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大学教育の質が低下している?

こんなニュースが流れましたので,それについて論じてみようと思います.
講義は中学レベル,入試は「同意」で合格 文科省がダメ出しした仰天大学とは

記事を抜粋しますと,
 「数学の授業は四捨五入から」「受験生と大学の『同意』で合格」「新入生が一人もいない」――。新設の大学や学部でこんな事例が相次ぎ、文部科学省が改善指導に乗り出しました。若者の減少とキャンパスの新増設で「大学全入」とも言われる時代。とりわけ知名度の低い地方大学で、教育の質の低下が懸念されています。
withnews:2月21日(土)
とのことです.

 
 

過去記事でも繰り返し論じたり訴えたりしている点ですが,現在の大学経営がどのような方向性を持っているのか,今一度お話しておきます.

大学は今,
「教育の質を下げなければ淘汰される」
という事態に突入しています.
このような事態へと突入させた犯人は,上記記事で “ダメ出し” している文科省と,あとは国民の要望です.

ですが,一口に「大学における教育の質の低下」と言いましても複数の視点がありまして,今回のニュースはそれを論じる上で格好の材料なんです.

今回のニュースを読み解くためには,きちんと論点を整理していく必要があります.
論点は以下の通りです.

1)学力が低い者を大学へ入学させることは悪いことか?
2)大学で四捨五入やbe動詞を学ばせることは “教育の質が低い” ことなのか?
3)質の高い大学教育とは何か?
4)なぜ大学は教育の質を下げるのか?


上記の記事には気になる文章があります.
「大学の教育の質が低下している」
というところです.

これについては,文科省や記者が考えている「教育の質」の認識が間違っていると指摘しておきましょう.
下がってきているのは教育の質ではなく,学生の学力です

勘違いしてもらいたくないのは,私は別に「学力が低い者を大学に入学させるな」などと言いたいわけではありません.
四捨五入や百分率,be動詞が分からない学生が増えてきているのですから,大学がそうした学生に応じて指導するのは当然ではないでしょうか.

たとえ経営難大学とは言え(経営難大学だからこそ,だが),そこに入学した学生は四捨五入や百分率,ちょっとした英語を学ぶ機会が得られているのであり,こうしたことは大変喜ばしいことです.
文科省や記者の人達がイメージする「私達が学生だった頃の授業」と食い違っているだけのことで,学生が教育を受けることができていることに変わりはありません.


私が問題視しているのは,こうした「四捨五入や百分率,be動詞を教えている “から”, その大学は教育の質が低い」という考え方です.

上記記事の本文にはこうあります.
こうした実態について文科省の調査は「大学教育水準とは見受けられない」と指摘しており、改善を求めています。
これはつまり,文科省としては「大学の授業では四捨五入やbe動詞を教えてはいけない」,すなわち「学力が高い者でなければ,大学に入学させてはいけない」ということを意味しているわけです.

要するに,文部科学省としては日本の教育を充実させる気がないことを暗に示しているのです.

もっと言うと,文科省もそうですが,こうした大学の現状を取り上げ囃し立てる人の多くは,
大学とは卒業の肩書きをもらうところであり,勉強するところではない
という本音を無意識にゲロっていることになります.
彼らの頭の中では,大学で何を学ばせるのか? ではなく,大学でどんな授業をすれば良いかが優先的なのです.

「大学とは勉強するところだ」
と考えているなら,
「大学では四捨五入やbe動詞を教えない」
などという発想には至らないはずですから.


大学とは何を学ぶところなのか? について曖昧にしたまま,表面的な体裁を重視するとこのような着想になるという典型でしょう.

そんな現在の日本の大学が抱えている根本的な問題点というのは,その学生が大学で学ぶべき事を修めていなくても,なるべく卒業させなければならないという慣習めいた仕組みです.
端的に言うと,「不合格」や「卒業不可」を宣告しにくいということです.

私は先ほど,「四捨五入や百分率,be動詞を教えているから大学教育の質が低いという考え方は問題だ」と述べましたが,四捨五入や百分率,be動詞を学習できていなくても卒業できてしまう現在の大学の在り方も問題だと思います.

・・いえ,事の本質はそこにあるわけではないのです.
これは説明が難しいので注意して読んでほしいのですが,
簡単な数学や英語ができなかったとしても,“物事を学術的に捉える高度なモノの考え方” を身につけることが大学教育が成すべきことです.

学術的に物事を捉えることができると言うのは,物事を多角的に捉えることができ,誠実な議論から正しい解釈を導き出そうと努力し続ける態度のことです.
その態度・能力を磨くことが大学での学びと言えるでしょう.

そうした態度・能力を磨くためには,なるべく高度な数学や語学を身につけておいたほうが良いのです.
ですから,四捨五入や百分率,be動詞が分からない者が「物事を学術的に捉える高度なモノの考え方」を身につけるのは非常に困難であると言えます.

大学側としても,そうした基礎的な学力が備わっていない学生を相手に,モノの考え方を磨く授業を展開するのは難しいですから.


ですが逆に言えば,どれだけ数学ができようと,英語がペラペラであろうと,モノの考え方およびその態度が身についていなければ,その学生は卒業させてはいけないはずなのです.
そんな学生・卒業生は,なんとなくの雰囲気やノリで物事を判断する人物になっていきます.

瑞穂の国の資本主義を謳いながらTPP交渉に乗り出したり,日本文化の大切さを謳いながら英語教育を重視したりする左翼・改革主義の政党・政治家を「保守派」だと評する思考回路になってしまうのです.


私がこのニュースを取り上げてこんなこと書いているのには理由があります.
この「モノの考え方」ですが,基礎学力との相関は高そうに思えて,実はけっこう弱いという実感があるからです.

たとえ基礎学力が低くても,モノの考え方が身についた学生は必要に応じて独学で乗り越えようとします.

いろいろな大学の学生を見てきましたが,学力が高かろうが低くかろうが,大学教育を真面目に受けていればモノの考え方は備わります.
そんな学生は,卒業してから後も誠実な議論と正しい解釈を通して学び続けることができるのです.

逆に,どれだけ学力が高くても,大学で学ぶべき事が備わっていないままに卒業する人も多数おります.
そんな学生は大学教育をもっと受けてもらったほうが良いのですが.

ですけど,さっきも言いましたが現在の大学教育では簡単な数学や英語を学ばなくても卒業させてしまう仕組みになっておりまして,それが事をややこしくします.
これに大学間競争が加わると,とにかく学生を獲得することが良いという認識になります.
ビジネスライクな大学経営になっているんです.

ビジネスライクな大学経営には大きな特徴があります.
それは,「学生を教育した成果を,定量化して示すようになる」というものです.
数字は学生募集のための重要なアピール材料ですから.
典型的なのは,就職率とか何かの試験・検定の合格率などです.


その結果,定量化できない教育成果である「モノの考え方」については軽んじるようになります.
就職するだけならモノの考え方は鍛えなくても良いからです.
それが冒頭の「教育の質を下げなければ淘汰される」の意味です.

本当の意味での「大学教育の質を下げる」ことをしなければ,経営難には対処できない.
そんな状態に大学を追い込んでいるのが日本の現状なのです.

真に憂慮すべき大学教育の質とは,こちらの方です.


モノの考え方を鍛えることを怠ったツケは,5年・10年,それ以上経ってから現れてくるものですから,今のうちから声を上げていく必要があるんです.

 
 

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