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こんな大学の教員は危ない part 1

久しぶりにネタ記事をどうぞ. これまでにも,「こんな◯◯な大学は危ない」というシリーズを書いておりまして,教員ネタとしては, ■ こんな挙動の教員がいる大学は危ない とか, ■ 危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」 なんかがあります. 今回は,大学教員そのものをネタにして楽しんでみようというものです. 「大学教員なのに,こんなんじゃマズいでしょ」 という人はたくさんの視点・観点から存在するわけですが, その中でも特にシュールなものをピックアップしてみよう というものです. 教職員間であれば「あぁ〜,いるいる!」 ということで楽しんでもらえると思いますし, 学生であれば「やっぱ,あの先生やばいんだ」 ということで学生生活の参考になると思います. ここで紹介する大学教員が「なぜ危ないのか」については,説明するのにちょっと時間がかかるので,本文末にご紹介した記事を読んでもらえればと思います. では早速, あなたの大学に,こんな教員はいませんか? (1)バスの運転を楽しんでしまっている このブログとしては鉄板になってきた「大学教員とバス」ですね. 危ない大学においては,大学教員がバスの運転を担当しています.詳細は, ■ 危ない大学におけるバスの想ひ出 を御覧ください. 大学教員がバスの運転に生き甲斐を見出すことは,普通ありません. 大学教員がバスの運転をするのは,あくまで「危ない大学」において強いられているからです(理由は経費節減のためです). ところが,そうした「バスの運転」を教員である自分がやっている,ということに価値を置き始める教員がいます. 「私がバスを運転しているから本学が成り立っているんだ」という気分を,本気の理論にまで昇華させているわけです. こういう教員はバスの運転がどれだけ高度なものか自慢めいて語り始めます. 上記の記事でご紹介しているX氏のように,これはホントはバカげてる事だという認識ではなく,立派な大学教員の仕事の一つだと考えています. 学生のためであればバスの運転くらい,いや,バスの運転こそが私が生きる道なのだ.という価値観で取り組んでしまっているわけですが,当然のことながら大学教員はバスを運転するために存在しているわけではありません. もちろん,教員にバスを運転

英語教育の必要性

前回の記事では,英語教育に国をあげて取り組むことの危険性について,施光恒氏の著書 『英語化は愚民化』 を引きながら取り上げましたが,今回はその英語教育をどのように進めれば良いか? という話です. 「おいおい,英語教育の危険性を論じておいて,今度はその逆かよ」 と思われるかもしれませんが,私は別に英語教育に取り組むこと自体を悪いことだとは考えておりません. むしろ,大学のような高等教育においては非常に重要なことだと思っています. 同じ物事であっても,日本語だけでなく英語やその他の言語を使って捉えることは大事です. 『英語化は愚民化』 の著者である施氏にしても,英語教育自体が悪いと述べているわけではありません. 「英語で教育する」「英語で生活する」ことの危険性を訴えているのです. 勢い,ここらへんのことをゴッチャにして 「英語を勉強しても意味がない!」 「英語よりも日本語の方が優れている!」 果ては, 「英語を教えることは,悪いこと!」 という論調を見ることもあったりしますが,これはこれでバカバカしい話です. だいたい,どの言語がどのように優れているか,なんていう議論は意味がありません. むしろ, どの言語が優れているか?という発想こそが危険 なのです. 日本語の方が優れているから英語教育に反対しているわけではありません. この国のほぼ100%の国民が日本語を使える状態にあるのだから,その普及している言語で高度な教育ができる環境を整えることこそが我々の社会にとって有益だろう,という話をしているのです. 言語の優劣で評価するというのであれば,ではもし日本語よりも優れた言語があれば,そっちに乗り換えるのでしょうか? そういうわけではないでしょう. 愛国心まじりに「日本語は言語として優れているのだから・・・」などと言い出す人がいますが,恥ずかしいので黙っててほしいものです. 日本語の方が英語よりも優れているなどと評価すること自体が低能な発想です. 英語を母語とする人にとっては,英語の方が日本語よりも大事であるというだけのことなのですから. では現在の日本にとって,特に大学においてはどのような英語教育が求められるのでしょうか. それは, 多くの日本人が,日本語だけで日常を完結できる環境を作り上げるための英語教育 で

英語教育は国をあげて取り組むことか?

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今日は以下の書籍をご紹介します. 施光恒 著『英語化は愚民化』 内容には隅々まで賛同します. 私も2年ほど前にこのブログで, ■ 英語教育について ■ 続・英語教育について のような記事を書いておりましたので,興味深く読ませてもらいました. 私が上記の記事で直感混じりで雑に書き殴っていることを,施氏が丁寧に論じてくれているというものです. ご一読をオススメします. この際,私も一大学教員としてあらためて訴えたいのは, 日本人が母国語ではない言語で仕事や教育をしてしまうと,日本人や日本という国が持っている能力を最大限に発揮できなくなる. ということです. その理由は,施氏の著書や私の過去記事でも述べているように,日本語以外の言語教育(英語教育)に時間をとられてしまうと,他のすべき事に時間が割けなくなるからです. そしてこれは, 日本がそもそも英語を勉強しなくても日本語で仕事や勉強が完結できる環境にあるという,世界屈指のアドバンテージ を捨てることを意味します. 他の国々が英語教育に時間を割いているのは,海外に職を求めなければならないほど国内が不安定であり,さらには自国の言語では教育コンテンツが乏しいからです. 特にその国の礎となる産業である,農業,工業といったものを発展させるための科学技術については,英語以外の言語でそれを学べる国というのは限られています. 日本はこれに対し明治初期において,「翻訳」という作業に勤しむことで日本語の語彙を増やし,高等教育に耐える言語にしました. その後も,新しい言葉が輸入されれば新しい日本語を作って対応し,外国語を学ばなくとも高度な学術的活動を営めるようにしていったのです. 昨今の英語教育を推進する動きというのは,その先人たちの努力を踏みにじるものと言ってもよいでしょう. 残念ですが,おおよそ真っ当な人間の考えではありません. 私の後輩に,発展途上国に出張しながら研究をしている人がいるのですが,その人がこんなことを言っていました. 「そこでは学校や大学は全部英語なんです.日本人もあれくらいやらないと,そのうち負けてしまいます」 と. 海外の教育事情に触れてきた少なくない人が,この人と同じような感想を持つのかもしれません. しかし,残念ながら発展途上国は 英語で教育してい

「面白い授業」に対する幻想と誤解

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これからの教育では,授業を面白くすることが大事. 授業が魅力的になれば,生徒や学生の学ぶ姿勢が積極的になる. 授業にもエンターテイメントの要素が必要になってきた. そんな言説を聞くことは多いものです. 特に我々のような教育関係の仕事をしていると,そういったプレッシャーをかけられることもしばしばです. (私が今いる大学はそうでもないのですが,以前勤めていたところでは “それ” に邁進する姿勢がありました)     私も若い頃(まだ若いつもりですが,それは学生の頃とか)は,こうした, 「面白い授業」とか「魅力的な授業」とか「エンターテイメント性のある授業」というものにある種の幻想を抱いていた時もあります. しかし,それはやはり幻想であり,多くの人が誤解しているところでもあるのです. まあ,身も蓋もないこと言ってしまえば,その授業に興味(interest)があれば,それは面白い(interesting)な授業なのです. 面白さとは,出し手だけでなく,受け手にも左右されることです. それだけに,「面白い授業」というものの質を問わねばなりません. かなり以前の記事(■ 反・大学改革論 )で指摘したことでもありますが,一般的な教育機関においては, 「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」 というのは目指すべきところではありません. それを目指すことによって,人々が期待する教育というのは実現できなくなる.そういうものなのです. もちろん,かく言う私も「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」を全く展開しないということではありません. 例えば,最近の大学(と教員)は,地域貢献だとか市民公開といった類のイベントで地域住民用の授業や講義を催すことがあります.こうした場面に立たされれば私も「エンターテイメント性の強い魅力的な面白い授業」をやりますよ. というか,自分で言うのもなんですけど,こういうの結構得意なところもありまして,一般の方々が面白がってくれるであろう授業を特別に企画します. 最近では,我が恩師のように「関西チックな笑い」を混ぜることができるようになってきました.目指せ「◯◯先生」で頑張っております. 「学生は先生からこういう授業を受けているんですか? 皆が盛り上がって面白い授業なんですね」 とお褒め(

いじめ問題を解決する?

前回の記事が, ■ 「問題解決能力」を高めることの危険性 というものでしたので,このブログでもたびたび取り上げている「いじめ問題」とからめてみたいと思います. また最近いじめ問題がニュースになっていたということもありますので. その前に,前回の記事を簡単にまとめますと, 「問題解決能力」がもてはやされるようになると,そこで起きている問題は解決できるはずだ,解決されなければならないと考える風潮が強くなる. しかし,人間社会に存在する「問題」の多くは,すっきりとした解決を期待できるものではないし,そもそもそこで問題としていることは本当に「問題」なのかどうか怪しいものもある.安易に問題解決に飛びつく前に,そこで問題としていることの本質を深く掘り下げることが大事. といったところです. さらに言えば,解決策を講じたとしても,その解決策が原因となって新たな問題が発生したり,より困難な問題を生んだりすることもあるでしょう. このことに注意しなければいけない事例のひとつが「いじめ問題」だと思います. さまざまなニュースや,そこで議論されている「いじめ問題を解決する」という趣旨のものには,いくらなんでもそりゃ無茶だろうというものがあります. それは大きく分ければ次の2つ, 「いじめの撲滅(防止)」と「いじめの加害者の厳罰(排除)」です. 前者は「いじめ防止対策推進法」という形で法律にまでなっちゃいましたし,後者はネットで口汚く議論されております. これら2つに共通する考え方は「いじめ」という存在を学校からなくそうとしていることです. でも,これは教育現場や不特定多数の人がいる会社・組織に勤めている人からすれば,「無理」であろうことは容易に察することができるはずです. なぜなら「いじめ(大人社会だと「ハラスメント」と呼ばるだろう)」は無くせるようなものではないからです. 人間社会があれば,そこには必ず何かの軋轢があります. 今我々が知っているいじめやハラスメントは,その存在を無理にでも無くしたとしても,それまでとは違った形で「いじめ的なもの」「ハラスメント的なもの」が手を変え品を変えて存在し続けます.むしろ,それまでなんでもなかった事が「いじめ的なもの」「ハラスメント的なもの」として誇張されて息苦しさが増え

「問題解決能力」を高めることの危険性

微妙に. ホントびみょ〜に時間がとれない日がひと月近く続きました. メチャクチャ忙しかったわけではないのですが,なんとも微妙にブログ記事を書く気になれない状態でして. そんなわけで久しぶりのブログです.ご無沙汰しております. さて,以前にも,「最近ブームの問題解決型の学習には “問題” がある」という趣旨のものを何度か書いたことがあります. 面倒なので探しませんでしたが,きっとどっかにあると思います. 今日のテーマはその「問題解決型の学習に潜む危険性」です. 結論を先に言いますと, 昨今注目されている「問題解決能力」を過度に重要視したり,それを高めようとする「問題解決型学習」を礼賛する風潮がはびこると,本当の意味で問題解決できない人材が大量発生する可能性がある ということです. 問題解決型の学習というのは,最近(実はかなり前から)注目を集めている授業方法の一つで,生徒・学生が 自ら問題意識を持つことによって,その問題について能動的に解決しようと取り組むプロセスに学習効果を期待しようとするもの です. 問題解決型〜〜と言われるくらいですから,問題解決能力を高めることが期待されており,まさにこの「問題解決能力」を要求することがブームになった社会(日本社会や企業)の要望とも合致するので,なおさらその効果が期待されているのが現状です. それを解説したウェブサイトは,例えば, ■ 問題解決学習 (←Wikipedia) ■ http://www.nier.go.jp/kokusai/pisa/pdf/pisa2012_result_ps.pdf (←文部科学省PDF) などです.詳細はそちらをどうぞ. 問題解決型の学習によって得られる学習効果としては, (1)問題を発見する力が身につく (2)問題を解決するための力が身につく (3)問題が解決できたかどうか評価する力が身につく というものが挙げられます. 日常生活,もっと言うなら人生そのものが常に「問題」を解決しようとすることの連続だとも言えますから,ただ単に知識を詰め込むだけの学習よりも実践的で重要な学習だとされています. すごい!最強の学習法じゃないか!と思われる方もいるかもしれませんが,もちろんデメリットも指摘されており,例えば, (1)学習に要する時間が膨