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井戸端スポーツ会議 part 25「戦争に負けた国(日本)がとるべき態度」

「井戸端スポーツ会議」と題する記事のアクセス数が少ないんです.
当初からアクセス数が伸びる記事にはならないだろうと予想はしていたのですが,やっぱり伸びませんでした.

でも,私としてはコレが専門でもありますし,ちょっと寂しいところがあります.
なんとか「スポーツ」の観点から物事を捉え,考える記事のアクセス数を伸ばそうと,
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
のような内容で哲学じみた話をしてみたり,
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」
みたいな記事で教育を論じてみたり,
井戸端スポーツ会議 part 23『東京五輪エンブレム問題に見えるスポーツの危機』
といった当時炎上中のニュースを引き合いに出してみたり.
いろいろやってきましたが,どうやら「スポーツ」をタイトルにした話題って伸びないんですね.
じゃあ,スポーツに関するブログ記事でどんなのが伸びるのかって言うと,たぶん今注目されている選手・チームについての芸能ニュースっぽいやつなんだろうと思います.

とは言え,そんな私の記事の中でも例外的によく読まれているのが,
井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
なんです.
この記事が伸びている理由は不明ですけど,なんだろう? ドラゴンボール効果でしょうか?


「スポーツ」の観点から物事を捉え,考えるというコンセプトの本シリーズですが,ここ最近書いているイデオロギー系(右翼系叩き?)の記事とコラボしてみることにしました.そっちから攻めればアクセス数が増えるかもしれないと考えたからです.
というわけで,今回のテーマをこちらにしました.すなわち,
『敗戦国・日本がとるべき態度は「スポーツ」で説明がつく』
さらに言えば,昨今の右翼・保守系の言論には「スポーツ」の観点からすると “やってはいけない” 敗戦国民の態度がたくさん散りばめられていて,そのことが日本を「敗戦国」のままにし続け,且つ,諸外国からの信頼を失うことにつながる
というものです.

まず話の前提となる考え方からお示ししましょう.
「戦争」とは何か? という点です.
よく,「スポーツは暴力性を廃した戦争だ」とか,「国際スポーツ大会は,その国同士の戦争みたいないものだ」とか言われます.
つまり,「スポーツは戦争に類似したもの」という捉え方をされることが多いわけですが,実際のところは逆で,「戦争はスポーツに類似したもの」,もっと言えば,「戦争とは,命のやり取りをするスポーツ」であり,「国同士のスポーツが戦争」だと言えます.

なぜかと言うと,人類が誕生して後,きっと戦争と呼ばれる活動よりも先にスポーツが存在していたであろうことは想像に難くないですし,近代以前のスポーツは非常に強い暴力性を持ったものが多いのです(中世のサッカー祭りや騎士の決闘など).今でも「スペインの闘牛」や「だんじり祭り」といった生命に関わる部分を残した古典的スポーツが現存しています.
また,戦争において求められる決着のつき方や美徳,ルールといったものは,やはり人間の「スポーツする心」から発祥したものであることは容易に察することができるからです.

人間とは「遊ぶ」ことで文化を育んできたというヨハン・ホイジンガの考え方がありますが,その遊び方の一つにスポーツがあり,そのスポーツの一つに戦争があると捉えられるのではないかと思います.

相手の国や兵力を無慈悲に無力化することを最優先に行動することもできるのでしょうが,やはりそれは「良い勝ち方」ではないと評するのが人間であり,そうした美徳やこれに準ずるためのルール作りをしてしまうところをみれば,戦争はスポーツの形態の一つであると考えられるわけです.
その辺の細かいことは過去記事を読んでください.

それ故,「戦争はスポーツである」のだとすると,戦争で決着がついた時にとるべき態度やその後の行動も,スポーツで決着がついた時のそれと同じものではないか? ということが考えられます.

では,どのような態度や行動が求められるのか? というところですが,スポーツにおいては以下のような美徳が論じられています.

例えばドイツの詩人であり哲学者のカールダイムはこう述べています.
威張らず誇りをもって勝て
言い訳をせず品位をもって負けよ
勝利より大切なのはこの態度なのだ
汝を打ち破った者に最初の幸福を
汝が打ち負かした者には感動を与えよ
これは私達が関わっているスポーツ指導者研修会で紹介しているもので,そこで私の後輩になる講師の一人がジュニア選手対象のセミナーで引き合いに使っているものです.

さらに言うと,スポーツマンシップが端的に示されるのは「負けた時」だとされていて, それをグッド・ルーザーGood Loserと称します.
グッド・ルーザーとは,負けた時には素直に負けを認め,しかし頭を垂れず,相手を称え,意気消沈せずに次に向けて準備を行なう人のことを指します.それが真のスポーツマンだとされるのです.

話を戦争に戻せば,つまり上記のようなスポーツマンシップが戦争においても求められるのではないか? ということなのです.

もちろん,我々がよく知る「近代スポーツ」と「戦争」には表面上は大きく違いがあるように見えるでしょう.
しかし,戦争の本質がスポーツであるならば,近代スポーツにおいて求められている美徳・スポーツマンシップが,戦争においても試されていると考えることもできるはずです.

では,先の世界大戦における敗戦国はどのような態度や行動をその後とってきたでしょうか? 特に敗戦国・日本のそれが,その国民である我々にとっては重要な課題になってきます.

まず,負けた後の態度というところですが,最近これが結構問題ではないかと考えられるところです.
いわゆる右翼・保守的な人に多いのが「あの戦争で日本は悪者になっているが,実は日本にも言い分や正義があった」とか,さらには「日本のほうに正義があった」といったタイプの言論です.

これは戦争をスポーツの一つとして考えた場合,非常にマズい物言いだと考えられるでしょう.
なんせ,負けたくせに「自分たちは悪く無い」とか「自分たちのほうが優れていたんだ」と言っているんじゃないかと捉えられる,勘違いさせる物言いだからです.
少なくともそんなことを言う国はグッド・ルーザーではありません.

日本がもう一度戦争をして勝たない限りは「ルーザー」であり続けることになるのですから,理想的にはグッド・ルーザーであることが求められるわけです.

私だって「日本にも正義があった」という考え方を否定はしません.そういう見方もできましょう.
ですが,それを自分たちから訴えてはいけないのです.そんなことを表立って訴えた時点で,スポーツの観点からすればその国は「悪」です.
「負けた側にも正義があった」と表立って言えるのは,負けた側の国・国民ではなく,勝った側や外野の連中です.

「そんなの納得できない! 勝った側がそんなこと言うわけないじゃないか!」とおっしゃられるかもしれませんが,残念ながらそれが敗戦国が立たされる立場です.負けたんだから仕方ない.

考えてもみてください.例えば野球の試合後,負けた側のチームの選手や監督が,「実際のところ,勝つべきは我々だった」とか「パフォーマンスはこっちの方が上だった」「相手はルール違反が多かった」なんてことを言ってたらどう思われるでしょう.
敗戦国が「自分たちにも正義があった」と言い出すのは,それと同じことと言えます.

「勝つべきは我々だった」そりゃそうかもしれませんが,それは相手だって同じです.
戦争においては命を尽くして戦ったのです.そして勝った.
なのに負かした相手からそんな言葉が出てきたら「こいつら自分の立場が分かってねぇのか?」とカチンとくるに決まっています.

「我々にも戦う理由や正義があった」と言いたい気持ちは分かります.悔しいですからね.「相手はこっちよりもルール違反をしていたじゃないか」と嘆きたい気持ちも分かります.
ですがそれは,戦争というスポーツをして負けた側の口から出てはいけない言葉なのです.
敗戦国には敗戦国としてとるべき態度があるのです.

では敗戦国はどうすればいいか.それもスポーツの美徳から,グッド・ルーザーの美徳から読み取れるのではないでしょうか.
負けた時には素直に負けを認め,しかし頭を垂れず,相手を称え,意気消沈せずに次に向けて準備を行なう
それが敗戦国のとるべき態度です.
日本は表向き「素直に負けを認め」,屈折した形であったかもしれないが「相手を称え」ることはできたのではないかと思うんです.

ですが,「意気消沈せずに次に向けて準備を行なう」ことをしただろうか? 私はそこに少し疑問があります.
その準備とは単なる経済発展だったのではないか.意気消沈したことを隠すためにビジネスに傾倒し,軍事や安全保障の議論を避けたのではないか,と.

さしずめ,試合に負けた野球チームが「負けた理由」を探し出すためのミーティングを延々と繰り返し,「負けたお前らなんかクソ食らえ!」とか言って選手の給与を下げたり, “罰として練習禁止令” なんか出してみたり,仕舞いには,観客へのファンサービスが足りなかったんだと練習そっちのけで選手をファンサービスのために駆り出す,なんて感じだったのが敗戦国・日本の姿だったのではないか,と.

敗戦国は何もかも諦めて屈服しろというのではないのです.
素直に負けを認めて,勝者を称えてみせる.しかし,次の戦争に向けて虎視眈々と準備する姿勢をとることが正しい負け方なのです.
もちろん勝利国はそれを妨害するでしょう.簡単に次に向けた準備なんてできないのは当然のことです.ただそれでも,
絶対に諦めてはいけない.
結果ではなく,勝とうとする葛藤の中にこそ,
真の喜びが隠されている.
(堀江忠男:1936年ベルリンオリンピック・サッカー日本代表)
というのが真っ当な国家の在り方であり,その「真の喜び」というのが国としての誇りや存在価値ではないかと思うのです.

私はむしろ,いつまでも「敗戦国・日本」という論じ方をすること自体に倦んでいます.
もっと違った観点から論じるべきではないのだろうか? ということで,これについてもスポーツの観点が活かせるのです.

大事な試合に負けた選手やチームが,次に向けてどのような姿勢をとるべきなのでしょうか.
「この前の大事な試合に負けた我々はどうするべきか」とか「また試合に負けたらどうするのか」,果ては「この前の試合はスコアでは負けていたけど,内容では勝っていたんじゃないのか」なんて過去を引きずったままの姿勢で挑む選手・チームは先が見えています.

反省すべきところは反省するとしても,それは次の試合に活かすための分析材料とし,気持ちを切り替えて地道にトレーニングやスキルアップに勤しむことが大事であることは,まともなスポーツ指導者なら周知のことと思います.