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停戦命令が出た後で

これまでウヨクの話が続いていましたが,少し離れてみたいと思います.
ウヨクの人でもちょっと興味があるかもしれない,太平洋戦争(大東亜戦争)でのエピソードです.

私の母方の祖父は,生きていれば110歳になっています.
今から70年前の戦争中は海軍で各地を転戦していたそうです.
戦争の話はほとんどしない祖父でしたが,たまに思い出したように話すことがありました.
今回はその話の中の一つをしたいと思います.お暇でしたらお聞き下さい.
停戦命令,いわゆる8月15日の玉音放送が出た時のお話です.

祖父の家には海軍時代の写真が飾ってあります.30代半ばの頃でしょうか.
今の私にそっくりなんです.祖母もそう言います.
当時,祖父はめちゃくちゃモテたそうです.私も生まれた時代が違えばモテたのでしょうか,残念でなりません.

祖父は戦闘艦の魚雷を撃つ担当で,下士官をしていたそうです.
私もあまりその辺は詳しくないので確かなことは言えませんし,当時の状況をよく知らないのですが,たぶん「水雷士」っていうポジションでしょうかね.
詳細はこちらを参照下さい→■護衛艦(wikipedia)

巡洋艦とか駆逐艦とか,あと潜水艦.そんなのにいろいろ乗っていたそうです.
話を聞いてる中で唯一艦名を覚えているものとしては「衣笠」という巡洋艦です.
衣笠(重巡洋艦)(wikipedia)
元広島カープで野球解説者の衣笠祥雄と関連付けて覚えています.

いよいよ切羽詰まってきたことを感じる1945年・夏.
戦闘艦の乗組員も「もう自分の命は短いだろうな」という雰囲気が漂っていたそうですよ.
でも,そんな中でも九死に一生を得ることもあるわけで.

長崎の軍港に補給と修理に戻っていた時のことです.
修理が完了するまでまだ日があると思ってゆっくりしていたところ,あっという間に召集がかかります.すぐに出港とのこと.
なんでまたこんなに早くに出港するのかと港の者に問うと,「修理するための資材がないから,とりあえず港を出てほしい」ですって.
「あぁ,これが私の最後の出撃だ」と,そう思ったそうです.

で,祖父たちが港を出たすぐ後,その長崎を襲ったのがあの原子爆弾です.

これが最後の出撃だ・・・,それは別の形で本当になりました.
たしか,対馬に近い海域をうろちょろしていた時のこと,停戦命令が届いたんだそうです.これが8月15日.

もちろん,停戦命令が出たからといって,それにホイホイ従う人たちばかりではありません.
停戦命令が出た後も戦闘を続ける人たちは各地にいました.
これの詳細は→■日本の降伏(wikipedia)

有名どころとしては,
宇垣中将の特攻
■停戦後に参戦してきたソ連との占守島の戦い
などです.

とは言え,この時の日本軍は陸海ともに壊滅状態だったので,停戦命令はすんなり広がりました.とても戦闘を継続できる状況じゃない,というのが実情だったのでしょう.
なお,戦闘が終了し,日本が降伏したのは9月2日のことです.

さて,沖へ出ている戦闘艦内での人間模様は複雑で,停戦命令が出てもそれに「納得」して港へ引き返す艦長・乗組員ばかりではなかったようです.
祖父が乗っていた艦内も同様でした.

このまま港に帰還するか,戦闘を継続するかで艦長以下,士官の人たちは迷ったそうです.
艦内でも「いっそのこと,この船で特攻しよう」とか「まだ戦闘を続けている船もあるというのに,俺たちだけ帰っていいのか」といった意見がぞろぞろ出てきてしまう状態.

そこで艦長は,祖父を含む各部署の長を集めてこう聞いたそうです.
「この船をどうするか,もう一度集まって各自の意見を聞きたい.それまで部署に戻って船員たちの意見も聞いてきてほしい」

今になって思うとこの艦長,かなり弱腰(?)で優柔不断(?)だなぁと感じるのですが,それだけ悩ましい問題だったのかもしれません.
停戦命令が出たから,これで堂々と生きて帰れるけど,じゃあこれまで戦ってきたのはなんだったんだ.総玉砕を掲げて進んできたのに,このまま帰るのは許されるのだろうか?もしかすると,ノコノコと港に帰ってくるのは自分の船だけかもしれない.だとすれば,なんと恥晒しなことか.
そういう極限状況にあったのかもしれませんね.

祖父が戻ったのは「魚雷部署」っていうんでしょうか.そこでは議論がもめにもめたそうです.
で,結局結論は出ず.
そして再度,艦長や士官たちと向き合う時間になります.

祖父は「港に帰る」ことを勧めたそうです.
もちろん「それでも海軍人か!」などと文句を言う士官もいたそうですが,同じように「港に帰る」ことを勧める士官も他にいたし,そんな喧嘩腰の場でもない.
最終的には,「港に帰る」ことになりました.

むしろ,部署に戻ってからの部下の説得が一苦労だったとのこと.
「なぜそんな結論になったのか,やり直してください」「どうして帰ると言ったんですか」「これでは天皇陛下に申し訳が立ちません」と,いきり立って暴動が起きかねない状況.

だから祖父は,
「生き延びることができたお前が,天皇陛下をお支えしろ」
「復興に尽力することが,天皇陛下への忠義だ」
(正確ではありませんが,そういう趣旨のことだったはずです)
といって怒鳴りつけて幕引きをはかったそうです.

同じような話を,祖父を訪ねてきた戦友だという方からも聞きました.
その方いわく,当時は祖父のことを恨みながら帰還したけど,今となっては感謝していると話していました.

この話を聞いている私は,小学生ですよ.
子供にこんな話を聞かせて理解させるつもりはないのでしょう,独白だったのかもしれない.

今になってこの話を思い出してみますと,直接聞いていた頃に感じていたこととはだいぶ違った受け取り方になります.
あの戦闘艦内で悩みぬいた方々の想いを,今この国はどれだけ反映しているでしょうか.そんなふうに思うのです.