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「面白い授業」に対する幻想と誤解

これからの教育では,授業を面白くすることが大事.
授業が魅力的になれば,生徒や学生の学ぶ姿勢が積極的になる.
授業にもエンターテイメントの要素が必要になってきた.

そんな言説を聞くことは多いものです.
特に我々のような教育関係の仕事をしていると,そういったプレッシャーをかけられることもしばしばです.
(私が今いる大学はそうでもないのですが,以前勤めていたところでは “それ” に邁進する姿勢がありました)

 
 

私も若い頃(まだ若いつもりですが,それは学生の頃とか)は,こうした,
「面白い授業」とか「魅力的な授業」とか「エンターテイメント性のある授業」というものにある種の幻想を抱いていた時もあります.
しかし,それはやはり幻想であり,多くの人が誤解しているところでもあるのです.

まあ,身も蓋もないこと言ってしまえば,その授業に興味(interest)があれば,それは面白い(interesting)な授業なのです.
面白さとは,出し手だけでなく,受け手にも左右されることです.
それだけに,「面白い授業」というものの質を問わねばなりません.

かなり以前の記事(■反・大学改革論)で指摘したことでもありますが,一般的な教育機関においては,
「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」
というのは目指すべきところではありません.
それを目指すことによって,人々が期待する教育というのは実現できなくなる.そういうものなのです.

もちろん,かく言う私も「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を全く展開しないということではありません.
例えば,最近の大学(と教員)は,地域貢献だとか市民公開といった類のイベントで地域住民用の授業や講義を催すことがあります.こうした場面に立たされれば私も「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」をやりますよ.
というか,自分で言うのもなんですけど,こういうの結構得意なところもありまして,一般の方々が面白がってくれるであろう授業を特別に企画します.
最近では,我が恩師のように「関西チックな笑い」を混ぜることができるようになってきました.目指せ「◯◯先生」で頑張っております.

「学生は先生からこういう授業を受けているんですか? 皆が盛り上がって面白い授業なんですね」
とお褒め(?)の言葉をいただくことも有りますが,
「そんなわけねーだろ」
というところです.

学生に向けた授業では,「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」はやりません.むしろ,私の授業やゼミは「難しい,厳しい」という評価をよくもらいます.

実は,学生用の授業でも「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」の要素をまぶしてみようと思ってやった時期もあります.
たしかに楽しんでくれやすいです.やってるこっちとしても,なんと言いますか,ある種の「安心感」と「優越感」を足して2で割った感情が即時的に味わえますので.
でも,それだけなんです.
結局,こちらが伝えたいことが伝わっていない,考えてもらいたいことを考えられていない,憶えてもらわなければならないことを憶えさせられない.ということが多いのです.

この授業でどのような学術性を学ばせるのか? を最重要課題だと考えた場合(というか,それが最重要課題だろう),その課題を達成することに注力することが優先です.
その上で余裕があれば,エンターテイメント性や面白さを添加すればいいのですが,たいていの場合,これはトレードオフになることが多いです.

「それを両立させるのが教員としての努めだろう.でなければ教員の怠慢だ」
という声も聞こえてきそうですが,そういう人は学校や大学の存在意義や価値を見つめ直してもらいたいものです.
これは例えば,警察官や自衛隊員に向かって「きっちりと治安維持するだけでなく,市民にやさしく丁寧な対応をしてほしい」と言っているようなものです.
市民にやさしく丁寧な対応をすることも大事でしょう.それを否定はしません.しかし,彼らの存在意義や価値は治安維持にあります.まずはそれを優先してもらい,余裕があればやさしく丁寧な対応をすればいいだけのことです.
警察官や自衛隊員がやさしく丁寧な対応をしなかったからといって,社会が機能不全に陥ることはありません.
これは学校や大学,そこにいる教員とて同じことのはずです.

これについて,それこそ「面白い」パラドクスをお示ししましょう.
「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を目指す大学ほど,危ない大学,ブラック大学になりやすいという傾向です.

つまり,そんな授業を推進するところは大学教育としての使命が果たせず,さらにはそうした大学であることをある種の教養を持った人種に嗅ぎつけられます.この人種とは真の意味での「大学教育」を欲する層です.そんな大学は,彼らからは見離されてしまいます.
それ故にこうした大学では大学教育としての価値を養った卒業生を輩出することはさらに困難となります.そうすることで,また危ない大学,ブラック大学としてのレッテルが貼られやすくなる.

で,そのレッテルを剥がそうとした大学は,さらに「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を展開しようと躍起になって,一番最初に戻るわけです.
なんとも痛々しい状態ですね.

でも,この「いっそ高等教育を捨て去ろうサイクル」から抜け出せないのが,昨今の少なくない大学なのです.
多くの危なくない大学では,口では「本学は面白い授業,エンターテイメント性のある授業も展開するつもりです」などと言っていますが,その実,出来る限りそれに手を出したくないと考えているものです.それが普通です.
(極少数,本気で目指している人もいますが・・・)

このサイクルに入るきっかけとしては,例えば授業評価アンケートを重用してしまったり,学生募集に危機感を抱いてしまう,といったことです.
逆に言えば,このサイクルに入る誘惑に打ち勝った大学では,授業評価アンケートや学生募集もそんなに気にせずいられるということも意味します.

だいたい,妙な話ではありませんか.
入学競争率の高い大学,魅力的だと言われている大学ほど,そこでは授業の「面白さ」を重視していないわけですから.

どの大学に入ろうと,同じような高等教育を受けることができ,そこでの学位を保障することが本来目指されるべきはずです.
完全な平等・機会均等を達成しろとまでは言いません.しかし,目指すべきところはそこではないでしょうか.
ところが,現在の大学を取り巻く環境はそうなっていない.これこそが是正すべき状態であり,向かうべき大学改革のはずだと私は思います.

けど,相変わらず「競争主義」とそれによる「市場淘汰」を目指してること,それに対し有効な抵抗ができていないことが哀しいですね.

 
 

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