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大学における体育授業の意義3 危ない大学こそ体育が大事

大学における体育授業の意義について語り始めて3回目.
今回は,「どうして大学の体育は『楽しむこと』を重視した方がいいのか?」という点について,角度を変えて論じてみたいと思います.

これまでの記事を読んできた大学体育教員の中には,
「本学には,体育の授業を楽しく取り組む学生はいない.体育館の壁にもたれて座り,じっと動かない奴がいる」
などという現状を嘆いている先生もいることでしょう.

たしかにそういう状態の大学もあります.
そして,この手の大学はたいてい偏差値が低い
さらには,たいてい危ない大学であるケースが多い.

誤解を恐れずに言えば,スポーツや運動への関心の高さと,知能レベルは比例します.バカはスポーツを楽しめないからです.
さきほど「偏差値」の話をしましたが,偏差値が高くてもバカはいます.「スポーツなんて・・・」といじけてる学生は,総じて頭が悪いんです.勉強のできるバカっていますよね.あれです.

逆に,部活動や競技スポーツをバリバリやっている人の中にも,「隠れスポーツ嫌い」はいるものです.
自分の専門競技以外には関心がなかったり,自分が納得できる条件下でなければゲームをやらないというタイプの人です.
体育においても,一見積極的に取り組んでいるように見えて,その実,非常に身勝手なことをしてクラスを混乱させている奴がいますね.そいつです.
この人はスポーツがしたいのではなくて,単に自分が楽しくなりたいだけです.

バカはまともにスポーツへ取り組めません.
私もまだまだ若輩者である自覚はありますが,それでもこの業界での仕事を始めて10年になる中から導かれる法則性.これにはかなり強力な相関関係を見出しています.

ちなみに,学力とか学習能力の話をしているのではありません.体力や運動能力のことを評論しているわけでもありません.お間違えないように.
身体パフォーマンスが優れていることは悪いことではありませんが,スポーツを楽しむこととは別です.
スポーツのスキルや競技力が高いことはもちろん良い事ですが,低体力者であろうとスポーツはできるし,下手でも楽しめるのがスポーツです.学力の有無に関係なく,バカだとここを理解できません.

そういう意味でも,我が国の学校・学習指導要領に繰り返し出てくる,「心身を一体のものとして捉え・・・」という教育理念は結構重要です.

身体は,心の有様を具体的な事象として現す媒体です.
内部,つまり「頭のなか」では良い事を考えていても,外部に現れてくるものがデタラメであることはよくあります.
言うは易く,行うは難し.などと言われますが,ようするにそういうことです.

体育の授業は,そうした「身体」を操ってみせるところに学習課題を設けています.
そして身体運動は,「頭のなかでは解っているのに,実際のパフォーマンスとして表現できない」という不合理に再三遭遇します.
「頭では解っているのに,実際うまくいかない」というのは,我々が生きる世界の掟です.この不合理に頻繁に直面できる教材が「体育」の特徴といえるでしょう.
そして,だからこそ教育的価値があるのです.

小中高の学校教育では基本的な身体の操り方を学びます.スポーツの技術やルール,安全管理,基礎的体力です.
では,大学教育で何を学ぶのかというと,身につけてきた基本的な身体運動能力を用いて,様々な条件下で楽しめる力を養うことにあります.

これは簡単なようで難しい学習課題です.
過去記事でも書いたように,授業で「この90分,好きに楽しんでくれ」と指示を出しても,それができる学生は非常に少ない.仲良しグループだけならいざしらず,適当に集まったクラスでこれができる学生は稀なのです.
そこには,リーダーシップの発揮できる者の存在や力強い賛同者,目標設定の合議,互いの協力,配慮,明確な意思表示,説得,妥協といった非常に高度な知能と技能が要求されます.

こうした技能がある学生は,大学での学びを有意義なものにできます.そうでない学生はいつまでたっても大学や授業などに不平不満をつらねる奴になります.両者が4年後にどうなっているのかは想像に難くないでしょう.
ですから,大学体育の授業では上記の技能を高め,その知能レベルを高めることが求められるのです.

大学生の時期からでは,もう手遅れだと思わされることもあります.
もちろんそういうところもありますが,大学教育における重要な使命だと私は考えています.

「本学には,体育の授業を楽しく取り組む学生はいない」
という大学こそ,体育の授業を充実させる必要があります.
充実させるといっても,コマ数を増やすという意味ではありません.
学生に厳しく出席を促し,自らの意志で運動とスポーツに取り組む姿勢を根付かせることです.強制的に取り組ませては元も子もないですからね.いかにして自主的にやらせるかが勝負となります.

体育の授業をまともに取り組めない学生が,まともな大学生活を送れるとは思えません.
スポーツを楽しむ態度は,学問を楽しむ態度と通底しています.
ですから,極言すれば,各自が自分の気に入ったスポーツを好きなように取り組めるようにさせればOKなのです.
それができるようになれば日本の体育教育は完了です.

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