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俗物が俗物から遠ざかるには

前回の記事
俗物が俗物らしくしちゃダメ
に対し,反論したい人もいるでしょう.
「お前,何様のつもりだ.そう言うお前だって,福田恆存を引いて俗物を語ってるんだから,立派な俗物じゃないか」
と,そんな声も聞こえてきそうです.

そうです.そうなんです.
が,その記事でも書いたし福田恆存も「俗物論(国家とは何か)」で言っているのですが,「人は皆,俗物」なんですよ.
あとは,どれだけ自分が俗物であることに素直か,そこが問われるのです.

これはちょうど,「男は皆浮気するもんだ」という主張に対し,「お前,何様のつもりだ.そう言うお前だって男だろ」と反論したい人が現れるようなものなのですが,そんな反論に意味がないのと一緒です.

男は皆(女もかもしれないけど),何かしら浮気心があるものです.そこで問題となるのは,どんな浮気をしてしまうのか,どこまで浮気してしまうのか,といったことに醜さや劣悪さがあるということでして.
前回の記事で言いたかったことに戻れば,俗物にも「素直な俗物」と「醜い俗物」があって,昨今の様子を眺めてみれば,保守派,ネトウヨとされる人々に散見されるのは「醜い俗物」だということなのです.

奥さんや彼女がいるのに,他の色っぽい女性や艶のある素振りをする女性を前に,クラクラっときたり遊び心が芽生えることがあります.「あぁ,俺って浮気もんだなぁ」と感じながらも,しかし(私のように)実際には何もしない男もいるでしょう.これは素直な浮気者です.
自分に浮気心があることを認めつつ,それをコントロールしているわけです.

その一方で,そんな女性を前にしたら我慢できずに途中下車,だけならまだしも人生の終着駅まで向かう浮気者もいます.これが醜い浮気者です.
しかもこういう浮気者はえてして「そもそも男は浮気するもんだ.その武勇伝が男の勲章なんだよ」なんて言い出すこともあります.そういう居直った態度の恥知らずな男が,昨今の保守派,ネトウヨだと言ってよいでしょう.
俗物であることを恥じず,俗物であることに居直るというのはこのことを指します.

これはちょうど,『大衆の反逆』でオルテガが述べている,
愚か者は,自分を疑ってみない.自分が極めて分別があるように思う.ばかが自分の愚かさのなかであぐらをかくあの羨むべき平静さは,ここから生まれるのである.
という文言を思い出させます.
福田氏は「俗物論」によって大衆論を展開しているのかもしれません.

さて,ここまで読んできて,
「で? いろいろ偉そうに言ってるけど,結局,俗物から遠ざかるにはどうするんだ?」
って聞きたくなった人は,明白なる「醜い俗物」です.ご愁傷様です.

でも敢えて言うなら,こういうこと.
人は皆,どこかしらに俗物根性を持っています.それが思わず表出することもあるでしょう.
けれど,素直な俗物であればそれを「あぁ,俺って俗物なんだなぁ」と受け入れて,なんとか俗物ではないようにと自らの俗物根性を抑えこむ努力をするでしょう.
次々と現れる自身の俗物根性に対し,それに負けじと我慢し続けることが俗物から遠ざかることになるのです.

そして,自身の俗物性を認めることができる人というのは,
自分の劣弱性をよく知っていて,すなおにそれに寄りかかっている.じつは,その「すなおさ」こそ俗物根性からもっとも遠いものなのである.「すなおさ」とは,つまり,自分がいるべき処にいるということ以外のなにものでもない(俗物論:福田恆存)
ということのようです.
さらに福田恆存は『人間・この劇的なるもの』でこうも述べています.
真の意味における自由とは,全体の中にあって,適切な位置を占める能力のことである.
と.

PS.
こういった理屈からすれば,たぶん,酷い浮気をする奴,女遊びが派手な奴やそれを自慢したがる奴に,まともな保守思想を持った「素直な俗物」はいないということをも意味します.
たぶん,これは当たっているはずです.


福田恆存の「俗物論」が掲載されているのはこちら.


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