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4月, 2015の投稿を表示しています

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大学をグローバルにするってどうするの?

大学のグローバル化. これを論ずる記事を書くことは敢えて避けてきたのですが,やっぱり少しだけ愚痴ってみようと思います. スーパーグローバル大学に選ばれちゃった大学は今,非常に頭を抱えております. 「選ばれちゃった」という表現は嘘ではなく,まさにこの「選ばれちゃった感」が全学的に漂っております. スーパーグローバル大学に当選した大学の先生方に聞いてみたところ,どこもそんな感じでうなだれています. それがスーパーグローバル大学の実情なんです. そもそも,文部科学省からスーパーグローバル大学の指名を受けるためには,「スーパーグローバルになる大学はおらんかぁ?」という呼びかけに対し,「俺たちはこんな活動を展開してスーパーグローバル大学になるぞぉ」という趣旨の応募書類を作成して申し込みます. つまり,その大学に「スーパーグローバル大学になるぞ」という意志があることが建前でして. そして,応募書類の中から文部科学省が気に入った大学が見事スーパーグローバル大学として今後10年間,補助金を受け取れるということになるわけです. 大学としてはこの補助金が凄く大事でして,だからスーパーグローバルに応募しているんです. 2018年に18歳人口の減少が加速するという「2018年問題」を抱えている大学としては,スーパーグローバル大学に選ばれることは美味しいんです. これは逆に言えば,スーパーグローバルを2018年問題への食いつなぎ策,懐の余裕としての価値しか見出していないというのが実情ですから,選ばれちゃって困っちゃうというのは当たり前なのです. 「文科省に提出した応募書類にはスーパーグローバルになるための「今後の計画」を出しているんだろ? それが評価されて当選したんだろ? だったらそれを粛々と実行すればいいじゃないか」 と思われるかもしれませんが,こういうのって我々の業界では常習化したハッタリみたいのものでして,出来ること出来ないことを,嘘にならない程度に大風呂敷を広げるのが常識なんです. だから,後になって「事情が変わった」とかなんとか言って,応募書類とは異なる内容になることが暗黙の前提の話なんですよ. だいたい,年間数億円程度の補助金を受け取ったところで,日本社会の構造に影響するような変化を適切に

井戸端スポーツ会議 part 19「スポーツ観戦のような政治観戦 その2」

昨秋に, ■ 井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」 という記事をアップしているのですが,最近になっても「スポーツ観戦のような政治観戦」が渦巻いておりますので,その続編を書いてみようとするものです. 「政治が『ショー(見世物)』になった」 と言われて久しいのですが,これも, 議会制政治が一つのスポーツである ことを目指す傾向にある近代,そして現代の有り様を示していものと言えます. しかも,そこで行われている議会制政治という名のスポーツは,人間本来が尊んでいたスポーツ(と遊び)が持っている特性がどんどんと削られており,一言で言うなら 「分かり易い勝敗の現れにこだわる近現代スポーツ」と同じ匂いがする ものになっているのです. そんな最近の典型例が,西日本の某市政を取り巻く現象です. そこでは,政策の是非について対立があるわけですが,こうした論点について, 「政策についてどちらが正しいか討論をして決着をつけたらどうか?」 という話題があります. ちょっと考えれば「キチ◯イの所業だ」「そんな事できるわけないだろ」と思うのですが,なんと,かなりの数の人が「そうすれば良い」と考えているようなのです. すなわち,かなりの数の人が「討論をして決着をつけることが,政策の良し悪しを判断する材料になる」と考えていることを示しており. それはつまり,かなりの数の人が「議論」ではなく,「討論」をして,しかもそこで「勝敗」を決するという手順によって,正しい政治,より良い政策判断が行えると考えていることを意味するわけです. これは由々しきことです.っていうか異常事態です. まさに この日本社会が近現代スポーツ化している ことを如実に示すものと言えます. 議論をしたいのであれば,政策の是非を問う締め切り(住民投票)までの間に,新聞や雑誌,ネット等を使って,時間をかけて各種論点を整理しながら進めることが良いでしょう. かいつまんで言うと,互いの主張を裏付けるデータや資料,哲学的・思想的背景を用意する時間をしっかりと設けて行なうのです. そのようなやり方は特殊なものでもなんでもなく,極々一般的に行われているのですから.特に,より正しい評価や判断が求められる科学研究において多用されています. しかし,少なくない人がそうし

井戸端スポーツ会議 part 18「健康運動に関する授業の質問回答集」

授業が始まり一ヶ月が経とうとしています.ここの大学にも慣れてきたので,すんなりと年度を始めることができました. ところで,私の授業では毎回「一言で質問させる」というのをやっています. 感想文のようなコメントではなく,質問です. 着眼点が良いものに加点して,次回の授業時に点数を公表し,それを成績に反映させるシステムにしています. 学生の中には「毎回質問を考えるのはツラい」と言う者もいますが,まさに「考える」ことを要求できている授業だと思うので,このスタイルは当面続けていくつもりです. それに,年度末に実施する「授業評価アンケート」を見る限りでは,大半の学生はこのシステムを高評価してくれているようです. そうした授業で,どういう質問が出ているのか,その質問への回答の一部をご紹介したいと思います. ちなみにどんな授業なのかというと,「健康運動」に関する講義形式のものです. 点数が高い学生の質問は,例えば以下の様なものです. Q1:「脂肪燃焼」というが,なぜそのような表現がされるのでしょうか?本当に燃えているわけじゃないですよね. A1:たしかに面白いですね.たぶんですけど,脂肪(油)がランプに用いられていたから,そういう比喩でしょうか.なお,公的な研究発表等では「脂肪酸化量」や「脂肪利用量」などと表記されます. Q2:運動が抑鬱状態の人や抑鬱患者に効果的であることは分かりましたが,実際,鬱だから運動ができないということもあるかと思います.そんな人に運動をさせるのは難しいのではないでしょうか? A2:そうです.その対策を考える事が有意義なのだと思います.策を考えて鬱になっている人もいるやもしれません. Q3:そもそも「体力」とはなんですか? よく見聞きするのですが,今回の授業を聞いていてよくわからなくなってきました. A:実は非常に難しい話です.次回の授業で取り上げます. Q4:運動が心理カウンセリング的な役割を果たすこともあるのではないかと思いました.どうなのでしょうか? A4:とても面白い視点です.が,この文面だけだと分かりづらいので,もう少し詳細にお願いします. Q5:太りやすい体質,太りにくい体質(遺伝)の差はどれくらい出てくるのでしょうか? A5:たしかにそのような体質の差は存在しますが,多くの日本人(東洋

井戸端スポーツ会議 part 17「健康,スポーツ現場,結局,アミノ酸はどうなった?」

私が学生の頃は,「アミノ酸」が一大ブームになっておりました. その時の状況,皆さんも覚えておいででしょうか? 2000年前後の頃ですね. とにかく,あらゆる製品へ「アミノ酸」を入れることに必至になっていた食品会社の方々.大変苦労されたことでしょう. 私が所属していた研究室のゼミ活動でも,そんな企業のアミノ酸製品の効果をたしかめる実験をやっていたことを懐かしく思います. めちゃめちゃ苦労して実験した割には,全く効果はありませんでしたしね. そんなアミノ酸を謳い文句にした製品も,最近ではさっぱりになってきました. 一般の方々にも,やっとその「効果」が無いことが周知されてきたからでしょう. ですが,中にはまだアミノ酸に効果があるのではないかと期待する人たちもいるかと思います. スポーツビジネスの世界では,アミノ酸でもう一儲けできるはずだと頑張る姿が見えるのですが・・. では,スポーツ科学の世界ではどうなのか? 一般の方々は調べようとする機会も発想もないでしょうから,ここでちょこっとお示ししておきたいと思います. スポーツ科学と言われて,皆さんが比較的アクセスしやすい存在なのは「国立スポーツ科学センター 通称:JISS(ジス)」なんだろうと思います. そのJISSのHPにこんなページがあります↓ 国立スポーツ科学センター「サプリメント@JISS」 分かりやすい名称です. ところが,「サプリメント@JISS」などというページを用意しているにも関わらず,サプリメントのことについての情報がありません. いえ,全くないと言えば誤解されるでしょうから,もうちょっと丁寧に優しく言うと, サプリメントがどのようなものか? という記述はある のですが,肝心要であるはずの サプリメントにどのような効果があるのか? それとも無いのか? どのような製品があるのか? どのように使用するのか? といった事への科学的・客観的な記述がない のです. これでは「税金の無駄使い」と言われても仕方ないかもしれませんね. ・・・とは言え,サプリメントに関する客観的かつ実際的な情報を,「国立スポーツ科学センター」という立派な名前の組織のHPになぜ掲載していないのか? これでは日本のスポーツ選手や

教育現場,結局,ドラッカーはどうなった?

一昔前,ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』がブームになったことがあります. 『もしドラ』とかいう書籍と,その類似企画も流行ってましたね. ドラッカーがその主著である『マネジメント』で提唱した考え方を,いろいろな企業や組織が取り入れようと盛んに息巻いておりました. それは教育現場である学校や大学も例外ではなかったことを覚えておいででしょうか. ところが,ここでイタいというか残念というか,困ったことにドラッカーが「企業」を対象に提言していたマネジメントの思想を,公的機関である学校・大学の組織の長や幹部が参考にしていた,という話を見聞きすることがありました. なかには,当時のドラッカー・ブームに乗っかって「うちもマネジメントに力をいれなきゃいけない」とか「これからの教育現場もドラッカーが言うように・・・」などと触れ回っていた関係者がいたことを思い出します. そうした「上」の方々を,生ぬるい目で見ていた私がいたことも懐かしい想い出です. ドラッカーがどう云おうが,大学は大学の大学らしい経営管理を貫けばいい,と考えていた私としましては,なんだか彼らのチャラい振る舞いに嫌悪感すら抱いておりました. 「あなた方,それでも本当に学者かよ?」という生意気な態度があの時滲み出ていたであろうことを自覚するようになった現在,今さらながら「若いって怖い」と思うところであります. 少なくない大学関係者が, 「教育現場にも企業や民間の感覚を!」 などと叫んでおりました(いまだに叫んでいる人達もいます). そういう人の中には, 「そのようにドラッカーが述べている」 と言う人もおりましたし,けっこうな数の大学関係者が,大学における「顧客を創る」とか「利益とはなにか」とか「新しい満足を生み出す」などとのたまわっていました. 私もこれにはちょっと頭を抱えてしまいました. 当時,あまりにドラッカー・ブームとマネジメント・ブームが喧しかったもんですから,私もその時『もしドラ』とか『マネジメント』を読んでみたんです. そしたら,『マネジメント』にこんな一文がありました. まず公的機関は,企業と同じようにマネジメントすれば成果をあげられると,くどいほど言われてきた.これはまちがいである. 彼らが本当にドラッカーの考え方を勉強していたのか,今

このブログを読み返してみて思うこと

前回の記事が “あんな感じ” だったもんですから,あらためて自分のブログを読み返すきっかけになりました. ここ数年は週1本,月4〜5本の投稿頻度になっておりますが,始めた当初は短い記事を高頻度で出していました.かようなブログ名をつけて始めてみたものの,他愛もない記事が目白押しです. その後,「他人の日記を読んでも誰も面白くないだろう」ということと,「せっかくこの世に生を受けたのだから,何かしらの形で人類に貢献したい」ということで,誰かにとって有益な記事を書こうと思い立ち,しかもその頃からブログに「アクセス解析」の機能がついたので,どんな記事がどれだけ読まれているか分かるようになったこともあり,皆様の反応を楽しみながら “それなりに狙って” 書くようになったわけです. そんなこんなで,人にウケる記事というのがだいたい分かってきたことと,ただ単にウケるだけの記事は嫌だ,できるだけアカデミックなものがやりたい,と思って始めたのが,「エクセルで統計解析をアナログチックにやる方法」のシリーズです.これは完全にアクセス数が伸びることを確信して書きました.狙い通りです. そのうち,いろんなところからメール等で質問が来るようにもなりました.学生や院生,研究者の方々が多いです. (でも,私は統計学の専門家じゃないので満足な対応ができないこともあります) 次に,思わぬ形で当たったのが「昨今の大学」シリーズです. 昨今の大学について「バカバカしい」と思って茶化した記事や,純粋に私のフラストレーションをぶつけた記事もあります. 結構有名・高名な方々にリンクを貼ってもらったこともあったりで,恐悦至極でございます. そう言えば,某新聞社の記者さんから取材もありました.ビックリです. 大学教員という立場であのような事を書くのはどうか? と思うところもありますが,誰も書かなかったら大学教育が崩壊するのではないかと危惧しておりますので,このような表現をとらせてもらっています. ですが,誤解を恐れずに言うなら,大学らしい教育の崩壊は止められないと考えています. どうせ崩壊するんだから一気に行こう,という立場が現在の教育現場の主流だと思うんですが,私はじんわり崩壊していこう,という立場です. たぶん,この国の学術性や教養は,それが崩

『Deus ex machinaな日々』とは何か

2015年度が始まってバタバタしております. そんなこともあってか,(最近なぜか閲覧数が増えた)■ 危ない大学におけるバスの思ひ出 に登場したX氏から「ブログ更新してないね」と言われました. バタバタしていて記事を書くことに頭がいってなかったんです. 2009年より始めたこのブログですが,あっという間に7年の歳月が経ちました.昔の記事を読むと懐かしいです. ところで,たまに知り合いからも聞かれることがあるのですが,このブログの名称である, 『Deus ex machinaな日々』ってなに? どういう意味? というもの. 開設当時は, 「まぁ,なんとなく・・」 と答えていたのですが,最近になってその意味が自分でも分かってくるようになりました. えぇ,そうです.実は当初は自分でも言葉にできなかったので. Deus ex machina(デウス・エクス・マキナ)というのは,「機械仕掛けの神」という意味です. Wikipediaの説明ではこんな感じ↓ デウス・エクス・マキナ (Wikipedia) 由来はギリシア語の ἀπό μηχανῆς θεός (apo mekhanes theos) からのラテン語訳で、古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した. (Wikipedia:2015年4月17日現在) ということで,そんな日々という意味です.つまりその, 「私の身近,そして最近の日本を見ていると,なんだかそんな毎日な気がする・・・」 という,厭世的と言いましょうか,脳みそにまとわりつく言い知れぬ不快感をブログの名称として選んだわけですよ.敢えて. もうちょっと詳しく説明しますと,Wikipediaの解説文を引用すれば・・, 世の中のことって普通は,錯綜してもつれた糸のようなもので,解決困難なことが多いものです.ところがそれを,「 簡単に解決してしまおう」とか,「単純なものを投じることで一挙に収束することができるはずだ」 と見做す風潮が強いなぁと感じておりまして. いわゆる「分かりやすい」が正義とされる思想ですよ. あと,東日本大震災と同時に起きた福

井戸端スポーツ会議 part 16「体育の授業で得てほしいこと(特に大学で)」

「体育」という授業が小中高の「学校」だけでなく「大学」にも存在する意義とは何か. これについて数あるうちの一つを今回は記事にしてみたいと思います. 以前, ■ 井戸端スポーツ会議 part 14「スポーツと資本論」 でも少し紹介したものではありますが,あらためて書いてみます. 体育が目指しているところ,文科省が出している学習指導要領ではどのようになっているでしょうか.まずは学校教育におけるそれを確認してみましょう. 以下のリンク先に,小中高の学習指導要領における体育の目標が示されてあります. ■ 小学校学習指導要領 ■ 中学校学習指導要領 ■ 高等学校学習指導要領 確認するのが面倒な人のために,それぞれの学習指導要領の言わんとするところをまとめますと, 生涯にわたって運動に親しむ資質や能力,態度を育てる. ということのようです. つまり,運動やスポーツは「良いもの」だから,それを生涯にわたって親しんでもらいたい.故に体育を学んでもらっているのだ,ということです. ではなぜ運動やスポーツが「良いもの」なのか? 一般的には,心身の健康の維持増進に効果的であることが科学的にも実証されているから,という理由がつきそうです. 学校教育における最終段階である高校体育の学習指導要領の「目標」には, 心と体を一体としてとらえ、健康・安全や運動についての理解と運動の合理的な実践を通して、生涯にわたって計画的に運動に親しむ資質や能力を育てるとともに、健康の保持増進のための実践力の育成と体力の向上を図り、明るく豊かで活力ある生活を営む態度を育てる。 とありますから,健康が大きなキーワードになっていることが窺えます. たしかに健康も大事なことの一つではあるのですが,ここでは特にスポーツが持っている人間社会を安定化させる機能に着目し,それを教育できる機会としての「体育」を論じてみたいのです. 結論を先に言えば, スポーツを健全に楽しむ資質や能力,態度を教育することは,その教育を受けた集団(国民)の社会を安定させることにつながる ということです. 言い換えるなら, スポーツは心身だけでなく,社会をも健康にすることができる ということです. ややもすれば体育・スポーツ嫌いが多い(?)インテリ層からすると