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3月, 2015の投稿を表示しています

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高校で得てほしいこと

前回は私の母校・黄柳野高校の宣伝のような文章でしたので,今回はそこで省略していた話をしたいと思います. 今月で高校を卒業する生徒,来月から大学生になる学生もいることでしょう.例えそうした皆さんであっても「高校で学ぶべきこと」を伝えておきたいのです. つまりそれは「高校を出た者が頭の片隅に置いといてほしいこと」です. 前回の記事では,私の母校・黄柳野高校で学べることはこれだ,ということで以下のようにまとめました. 自分にとって都合の良い事は,必ずしも他者にとって都合の良い事ではない.ということを実生活を通してその身に刻むこと.そして,「ルール」や「権利」といった建前論を振りかざした生活では八方塞がりになっていく「実生活」の中において,それでも自分が自由になるにはどうすれば良いのか? ですが,これは実のところ「学校」という場であればどんな学校でも学ぶべきことです.それは小学校であっても,中学,高校であっても同様です. ただ,ここ最近の学校現場の話を聞いておりますと,上記のことが学びにくくなっているのではないか,そういう危惧があります. ※それだけに,現在の日本に黄柳野高校の存在価値は高いというのが前回の記事. これをもうちょっと普遍的な形で言うと,学校ではある一定のルールのもとで勉強させ,自分達(生徒)に権利があることを謳いはします.しかし,こうしたルールや権利というのは必ずしも自分達にとってポジティブに機能するわけではなく,結局は他者との折り合いをつける中において用いる手段であり,道具なのだということを学ぶのが学校ということです. 「なぜ法律のとおりに事が進まないんだ」とか,「私には権利があるはずだ」という訴えをよく耳にしますが,そうしたことをあまり主張し過ぎる人のことをこの社会では何と呼ぶかというと,それは「ガキ」であり「子供」です. これはルールや権利に価値が無いと言っているわけではありません.そうした画一的なモノの見方を改めさせることが,少なくともこの国の学校が成すべき仕事だと思うのです.こうしたガキや子供を大人にするのが学校の重要な使命の一つではないでしょうか. “学力の向上” という知識の伝達も重要な学校の役割ではありますが,それは家庭教師や塾でも十分機能するでしょう.学校はそれだけのためにあるわけではない,つまりは,学校の存

黄柳野高校で得られること,黄柳野高校が求める生徒

黄柳野高等学校というのは,愛知県新城市(旧鳳来町)にある私立高校です. 主に中学・高校において「問題を抱える生徒」を多数入学させることで一時期は知名度がありました(その認識は間違いだけど). ですが最近は少子高齢の影響を受け,大抵の高校が少しくらいの「問題」を抱える生徒であれば入学させるようになっていることと,通信制や専修学校に通う道を選ぶことが増えたためその特殊性が薄れつつあるのが現状でしょうか. 先日,故あって教職員やかつての学友,その保護者の方々と会う機会がありましたので,そこで懐かしい話や黄柳野高校の今後の在り方などを語ってきた次第です. 今日はその 黄柳野高等学校の存在意義 についての話です. これまでにも,本ブログの記事として取り扱ったことがあります. ■ 喫煙ルーム(黄柳野高校のこと) ■ お便りにお答えしたもの ここ数年は世間を騒がせるニュースが立て続けに発生したので「あぁ,あの高校かぁ」と思い出す人もいるかもしれません. 卒業生である私としては,「よくもまぁ内部の事情に配慮せず,しかも教育問題を合理的に考えてしまえるもんだなぁ」と,当時は怒りを覚えました(今は憐憫の情を覚えています). ですが今日は私の不平不満を語るのではなく, 問題を抱える生徒に携わる中学校・高校の先生や,その保護者の方々に向けた記事とします. 別にこの高校の宣伝をしたいわけじゃないんですが,黄柳野高校に代表される「問題を抱える生徒を受け入れる高校」を探している人にとっては,一つの参考になるのではないかと思うのです. 基本情報として,黄柳野高等学校ホームページは↓ ■ http://www.tsugeno.ac.jp (黄柳野高等学校HP) ウィキペディアは→: 黄柳野高等学校 1)荒れているか? 上述した記事でも紹介していますが,「荒れた高校」かどうかを心配する人もいるかもしれません.特に送り出す保護者としては最重要チェックポイントでしょう. 全くもって問題が発生しないとは言いませんが,荒れてはいません. 何をもって荒れているかという話でもありますが,黄柳野を「荒れている」と言い出したら,日本全国の半数近い高校が荒れていると見做せるかもしれません. 皆さんが「優良」だと思っている高校にしたって,生徒事情を聞けば黄柳野なんてかわ

井戸端スポーツ会議 part 15「ドーピングを求める大学,あと日本も」

本ブログの記事,「危ない大学シリーズ」でも少し触れていることですが,経営難に陥った大学というのは体育会系のクラブ活動に焦点を当てて学生募集を狙います. つい最近まで「スポーツ」の名をつけた学部学科が流行っていました.その理由のほとんどが学生募集に有利だったからです. 「高校生活でスポーツに一生懸命取り組んだ生徒を優遇する.勉強に打ち込んだ生徒と同様,スポーツに打ち込んだ生徒には何かしらの魅力があるはずだ」 などという理由をつけて, 「しかも,体育・スポーツ系の学生は社会・企業からの評判も良い」 という出口(卒業時のスペックのこと)の強さもアピールしながら,スポーツ系の学部学科は増加の一途をたどりました. 最近は流行らなくなりましたけどね. ですが,特に経営難の大学においてはスポーツ系の学部学科,乃至,(誤解を恐れずに言えば)クラブ活動をするために入学してもらう学生は,未だ重要な資金源としての価値を持っています. 業界用語でいう「スポーツの学生」は,きちんと育てれば大化けすることが多いのですが,残念なことに経営難の大学,なかでも「危ない大学」におきましては,アカデミックな水と肥料を使って育てようという気概が弱く,逆にビジネスライクで自己啓発的な指導で誤魔化そうとするため悲しい結果を招くことが多々あります. 私はかつて,「スポーツの学生」に “ 経営手段として ” 頼ろうとする姿勢を強める大学に箴言したことがあります. 「むやみにスポーツの学生に頼ろうとするのは,大学にとってはドーピングみたいなものですよ」(立場上,箴言になってなかったと思いますけど) もちろん反論されました. 「いやいや,(私)先生,そんなこと言ったら先生の仕事無くすようなもんですよ」 と言われましたが,こういう状態になっていたらその大学は末期です. なぜスポーツの学生を入れることが大学にとって「ドーピング」なのか? ドーピングというのは短期間や即時的に著しく体力や心理状態を向上させ,スポーツの競技力を高めようとするものであり,その副作用として健康への害があることはご存知かと思います. 短期的には恩恵があっても,長期的には有害であるもの.むやみに用いれば,その個体を崩壊させることになるものです. これについて現在の少なくない大学は,学生数という体力を求め

続・東京人と中国人はよく似ている

タイトルは「続」ということにしておきましたが,中国人については触れないかもしれません. 前回の, ■ 東京人と中国人はよく似ている を書いてから後,例の先輩教員と本件について再度議論することがありましたので,そこで出た話題を追記をしておこうと思ったからです. まあ,そんなに長く書きませんので暇だったら読んでいってください. 東京とその周辺(以降,「東京」とする)の食文化についてです. きっとこれは地方出身者は首肯してくれるはず. いきなり喧嘩をふっかけるようで悪いのですが,ぶっちゃけて言えば東京の食事は美味しくありません.やや不味いと言ってよいでしょう. ところがその一方で,東京名物の一つに「行列のできる飲食店」というものがあります. このような飲食店における行列現象と矛盾するのではないかと思われるかもしれませんが,私は以下のように捉えております. 「特定の飲食店に行列ができるほど,東京の平均的な飲食店は美味しくないからだ」 ということです. 「飲食店にとって激戦区である東京では,平均的な飲食店のレベルも高まるのでは?」 という意見もあるでしょうが,私が考えるに,東京は人口密度が高いため,そんなに味を良くしなくても客が入りやすいというアドバンテージがあると睨んでいます. 味が良くなくても客が入りやすい,固定客が多くなくてもある程度やっていける土壌があるということです. さらに言うなら,これは東京の方々は激怒するかもしれませんが,少なくない東京人の舌のレベルが低い,ということが言えます(皆とは言っていませんよ). こちらに移り住んで,「行列のできる飲食店」というものに興味があったので,ここ2年間にいくつか廻ってみました. そこで食した感想は,率直に言って「・・・,ま,並ぶほどじゃないな」というものです. たしかに他の店とは異なる味を出しています.とても新鮮な味わいです. が,それ以上のものが見当たらないのです. そこから以下のことが考えられます. まず,東京には元来,それほど美味しい店がないことから,ちょっとでも味が良い店であればそこに集中する.この要因はかなり大きいと思う. そこからさらに言うと,普段それほど美味しい物を食べているわけじゃないから少なくない東京人の舌のレベルは低い. そのくせ東京には美味

東京人と中国人はよく似ている

先日,タイトルにあるような話を関西在住の先輩教員とフェイスタイムでしておりました.「東京人って中国人みたいですよね」って. 私自身,2年前から関東に移り住んできて,当初から感じていたことです. 以後,盆正月の帰省後や地方出張から帰ってくる度,東京(品川)駅や羽田に降りる度にいつも感じていることです.「あぁ,ここは中国に似ているなぁ」って. 東京人と中国人はよく似ている.もっと言うなら,東京という地域と中国はよく似ている,と思うんです. 現在の風潮からして,こんなこと言うと東京の人達の心証が悪くなってはいけないので,「別に東京人だけじゃないんですよ」ということでもうちょっと広げて言いますと,少なくとも「大阪市内の人たちと東京人は,中国人とよく似ている」というところでしょうか. 雑談・談笑ではありましたが,我々としてはかなり確信ある話でして,しかも, 昨今,中国を不自然に蔑視する風潮が強いことと,「日本らしさ」を 不自然に前面に出そうとする風潮が強いと感じておりましたので, それに一石を投じる意味でブログ記事にしてみようと思った次第です. 別に中国擁護や関東批判を目的としているわけじゃないです. で,せっかくなのでこのテーマについて論じられた(比較的まじめな)書籍はないかなぁ〜,と思って探してみたんです. なんと,ありました. 與那覇潤 著『中国化する日本』 .もしかすると移民とか領土,思想の侵略が進んで・・・,などという類の本じゃないかと心配していたのですが,どうやら我々の談笑のテーマと同じ方向性を持ったものだったので参考文献としてオススメしておきます. (我々の居酒屋談義とはレベルの違う,きっちりした内容の本です) その中国についてですが,私は何度か研修や引率などで中国に滞在した経験があります.今になって思い出してみると,学生の頃から中国人研究者と話していたり,中国との共同研究なんかもやってたなぁって,けっこう中国・中国人との接点は多いものです. つい2年前までは,東京よりも中国の空気を吸っていた時間が圧倒的に長かったのです(幸いなことに呼吸器は無事です). そんなこんなで,関東に移り住んできたのですが,そこで感じたのがこの地域の「中国濃度の高さ」です. いえ,中国人の数が多いってことじゃないですよ.街の空気,人々が作り出す