える「任期付きポスト」
・科学技術への投資なくして日本に未来はない
どれも過去記事で取り上げてきたことですけど,私のブログよりも丁寧に取材されていますので,気になる人はぜひご確認ください.

その記事の中から,話題を一つを挙げておきます.
こうした傾向に、深い懸念を抱いている研究者は多い。
その一人が2015年に「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章・東京大学宇宙線研究所所長だ。
(中略)
梶田氏は、この20年ほどで普及してきた「選択と集中」という言葉に、基礎研究の立場から違和感を覚えるという。
「『選択と集中』は盛んに言われてきた言葉ですが、その結果、大学がどうなったか。東大はいいかもしれないですけど、地方の国立大学では衰退が激しくなった。学問の多様性を急激に失わせている気がして、将来の芽が出る前に根こそぎなくしているような感じがするのです。むしろ、重要なのは多様性です。科学には多様な可能性があるので、きちんとサポートしていかないといけない。それは、つまり、無駄になる研究もあるかもしれないということ。それでも、そうした部分に目をつむるという感覚も必要なのだと思います」
同じことを私も繰り返し過去記事で書いてきましたが,どこの馬の骨か知れない奴の言葉と違って,東京大学ノーベル賞受賞者の言葉には説得力がありますね.

梶田先生の言葉に付け加えるとすれば,そもそも「選択と集中」によって何を求めていたのかが問題だったのです.
多くの人々は,選択と集中によって大学教育や研究が活発化するものと思っていたのです.バカですね.どうしてそうなるのか意味不明です.
「選択」して「集中」するのだから,当然のことながら一方では「選択されず」に「放置」される領域が出てくることを意味します.それでどうして活性化すると思ったのか.

当たり前のことですが,「選択と集中」というのは,限られた資源をどこかの部分に集中的に配分して,その領域だけを生き残らせようという手法のことです.
当然のことながら,選択して集中させるわけですから,そこでは「競争」がなくなることを意味します.複数のグループが切磋琢磨して競い合う,ということを避ける方法としては優秀なので.

ところが,世の中の多くの人々は「選択」するための領域やグループを「競争」させることによって,その結果当該領域が「活性化」するのではないかと考えていたフシがあります.科学研究費補助金なんかが典型です.
どう考えても無理筋なのですが,この浅はかな思考が反省されることはありません.

「反省されることがない」
これが最大の問題点でしょう.
ですから,この「大学教育の危機」というのは既に手遅れなのです.

今後ですが,堕ちるところまで堕ちたら,その原因や経緯を当たり障りのない別の何かで誤魔化しつつ,何事もなかったかのように「大学教育」に似た何かを改めて始めるものと思われます.

関連記事

2017年10月5日木曜日

t検定:対応のある/なしの違いは何か

統計学を専門にされている人にとっては常識であっても,
その他の人たちにとっては意外とスルーして,
且つ,手軽にエクセルや統計解析ソフトが使えるようになった現在,
今更そんな基礎的なことを確認するのも面倒だと思いつつも,
統計処理をする上ではやっぱり知っておいた方がいいことは確かだという認識はある.

実験や調査データを扱う人たちにとって,こういう話は多いものです.

これまで本ブログではニッチなネタを取り上げてきましたが,せっかく閲覧者数も多いので,もっと基本的なところを扱ってみたいと思います.

今回は研究論文でも非常にお世話になる統計手法の一つ,「t検定」について,「対応のある」「対応のない」の違いはどこにあるのかお話します.
なまじエクセルやSPSSなどを使っていると,たんに「対応のある」「対応のない」を使い分けるだけで,その計算方法の違いが分からないままです.
計算方法を知らなくても有意差の有無を判別することができるようになった時代だからこそ,その計算方法の違いを知っておく必要があります.

例題となるデータを以下に示します.
左側は対応のあるデータ,右側は対応のないデータ.両者とも比較対象となる測定値は同じです.
そして,それぞれ対応のあるt検定と対応のないt検定でp値を算出済みです.

対応のあるデータでは5%水準で有意差あり,対応のないデータは有意差なしになっています.
上記のように,同じ値の2群であっても,対応のある/なしでp値は変わってきます.
それは計算方法が異なるからなのですが,冒頭お話したように,具体的にどのように異なっているのかは案外知られていません.

両者の違いはエクセルの関数や統計パッケージを使っているとスルー出来てしまえるのですが,今回,あえて計算式をエクセル上に展開してみます.
そこから両者の違いを明確に知ることができます.

まず,対応のあるt検定は,2群間における個々の差を算出します.
一方の対応のないt検定では,両者の分散(もしくは標準偏差)さえ分かっていれば算出できるのです.
以下を御覧ください.


対応のあるt検定では,2群間における個々の差を算出し,それらを使って標本分散を算出します.エクセル関数では「VARP」を使って算出できます.
一方,対応のないt検定では,各群の分散もしくは標準偏差を算出します.エクセル関数では分散は「VAR」,標準偏差は「STDEV」で算出できます.

その後はt値の算出になります.
対応のあるt検定であれば,以下のような式から求められます.

すなわち,両群間の平均値の差(差の平均値)を,両群間における差の標本分散を使って計算しているのです.
※なお,「5−1」というのは「n−1」のことです.例のデータではn数は5なので.

一方の,対応のないt検定は以下の通り.

こちらは,両群間の平均値の差を,各群の分散(もしくは標準偏差の2乗)を使って算出しています.
※なお,こちらの式の中にある「5」というのもn数のことです.

両群とも平均値の差を検定していることは同じなのですが,そのなかでも対応のあるt検定は2群間に現れた差のバラツキ具合いを検定しているのに対し,対応のないt検定では両群の測定値のバラツキ具合いを検定しているんです.

ですから,対応のないt検定では両群のn数が異なっていても算出できます.
一方の,対応のあるt検定ではn数が違っていたり,データを並べる順番を間違うと算出できなくなる理由は明白ですね.両群の個々の差を算出し,そのデータを使っているからです.

私が学生の頃の話です.
報告書みたいなものに有意差検定がされていないデータが載っていまして,「このデータに有意差はあるのかなぁ.でも,統計処理されていないし」なんて話をしていたんですね.
そしたら先生が「平均値と標準偏差とn数が分かっているんだから,早く有意性の有無を算出しなさい」って言うんです.
その頃はてっきりt検定は個々の全データがなければ算出できないと思っていました.実際,エクセルやSPSSでは個々のデータを全て入力しなければ自動算出してくれませんから.
「これだけじゃ出来ませんよ(だって,ここには生のデータが無いんだもん)」って思っていたのですが,実は対応のないt検定なら計算できるんですよね.
標準偏差は2乗すれば分散になるのですから,電卓さえあれば苦もなく算出できるのです.
っていうか,論文などに掲載する研究データとして「平均値」「標準偏差」「n数」を載せるのは,そのためだったりします.
パソコンや統計パッケージを使うことが当たり前になってくると,そんな基本的なところをすっ飛ばしてしまうようになります.注意が必要です.

では最後に,得られたt値から「TDIST」というエクセル関数を使ってp値を出しましょう.
対応のあるt検定では以下のようになります.

t値を選んだあとは,自由度のところに「n−1(5−1)」である「4」を.
尾部には両側検定である「2」を入力します.

対応のないt検定はこちら.

こちらは,t値のあとの自由度は「全n−2」になりますので,「10−2」である「8」を.
尾部は同じく両側検定の「2」を入力します.

以下のように,エクセル関数で算出したものと比較しても,同じp値であることが確認できます.



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Excelで多重比較まとめ
ExcelでTukey法による多重比較
ノンパラメトリック検定で多重比較したいとき
ノンパラメトリック版Tukey法による多重比較「Steel-Dwass法」
エクセルExcelでの簡単統計(対応のあるt検定と多重比較)

ちょっとした統計処理上のエクセル小技はこちら
エクセルで相関係数のp値を出す
エクセル散布図で相関関係・相関係数を確認する便利な方法
エクセルで大量のデータを等分割して統計処理したいとき
エクセルで大量のデータを処理したいとき
エクセルだけで統計処理する卒論・ゼミ論用アンケート調査のオススメ方法 part1
点数・得点を段階評価するためのエクセルシートの作成

その他,こういう怪しいブログ記事よりも,ちゃんと勉強になる書籍もご紹介しておきます.
詳しくは,
独学で統計処理作業をスキルアップさせるための本
を御覧ください.


2017年10月2日月曜日

ラスベガスで起きた銃乱射事件について

被害者の方々にはお悔やみを申し上げるとしても,アメリカでこういう事件が起きてもあまり驚きが無いのが正直なところですね.
つくづくヤバい国だと思わされます.

ただこれ,人類の長い歴史の中で,どこかで誰かがやりかねない事件ですよね.
かつて,やろうと思った人はたくさんいたはずですし.
今回の犯人は,たまたま銃や弾をたくさん買える経済力と,射撃の腕前が優秀だったからこれだけの被害が出たと考えられなくもない.

YouTubeで現場の映像を見ましたが,マシンガンをフルオートで撃ってますよね.しかも夜に.
普通なら当たりにくいはずなのですが,これには高いところから人の密集地に向かって撃つという,とても合理的な方法で対処しています.冷酷なほど頭がいいですね.
案の定,犯人は自殺していたそうです.ある種の自爆テロ.

「アメリカは銃社会だから」というコメントも散見されますが,こうした事件とはあまり関係ないと思います.
日本でも昨年,神奈川県相模原市で銃も使わず20人近く殺害された事件がありました.その前は,オタクの聖地で暴れた人もいます.
日本では刃物を持って無差別殺人するのが主流なんですね.もしかすると海外では,やっぱり「日本はサムライ社会だから」と言われているのかもしれません.

本人が死ぬ気でいるなら,東京の満員電車にガソリンタンク背負って火を付ければ,50人くらいは余裕で殺せます.
別に死ぬ気がなくても,ジワジワと拡散する毒ガスを車内にバラ撒けば何十人も被害が・・・って,それは既に経験済みですね.
電車内でのガソリン着火にしても,2年前に東海道新幹線で死傷者を出しています.この時は,車内が混み合ってなくてよかったですね.

こういう事件が起こったのですから,これに喚起されて類似した「自暴自棄による大量殺人事件」が発生しないことを祈るばかりです.
著名人の自殺とか,未成年の自殺などが取り上げられると,それに呼応するように自殺者数が増加するという現象がありますよね.ウェルテル効果というやつです.
ウェルテル効果(wikipedia)
有名なものだと,「盗んだバイクで走り出す」の尾崎豊の自殺への追従自殺とか,最近は子供のいじめ自殺なんかがウェルテル効果ではないかと考えられています.

つまり,自暴自棄による大量殺人というのは,ある意味で「自殺の演出」の一つとも考えられるため,今回の事件を受けて「どうせ自殺するなら,ラスベガスの銃乱射事件のように派手に行こうぜ!」という着想に至る人が増える可能性があります.

実のところ,一般人による大量殺人は,やろうと思えば結構容易にできてしまうんです.
大量殺人を計画している時点で,一般人ではないのかもしれませんけど.
逆に言えば,思いつきでの大量殺人は難しいということでもあります.

ですから,大量に人を殺そうと計画するような段階に至らせないことが大事ということになります.

ところで,コンサートも大変でしょうけど,オリンピックは大丈夫なんでしょうかね.
ひとまず韓国の冬季大会を様子見としましょう.
東京大会は厳重な警備体制が求められます.