注目の投稿

井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」

さっきまで大学時代の後輩とその仲間たちと共にフットサルに興じていました.
スポーツはいいものです.

で,帰りに家の近くのラーメン屋に立ち寄りますと,隣の客2人が「プロレスとは〜」と熱く語っておりました.
その2人が話していた論点でもあるのですけど・・・,

プロレスはスポーツだろうか?

この点について今日はお話してみたいと思います.

結論から申しますと,プロレスはスポーツです.
よく,
「プロレスは両者がリングで息を合わせて立ち回り,どのように戦うのか,その勝敗さえも予め決っている.つまり真剣勝負になっていないからスポーツではない」
ということで,
「プロレスはショーである.見世物である,興行である」
という意見が出ます.

しかし私は,だからこそプロレスはスポーツである.むしろ,スポーツの本質がプロレスにこそある,と言いたいのです.

スポーツとは何か? その詳細については,過去の私の記事を再読してもらえればと思います.
本文末にリンクを置いていますので,そちらもどうぞ.

まず,プロレスはスポーツではないと考える人が多いのはなぜか? という点が問題になります.

八百長まがいの事前打ち合わせをしない競技,真剣勝負の競技を「スポーツらしい」と感じるのは,野球やサッカー,マラソンといった人類の歴史上,極めて歴史の浅い「近代スポーツ」のことを多くの方々が「それこそがスポーツだ」と認識しているからに過ぎません.

しかし,打ち合わせなしの真剣勝負をすることがスポーツだ,というのは人類がごく最近になって作り上げた考え方です.

いや,そう言い切ってしまうのも良くありません.スポーツは真剣勝負をするものです.真剣勝負をすることがスポーツの魅力でもあるのですから.
ですが,真剣勝負だけではスポーツにはなりません.どのような真剣勝負なのか? そこが重要になります.

多くの人がスポーツらしい真剣勝負と言った場合,勝敗にこだわることと同義として捉えます.
ところが,多くの人が「真剣勝負をしている,いかにもスポーツだ」と考えている種目においても,勝敗だけにこだわっているわけではないことはご承知のことと思います.
例えば,サッカーではケガで倒れた選手がいればボールを外に出したり,野球でむやみに敬遠球を投げるのは憚られるのです.

つまり,スポーツにおいて勝敗というのは絶対的な価値を持つものではないはずなのです.
ではスポーツにおける価値とは何か?
それは,持っている能力を全て出し切るという意味での真剣勝負をする姿勢,そして飽くなきパフォーマンスの向上です.
スポーツというゲームの場は,その能力を出し切るための場であり,その結果として勝者と敗者が生まれるだけなのです.

さて,プロレスは事前打ち合わせはしていたとしても,真剣勝負をしていないのでしょうか?
いえ,真剣勝負をしているように見えるから観客は盛り上がっているんですよね.
たしかに,「これはショーだ.打ち合わせをしているんだ」ということを折込済みで見ている観客もいるでしょう.

しかし,プロレスラーは真剣勝負に見えるようにリング上で振る舞い,迫力あるアクションを見せるためのトレーニングを積みます.
つまり,パフォーマンスを高めるための厳しいトレーニングを積まなければならず,手を抜けばそれはプロレスではなくなります.

実は私にはプロレスラーの友人がおります(残念ながら,花開かず引退したけど).
曰く,プロレスラーとしての最高のプレーとは,自分だけでなく相手の能力を出し切った上で勝敗に持ち込むこと,とのことです.
彼らにとって勝敗というのは興行上の都合であり,目指すべき格闘技としての最高のパフォーマンスを発揮することは別にあるわけです.

観客が納得するような格闘技としてのパフォーマンスを見せること,それがプロレスにおけるプロレスラーの真剣勝負と言えるでしょう.
それはスポーツとしての価値から外れるわけではないこともご理解いただけるかと思います.

ならば,プロレスにおける勝敗は何を意味するのでしょうか? 興行上の都合だけでしょうか.
勝敗が予め決まっていること.実は,これこそがプロレスがスポーツらしい営みである可能性があります.

過去記事でも触れましたが,スポーツの起源は祭祀や儀式にあると言われています.
そのような角度から見ますと,プロレスラーがリング上で見せる振る舞いというのは,さながら巫女がトランス状態になって神託を受ける様にも見えます

巫女に向かって「本当に神が憑依しているの?」「その神託の言葉,予め考えてるんじゃないの?」なんて聞くことはないでしょう.例えそう思ったとしても,それは聞くもんじゃありません.

それはプロレスにおいても同様で,そういうもんだと思って見るのがプロレスの正しい見方です.
もっと言えば,それがスポーツの正しい見方かもしれません.

プロレスにおいて勝敗の行方は戦っている彼らの間では分かっていることかもしれない.
しかし,それを見ている周りの者(観客)には分からないのです.
勝敗の行方は,トランス状態に入った巫女の神託の如く,戦いの結果を待つしかないのです.
そう考えると,スポーツの魅力の一つでもある「勝敗の行方が分かっていない」ということが,実はプロレスでも保障されているとも言えます.

リングの上でのプロレスラーの戦いに熱狂する観客というのは,もしかすると神殿で神託をする巫女の言葉に耳を傾ける人々と同じ性質を持っているのかもしれません.

では彼らはリングの上で何を神託しているのでしょうか?
それは,スポーツマンとしての戦う姿勢と,勝者・敗者の物語ではないか,それに人々はスポーツの価値を見出しているのではないか,そう思うのです.


かなり端折った内容だったかと思いますので,以下の過去記事で補完してください.

関連記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」