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人間はスポーツする存在である

前回,最近話題になった,
「オリンピックで負けたのにヘラヘラと「楽しかった」はあり得ない」のはなぜか?
と同時に,
そうした発言が批判されて然りなのはなぜか?
という矛盾した部分を記事にしました.
負けたのに『楽しかった』はダメでしょうけど,けどね.
結構長い記事になってしまったのですが,体育・スポーツというのは私自身の専門でもありますので,ちょっと熱くなってしまうところがあります.

今回は,前回の記事の最後にも取り上げた「人間の活動(存在)そのものがスポーツである」という点です.
今回も長くなることが予想されるので,読み切りやすい,なるべく短い記事になるよう頑張ってみます.

人間の存在そのものがスポーツである・・・
スポーツの魅力とは,スポーツが人間の本質を物語っているものに他ならないからである・・・

「おいおい,スポーツごときで大きく出たな」
「逆じゃね?人間の様々な活動が,スポーツにも反映されていると考えられないか?」
と思われるかもしれませんし,見方によってはそうなのですが.

まぁ.ちょっと大袈裟に言ったほうが読み始めてもらいやすいかな,という部分もなくはないのですけど,そのまま最後まで読んでくれれば幸いです.

とは言え,これについて直感的に考えましても,政治・経済や農耕,建築,それに科学といった,現在(有史以来)の人間らしい活動が成立するに先立ち,人類は「スポーツ」をしていたのであろうことは,十分に想像できることでございます.

故に,スポーツから全ての人間らしい営みが始まったとも言えるのではないか,ということも,十分な説得力をもって迎えられることなのではないでしょうか.

詳細はこれから説明しますが,これはヨハン・ホイジンガという著名な歴史家にして哲学者が言っていることを,「スポーツ」というものを強調して私なりに拡大解釈したものです.

ホイジンガはその主著「ホモ・ルーデンス」において,人間が創り上げてきた文化は,すべて「遊び」ながら育まれていると言います.「遊び」には文化を創造してゆく機能があるというのです.

ところで,このホイジンガの主張を誤解している人もいるので念のため申し添えておくと,人間の文化は「遊び」が出発点,「遊び」が起源である,ということではありません(ホイジンガ自身が著書でそう述べている).人間は文化を遊びながら,遊びの中で創造・発展させてきたのだ,ということです.
(表現の仕方の問題かもしれませんが,これは結構重要な部分です)

文化を「川」に例えますと,「遊び」というのは地形の「傾斜」を指すのであって,「水」を指すのではない,ということと類似しています.
湧き出てくる「水」は文化(川)の「起源」ではありますが,それだけであれば,ただの「湧き水」です.
これが「川」,つまり「文化」と呼ぶにふさわしいものになるためには,そこに傾斜が必要になります.文化という川が,その川らしさを獲得するには,「傾斜(「遊び)」によって流れが生まれることで齎されるのであり,その傾斜具合によって流れ方に変化が生まれるということです.

「傾斜(遊び)がなければ川(文化)にならないのであるから,傾斜(遊び)が川(文化)の起源だともいえるのでは?」
というところですが,やはり川の起源はあくまで湧き出る水です.水が湧き出なければ川はできませんが,一方の傾斜(遊び)はというと,湧き出る水(文化の起源)がなくても地球(人間)には「それ自体」として存在するものだからです.

「遊び」が文化へ及ぼす機能についておさえた上で.話を「人間の活動そのものがスポーツである」に戻しましょう.
まず,「スポーツ」というものをどの範疇まで広げるのか?そこがこの話のポイントになります.

多くの方々が「スポーツ」と言われて連想するであろう野球やサッカー,スキーやマラソンといったものは,「スポーツ」のなかでも「近代・競技スポーツ」という極めて限られたスポーツの種目を指して語っているに過ぎません.
こうした種目だけを指して「スポーツ」と呼ぶことはできませんし,スポーツのことを語っていることにはなりません.
これら「近代・競技スポーツ」というのは,ヒトが「スポーツ」していくなかで生み出した種類の一つと言えます.

実際,「スポーツ」を定義するというのは学術上も非常に困難であり,かつ,幅広い意味を持っていることがわかります.
ためしにWikipediaなんかを参照してみてください.
F1レースはもちろんドライブもそうですし,登山も囲碁将棋もカードゲームも,スポーツとして見做してよい活動なのです.
「スポーツ」Wikipedia

長くなる恐れがあるのでかなり端折って結論づけますと,「遊び」の定義と「スポーツ」の定義は非常に似通います.
すなわち,生物本来が必要とする生活や生存とは関係ないもので,ホイジンガの言葉を借りれば,秩序,緊張,運動,厳粛,熱狂を伴う「おもしろい」活動が遊びなのであり,そして,これらのエッセンスを濃縮還元ジュースのようにしたものこそ,スポーツではないかと考えたくなるわけです.

では,どのようなものが濃縮還元されているかというと,
なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する
というものではないでしょうか.

このように考えますと,人間は遊ぶからこそ人間なのであり,文化は遊ばれることで発展してきたのでしょうが,人間の野心的な着想は,文化を遊ぶだけではなく,スポーツさせてきたと考えられなくもないのです.
つまり.
人間というのは,さまざまな文化をスポーツさせることで肥大,洗練させてきたのではないかと思われるのです.

例えば,政治や経済,国家運営も人間がスポーツすることで生み出される現象です.
そこでは絶えずスコアを稼ぐことに一喜一憂し,それ自体が面白くなるようなルールを作り,その変更が繰り返されます.
スコアを,「お金」「票」「領土」「人」,ルールを「法」「条例」「協定」などと置き換えてみてください.
あらゆることが「スポーツ」として見えてくるでしょう.

そして,スポーツが好むのは「より公平に,より明確に」していくことです.
公平な状態からスタートすることを好み,その結果がより明確に示されるものを好みます.

当のスポーツでさえも「より公平に,より明確に」,つまりスポーツそれ自体がスポーツされることで,「近代・競技スポーツ」と呼ばれる領域を誕生させています.
野球やサッカーも,その起源であったものをルール変更して誕生したものですし,バスケットボールやインディアカなどの新しいスポーツ種目も,その起源になったスポーツが元々あって,そのルールを「より公平に,より明確に」なるように作ることで成立させているのです.

そして,このようなスポーツのルールや環境整備は,スポーツとして面白くされるべく変更が繰り返されます.
例えば陸上競技・短距離走では,勝者が明確になるよう高速カメラで判断したり,疾走タイムも厳密に計測されることが “当たり前” であり,その明確さが問われます.
野球の審判も「将来はコンピュータにやらせるのが理想的」とすら言われるほどです.

人間が様々な物事の「ルール」を変更したがる理由は,その活動を「スポーツしたい」からに他なりません.
ビジネスを,外交を,戦争を,裁判を,議会を,デートを,あらゆるものが「スポーツ」的であるほど理想的に映ります.

これらの活動は,可能な限り初期条件が公平で,結果が明確であるほど面白くなります.
つまり,人間はあらゆる物事をスポーツにさせるべく「ルール変更」を企んでいる存在だとも言えるわけです.

そう考えると,人間が「スポーツ」と呼んでいる活動に,不思議なほど強い魅力を感じているのは,「物事をスポーツさせる」という人間の夢・本能が,純粋な形で具現化できる営みとして位置づけているからではないかとも考えられます

こうした「スポーツする」ことは,「遊び」と同様に,人間の様々な文化や社会制度に織り込まれていると言えるでしょう.
つまり,「人間とは“遊び”,そして “スポーツする” ことで文化を創造し,高度に発展させている存在だ」と捉えられなくもないのです.

ところが.スポーツすることは何も良いことばかりではないと私は考えております.
代表的なスポーツ活動である「近代・競技スポーツ」において,まさにそれが顕著でありますが,物事をスポーツさせること,すなわち上述してきたような,
「より公平な状況設定と,より明確な結果となって示されうるルールを作り,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」
という活動を進めた先にあるのは,「遊び」のない世界です.
スポーツする人間というのは本能的に,どの立場の者(集団)にも公平なルールで,どの立場の者(集団)にとっても明確な「スコア」で評価される世界を望むからです.

「スポーツする」とはつまり・・・.
人は皆,平等に扱われなければいけない.
能力は等しく発揮されるべきなんだ.
不公平を生むものは取っ払おう
皆が等しく納得できるようなスコアや採点基準を用意しよう.
各々の価値観の違いによってスコアに影響が出ちゃうようなものは避けよう
公平な立場からスタートし,その結果としてスコアに差がついたとしても,それはその者の能力を明確に示しているのだ.
スコアが高い者が優秀で,低い者は劣等.なんて明確なんだろう.
今の状態が不公平だというならルール変更しよう.
でもルール変更するのはスコアが高い者同士で協議すべきだ.
なんてったって高いスコアを獲得した者が優秀なんだからね.
スコアの高さはリスペクトされるべきなんだ.

とまぁ,ん?なんだか色んな意味でデジャヴな文章ですなぁ.

全てのモノが,普遍的な価値基準のもとで評価される世界.
そのルール変更は強者に委ねられている世界.
そこに人間らしい世界はあるのでしょうか?

スタートラインを一緒にして,あとは各自が切磋琢磨.
そう言えば最近,そんな世界を目指すべく国際協定が・・,えーとたしかティー・ピー..,
オォッと.これはまた別の話.

「遊べる」ことが魅力の一つだったスポーツですが,実はスポーツすることの先に待っているのは「遊びの消失」である可能性が高いのです.
ホイジンガも「近代・競技スポーツ」を指して(1938年当時ですら),「もはや遊ばれていない」と,その後のスポーツの行く末を喝破しております.
ホイジンガは「今のスポーツは真面目すぎる」と評価しましたが,私はこれを「スポーツ」という現象が有する本能のようなものだと解釈しています.


世界は絶えずスポーツすることを望み,スポーツされることを望んでいるように見えます.スポーツというものは一見,公平で明確なものを見せてくれるからです.
故に世界はあらゆるものがスポーツであることを望みます.遊ぶことを劣等なものだと考えてしまいます.
しかし,そうした世界にあって,つまりスポーツされていく世界にあって,実は大事にされるべきは「遊び」の要素なのではないでしょうか.
人間は遊ぶからこそ人間であり,「すべては遊びなり」だからです.


冒頭で「スポーツごとき・・」と書きました.そういう態度でスポーツを見る人は多いものですが,スポーツというのは人間を考える上で非常に重要なものでして,私自身,大学に入ってからそのことを知りました.
それに,「体育」と呼ばれる身体教育は重要なのです.一般に流布されている認識以上に.

例えば,独立して「体育(スポーツ)大学」という高等教育機関が存在し得るのは,多くの人が考えている以上に,体育・スポーツや身体論というものが人類や学術上とても重大なテーマだからなのです.

「スポーツ系だけど,ま,いっか,っていうことでココ(大学)に入りました」
という学生が本学にもいるのですが,
いやいやスポーツは奥が深いのですよ.