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井戸端スポーツ会議 part 32「イチロー」

いつこの話題ができるかと楽しみにしていたのですが,こんなに早くできるとは嬉しい限りです.
今日は野球選手である「イチロー」こと鈴木一朗です.
イチロー(wikipedia)

「近代スポーツ」および「野球」の発展からしても,そして日米関係について総合的に鑑みましても,この選手が伝説的存在になるであろうことは間違いありません.

私を含め,多くの野球少年に強烈な印象を与えた1994年の200本安打達成から22年間.生きながらにして日本スポーツ界の至宝となっています.

とにかく「美しい」バッティングフォーム.60分間ずっとそれを見続けろと言われても苦にはなりません.むしろ,そんな編集動画がニコニコ動画とかで作られないか期待したいところです.

ところで,図書分類法に日本十進分類法(NDC)というのがあります.
日本十進分類法(wikipedia)
森清(もり・きよし)がデューイ十進分類法 (DDC) の体系を元に作成したもので、1928年(昭和3年)に発表し、翌1929年(昭和4年)に間宮商店から刊行された。(―中略―)日本の図書館における事実上の「標準分類法」であり、2008年の調査では公共図書館の99%、大学図書館の92%がこれを使用している(新規受入の和書の場合)。
図書の内容に応じて,0番〜9番までの10区分をしているものなのですが,実は「スポーツ」もこの分類のなかに入っているんです.
私も大学生になってから気にし始めたのですが(体育・スポーツが専門なので),てっきりスポーツは各分野において語られる話題・コンテンツの一つであり,些末な扱いをされているものとばかり思っていたのです.

ではスポーツはというと,7番の「芸術」のなかの8番目に入っていて,いわゆる図書館の分類ラベルでは「780番代」となっています.
もちろん,1876年に出来たデューイ十進分類法でも700番代にスポーツがあって,つまり書籍業界の扱いでは,「スポーツ」とは「芸術」なのです.

大学1年生の頃には不思議に思っていたのですが,勉強を続けるに従い,「そうか,だからスポーツは700番代(芸術)に入っているのだな」と思うようになり,今に至ります.

楽器や絵筆を動かす手腕の巧みさと同様,身体を用いた芸術がスポーツなのです.
現在のスポーツは「記録」や「スコア」などが重要視されるようになっていますが,スポーツ本来の魅力とは記録やスコアではないはずです.
記録やスコアといった「数字」を気にした芸術は,もはや芸術ではありません.

CDの売り上げ枚数で音楽の良し悪しが決まるわけではないし,キャンバスの大きさで絵画の偉大さが決まるわけではない.

スポーツという芸術にあるのは,洗練された身体技能にある美しさです.ちなみに,身体“技術”ではありません.
勝敗や記録,スコアといったものは,そうした身体技能が発揮された結果であり,その数字の優劣はあくまで「遊び」でしかない.
プレーヤーが目指すのは,より高い身体技能の表出.それがスポーツです.

そう言えば,イチローはかねてより打率や安打数などの成績を目標としてプレーしていないという発言が多いですね.
記録や成績よりも,自身の身体技能を洗練させることに注力しているのではないかと思うのです.これは芸術と言って良いのではないか.私はそう思います.

福田恆存が『芸術とは何か』で,スポーツを論じています.
スポーツとはカタルシスと無縁あります.そこに現代の選民の芸術,弁償の芸術,意匠の芸術が直面している危機とまったくおなじ危機が認められるのです.
(中略)
なるほど見ておもしろく,見て美しい.が,その快感も美感も,カタルシスとはなんのかかわりもありません.このカタルシスの作用を失ったとき,体育がスポーツに転落,あるいは進歩したのではなかったでしょうか.
一言にしていえば,舞踊は演戯するが,スポーツは演戯しないということであります.(芸術とは何か)
おそらく福田氏は「体育」を「前近代ポーツ」,「スポーツ」を「近現代スポーツ」として扱っていることと思われます.「記録なくしてスポーツはなりたたない」とも言っていますので(一般論として,記録なしでも「スポーツ」は成り立ちますから).
ともあれ,おっしゃることは,なるほどその通り.私が現在の体育・スポーツに感じている危機感と非常に親和します.詳細なことは別記事として論じたいと思います.

福田氏はこうも言います.
さらに,現代のスポーツは記録を目指しているがゆえに,進歩の概念と同様,往きがあって復りがない運動であります.動があって反動がない.このことが,舞踊とスポーツとを区別する―あるいは芸術とその他の人間活動,たとえば科学とか日常生活とかいうものをわける―根本的な要因ではないかとおもいます.(芸術とは何か)
現代のスポーツは,芸術から遠くはなれてしまった.
これは,ヨハン・ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で述べていることと類似します.
スポーツは遊びの領域から去っていく――この見解は,スポーツを現代文化における最高の遊びの要素であると認める世間一般の輿論とはまさに真向から対立する.しかし,断じてスポーツはそういうものではない.むしろ反対に,それは遊びの内容のなかの最高の部分,最善の部分を失っているのである.(ホモ・ルーデンス)
イチローの安打記録は大変喜ばしいものですし,その記録の価値の是非を問うのもよいでしょう.
しかし,ほどほどにしておくのが「スポーツ」です.あまり騒ぎ立てるのはみっともない.


彼に憧れ,もともと右バッターだった私も左打席に挑戦し,高校の頃からは左バッターになっています.もちろんやや振り子を意識した,ちょうど現在のイチローのようなフォームでやっていました.
実際のところはスイッチヒッターとして試合にも出れたのですが,左バッターとしてやっていきたいという思いが強く,左ピッチャー相手でも左打席に立つことの方が多かったです.

運動能力とは不思議なもので,これまでずーっと右バッターでやっていたのに,左バッターになってからの方が成績が良くなるのです.
それに,バッターボックスに入って「しっくりくる」のは右打席なのですよ.左打席だと体が思うように動いていない感じ.とても奇妙でした.
こうした心身の不一致や違和感も含め,スポーツは芸術なのかもしれません.


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