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危ない大学におけるバスの想ひ出

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過去記事でも何度か登場したことのある,(危ない)大学経営の切り札である「バス」. 危ない大学においては,この「バス」は重要なキーワードと考えられています. 今回はこの「バス」について,“その経験” がある大学教員のインタビューをお届けしたいと思います. 「大学(教員)とバス」について,過去記事をご覧になりたい方は以下のリンク先から振り返ることができます. ■ 「教職員用」危ない大学とはこういうところだ ■ 細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権 ■ 続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権 では,危ない大学の教員にとって「バス」がどのようなものなのか,その生々しい実態をどうぞ.     私:今回のインタビュアー X:大学教員・X氏 私: 今日はインタビューにお応え頂きありがとうございます.X先生は現在の勤務校では「バス」の業務をされていないということですが,前任校は「バス」の業務があったそうですね.早速ですが,そのときのお話しを聞かせてください. X: バスに必要な免許にはいわゆる大型免許と中型免許というのがあります.大型免許はいわゆる路線バスサイズのものをさします.このサイズのバスを運転するには大型免許が必要なんです.中型免許は主にマイクロバス等(29人以下だったかな?)が運転可能な免許です.これは一昔前の普通免許で運転できるんですけどね. 大学によっては教員採用にあたって,もしくは任期更新のためにこの「大型免許の取得」が条件(脅迫めいたもの)になるんです.博士の学位よりも優先されます. 私: 危ない大学における教員は,博士の学位よりも大型免許の方が重要ということですか? X: そうです.今となっては興味深い “想ひ出” ですが,よくよく考えてみると背筋が凍る話ですね.ですが,経営難の大学としては大学教員らしい人材が採れれば,あとはバスの運転をさせてバス運用費用を浮かせる戦術に出ることが多いと思います. ちなみに,免許を取るのは自費ですよ. 私: やっぱりバスの運用はお金がかかりますからね.教員にやらせれば一石二鳥ということですね.日本のテレビ局が不況になってから,女子アナをタレント扱いし始めたことと一緒ですかね. X: まさにそういうことだ

センター試験の廃止について述べておく

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センター試験が廃止になるという件について,先日ニュースになっていたので取り上げておこうと思います. Yahooニュースはこちら. ■ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141204-00010001-benesseks-life ■ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141222-00000046-mai-life 文科省のHPではこんな感じ. http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1354191.htm どうしてこんなにツボを外した提言ができるのだろうかと不思議でなりません. でも,大人になって心穏やかな私としましては,いろんな人のいろんな妥協の産物なんだろうなと微笑ましく見ております. が,そんな悠長なことを言ってられない身でもありますので,私の真面目な “保身” のためにも声を上げておきたいと思います. 正直言って,頭がどうかしてんじゃないかと疑うような提言です. 「却下」ですよ,こんなの「却下」. まぁ「センター試験を廃止する」っていうのは良しとしましょう. んで,代わって実施しようという「 学力評価のための新たなテスト(仮称) 」における「高等学校基礎学力テスト(仮称)」っていうのと,「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」ですが,これが結構問題です. 文章だけだと説明が面倒なので,文科省のHPから当該資料の【別添資料2】の画像を引っ張ってきました.それが以下のもの. http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/12/22/1354191_1.pdf この手のニュースでも触れられていますが,ようするにこれまでの, 「センター試験,一発勝負」 から, 「総合的な評価,テスト」 という方向に舵切りされたということです. ちなみに,この考え方ですけど私としては比較的賛同するところでもあります. これまでの「知識・技能」の評価に偏重しているところを反省し,「思考力」

続々・STAP細胞研究の件

例のSTAP細胞研究の調査が終わったようです. これまでにも, ■ STAP細胞研究の件について ■ 続・STAP細胞研究の件について ということで感想を述べてきたところですので,改めてここに書いておくことにします. ここにきて,ようやく研究チームを堂々と非難することができます. ※実際のところ,まだ完全な事態把握ができているわけではないですけど. 「やっぱり結局,あいつはウソをついていたんじゃないか!」 と言いたい人たちもいるでしょうが,こういうのは「科学的な批判」ではありません. とっても情緒的で微笑ましい批判・反応です.「そうだね,君の予想,当たったねぇ(頭ポンポン)」てしてあげたいとこです. 信じる信じないとか,陰謀があるんじゃないかとか,不道徳だ,あいつムカつく,みたいな話で盛り上がっていた日々が懐かしいですね. 「やっぱり結局,多くの一般人ってウソに惑わされるんだなぁ」 というのが私の言いたいことです.これも科学的な批判じゃないですけどね. 世間が騒ごうがどうしようが,「STAP細胞研究」に関する論文というのは科学的に葬られているはずの研究と論文だったのです. それをただバカ騒ぎしただけのことです. で,こんなにも騒いだ理由は,研究リーダーのキャラクターとメディアに祭り上げられた状況によるものということでした. 他の研究(本件のような不正・捏造)では騒いでいないのですから,つまり「よく事情が分からない人たちにも明確に叩ける材料が揃っていて,しかもなんせ面白かった」というだけの話です. ペナントレースの予想とか選手の評価みたいな居酒屋談義が,科学界を舞台に行われた,というだけの話ですね. 科学者のひとりとしては,特に興味深いことはありません. しいて興味深かったこととを挙げるとすれば,過去記事でも繰り返しているように,なんぼ言うても “こんなにもいきり立って騒いだ世間の人々” の方です. なんだか,発狂しながらコンクリの壁に頭を連打して血まみれになっている集団を見ているようで,ある意味 “興味深かった” です.ドン引きしたというのが素直な感想です. こういうのって,学校のいじめ問題で騒いだ人たちと似ています. 参考記事■ 大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています そう言えば,iPS細胞研究で有

井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

パラリンピックや障害者スポーツへの関心が低い理由 なぜ障害者スポーツへの関心が低いのでしょうか? この問いに対し,今回も「 人間は『身体』を通して理解する 」という観点から考えてみたいと思います. 過去記事は,■ 井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」 です. 「日本人は障害者スポーツへの関心が低い」 などと自虐的に言われることもありますが,実のところ諸外国においてもこれは変わりありません. 以前,NHKの調査で以下のようなものがありました. 太字 のとこだけ読んでもらうだけでもOKかと思います. 『日本での障害者スポーツの関心の低さ明らかに』 2014年11月25日 NHK 日本で障害者スポーツを観戦したことがある人は海外に比べて少なく、6年後の東京パラリンピックを観戦したいと考えている人もオリンピックの半分にとどまることが「日本財団」の調査で分かりました。 公益財団法人「日本財団」は、ことし9月から先月にかけて日本をはじめドイツやアメリカなど6か国で、障害者スポーツへの関心についてインターネットを通じてアンケート調査を行い、4200人余りから回答がありました。 このうち、6年後の東京パラリンピックを会場で観戦したいか日本で尋ねたところ、観戦したいと答えた人は15.4%で、30.2%が観戦したいと答えたオリンピックのおよそ半分にとどまりました。 また、これまでに障害者スポーツを観戦したことがあるか尋ねたところ、ドイツは18.9%、アメリカは17.9%、オーストラリアは13.9%、韓国は12.6%、フランスは10.8%と、海外の5か国ではいずれも10%を超えたのに対し、日本は4.7%と最も低く、 関心の低さが浮き彫りになりました。 いやチョット待ってくれ,と言いたいところです. (調査方法の妥当性はさておき)まず,これで明らかになったのは 「障害者スポーツへの関心の低さは世界共通である」 ということでしょう. 「障害者スポーツ」という大枠でみても,諸外国の8〜9割の人が障害者スポーツを見ていないわけです. 障害者スポーツへの取り組みが活発な国々ですらこの状態です( ちなみに日本は極めて活発な国の側にあります ). 他の国での関心も図り知れるものですね. 障害者スポーツの

人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

人間は身体を通して理解する,ということについて「ガンダムで言うと」シリーズの第3弾です. 以下の2編もよかったらどうぞ. ■ 「ファーストガンダム編」 ■ 「Zガンダム編」 もともとの記事は,体育・スポーツの記事である. ■ 人間は『身体』を通して理解する ですので,そちらもどうぞ. さて,第3弾では『新機動戦記ガンダムW』を取り上げてみようと思います. この『ガンダムW』のストーリーは,「 人間は身体を通して理解する 」ということについて,SFロボット作品としてある意味忠実に「解説」した作品だと見ることができます. つまり,非常に分かりやすく描かているんです. その最たる例,象徴的な登場キャラクターがトレーズ・クシュリナーダです. 彼の発言や思想を追っていけば,おのずと「SFロボット作品とは,人間は身体を通して理解するということに依っている」に行き着くかと思います. 典型的なのが,彼の戦闘スタイルや美学,彼自身が決戦用として設計したモビルスーツ(ロボット兵器)の武装です. 彼の戦闘スタイルと美学とは,ひとえに「格闘戦」,可能であれば生身の身体での格闘戦,できれば1対1の格闘戦なのです.それが騎士道精神などでエレガントに装飾されて描かれています. 細かいところは作品を見てもらうとして,これはしつこいくらい強調されており. 「閣下,いくらなんでもそれはエレガント過ぎです」とツッコミを入れたくなるほどです. 彼の格闘戦の美学は,ロボット同士での戦いであるモビルスーツ戦にも持ち込まれます. 普通,マシン兵器を使った「格闘戦」というと,例えば現代の戦闘機でいうところのドッグファイトのようなものですよね.機関銃やミサイルの打ち合いです. ところが,彼の格闘戦はロボット同士が剣を交える格闘戦,つまり生身の身体での格闘戦の延長なのです. それは彼自身が設計したロボット兵器にも反映されていて,彼が決戦用として作った「ガンダムエピオン」は,なんと火砲兵器が一切取り付けられていません.武装と言えるものは巨大なビームで出来た剣と,発熱するムチのような兵器だけです. これも「閣下,いくらなんでもそれは戦術上極めて不利です」と言うところですが,まぁそれくらいの描き方で表現したいほどにトレーズ・クシュリナーダという人物の思想・哲学が,この作品

人間は『身体』を通して理解する「Zガンダム編」

前回の, ■ 人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」 の続きです. これについてより基本的なことについては, ■ 井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」 を御覧ください. 今回は前回記事である「ファーストガンダム編」の続きとして,ガンダムシリーズとしての続編でもある「Zガンダム」を引き合いにしてみましょう. 今回の話では,前々回の井戸端スポーツ会議の方で取り上げた, 人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『 身体の感覚 』があり,それに対して人間は「思っている」 つまり, 「我思う.故に我あり」 という,デカルトが提唱したあの有名な命題では不十分であり, 「我がある.故に我思う」 というのが,人間を理解するためにはより適切であろう ということを思い出して貰う必要があります. このことについて,今回も機動戦士ガンダムシリーズ,その二作目である「Zガンダム」のストーリーにおける最終話から解釈してみよう,ということです. ネタバレにもなりますが,Zガンダムの最終話を思い出してみて(視聴してみて)ください. 主人公であるカミーユ・ビダンは,宿敵パプテマス・シロッコが駆るロボット兵器「ジ・オ」との決戦において,自身の駆る「人型ロボット」の「Zガンダム」ではなく,その変型形態である飛行機型での突進攻撃をしています. それによってジ・オとシロッコを倒して決着が着くわけですが,ここにおいてSFロボット作品として違和感があるのは, ロボット作品,それも人型ロボットのエンターテイメント作品なのに,なぜ最後のシーンが人型ロボットによる華々しい大立ち回りではなく,飛行機形態による突進なのか? というところではないでしょうか. SFロボット作品において人型のロボットが登場する理由の1つが,「 人間は人型のものを通すことで作品の解釈がしやすくなる.作者の意図が伝わりやすくなる 」ということだったと思いますが,これに照らしてみると『Zガンダム』のラストシーンはどう解釈できるのでしょうか? 実は,『Zガンダム』のラストシーンこそが「人間は身体を通して理解する」ということを,逆説的に示している例の1つであると私はみています.上記の『身体の感覚』というところにつなげて

人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」

前回の,井戸端スポーツ会議である ■ 人間は『身体』を通して理解する の続編です. 上記の記事では,「人間は身体を通して理解する」ということに対する現代文化・芸術の典型がSFロボットアニメだということを取り上げました. SFロボット作品においては,人型ロボットが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれているというものでした. こうした作品では,人型ロボットが主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか. それは,人間が「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなるということであり,SFロボット作品であればつまり,人型ロボットを「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすい,ということでした. アニメ 『機動戦士ガンダム』 シリーズにもそれが現れているという話をしていましたが,今回はこれについて,もう少し具体的に解釈をしてみようというものです. 機動戦士ガンダム・シリーズの第一作目,ファーストガンダムと呼ばれる作品の最終話では,「人間は身体を通して理解する」ということについて非常に興味深い展開があります. ネタバレも含めて解説すると,このファーストガンダムガンダムの最終話では,主人公のアムロ・レイと宿敵シャア・アズナブルは, SFロボット戦争作品であるのにロボット同士での決戦では決着がつかず ,なんと最後はコクピットを降りて生身の格闘戦(フェンシング)を始めます. そのフェンシングで決闘をするときの二人のセリフが意味深長です. シャア「分かるか?ここに誘い込んだわけを」 アムロ「ニュータイプでも体を使うことは,普通の人と同じだと思ったからだ」 シャア「そう,体を使う技は,ニュータイプと言えど訓練をしなければな」 「ニュータイプ」というのは,ロボット兵器であるガンダム等のモビルスーツを操る技術が極めて高い能力者のことです.つまり,「ニュータイプ」というのはパイロットである「自分の意思」をロボットで的確に表現できる人と捉えることができます. この「ニュータイプ」というのは,その他のガンダムシリーズにおいても重要な役回りをするキャラクターなのですが,その意味するところというのは「ロボットに命を吹き込むことができる者」

井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

「大学に『体育』の授業があるのはなぜか?」 という話が出ることがあるんですけど・・, 大学に限らず,そもそも学校教育に『体育』がなぜ存在するのか?存在する価値はあるのか?という点を 考えない 教育者はけっこう多いものです. そんな話を直接的に愚痴っても,ブログを読んでくださっている皆さんは面白くないと思いますので,別の観点から話をしてみます. 人間は身体を媒介して物事を認識する という,ちょっと仰々しいお話です. 難しそうなことに思えますが,逆に言えば「人間は自分の身体を通したものしか認識できない」ということです. でも実はこれ,デカルトが思惟の末に見つけ出した,あの「我思う.故に我あり」(心身二元論)に対する反論でもあり,けっこう重要な人間論でもあります. と同時に,スポーツ科学や体育学を考える上でも重要なテーマでもあるのです. ここらへんのことについては, アントニオ・ダマシオ 著『デカルトの誤り』 が詳しいので,そちらをどうぞ. 一方の心身二元論の立場をSFタッチで考えてもらうには, 士郎正宗 作『攻殻機動隊』 とか,そのアニメ映画である 押井守 監督『攻殻機動隊』 を見てもらえればと思います.あと,ハリウッド映画の『 マトリックス 』も,そういうことを下敷き的なテーマとして描かれています. 「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」 というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない. どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです. ダマシオ氏が述べるところの,人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『 身体の感覚 』があり,それに対して人間は「思っている」のです. さらに言うと,この『身体の感覚』というのは,自分の身体ならではの感覚として認識されているのですから,『自分の身体ならではの感覚』として形成されていきます. 例えば, 「私の足に何かが触れた」とすれば,それは私の「足」という空間的位置と形状のものに「何か」が触れたことを意味します. つまり,私が「足に何かが触れた」と感じることというのは,私という身体固有の感覚として何かを感じている,ということを意味するわけです. もっと言うと,人間の心とは,このような人間の形をし

井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」

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もっとブログ更新頻度を高めようということで,パソコンの中に入っている資料・データから面白そうなネタを出していくことにしました. 今回は,「スポーツをすると頭が良くなる」という,たまに耳にする話がどれだけ科学的根拠があるのか,その研究報告をご紹介します. 図1 中学時代の運動部入部率と進学した高校入学偏差値 有名なのが,平成19年度の文部科学省学校基本調査で上がってきたデータです(図1). 中学校の運動部入部率(縦軸)と進学した高校入学偏差値(横軸)に正の相関があるというものです. もちろん例外はあるものの,文部科学省のようなお固い(最近はチャラいけど)省庁が,このような事を言い出しました. 「でもこれって,その入部率の話でしょ.環境や個人の議論になってきたら違ってくるのでは?」 というのが真っ当な疑問だと思います. 運動やスポーツによって学習能力が高まるという点を研究したものは結構あります. その中からいくつか引っぱってみました. まず, 「体力が高い子供は勉強ができるか?」 という点です. その調査結果が図2です.体力が高い・低い子供たちに同じ学習課題を課して,そのテスト結果を比較しています. 図2 やはり高体力群の方が成績が良いとのこと.興味深いのは,毎回の勉強においてテスト課題を課さずに行った場合に差が現れやすいという点です. つまり,模擬テストのような勉強方式ではなく, 普段の何気ない学習のようなところにおいて体力の有る無しによる影響が出てきやすいかもしれない わけです. 次は「 スポーツや運動をしてから勉強をすると良い 」という可能性を示すものです. 以下の図3は,20分間の歩行運動後15分ぐらいしてから勉強をさせた群と,運動せずに勉強をした群のテスト結果を比較したものです. 図3 20分間の歩行運動でも違いが出てきます.その違いは特に「読解力」に現れてくるようですね. この研究では認知機能の調査も行われておりまして,そこでも運動の効果がみられています. Modified Flanker Taskというテストを行った結果が,以下の図4. ※フランカータスクって何ですか?という場合はこちら→ http://en.wikipedia.org/wiki/Eriksen_flanker_ta

井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」

今回の記事は, ■ 井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」 とか, ■ 人間はスポーツする存在である を合わせて読んでもらえると良いかと思います. 今回もスポーツの視点で政治現象を解釈してみたいと思います. 先般,衆議院が解散し,街で選挙カーが走り回る日々が始まりました. こうなるとニュースやブログ等でも取り上げられるようになるのが, 「◯◯党は議席をどれだけとれるのか?」 という話です. “より厳密なルール下でスコア獲得を競う” それだけでも近代スポーツらしさ満載の話ではありますが,ここで取り上げたいのは,そんなスコア獲得競争 “ そのもの ” を外から興味深く眺める(言うなれば,楽しむ)ことが,あたかも 価値の高い興味 のように扱われていることです. 端的に言えば,「 票を読む 」ということですけど. これって,ふと我に返ってみますと,こう言ってはなんですけど非常に卑しく醜い思考です. 「票を読む」,・・これを選挙に出る人達が言うならまだわかります. 票を読めなければ選挙に出ることによるコストパフォーマンス(これも卑しく醜いけど)が分からないということになりますから,現実的なところでは仕方がないということもあるのでしょう. ですが, 投票する側・報道する側が「票を読めた」「票を読んだ」として何があるのでしょうか? 票を読むことによって投票対象が変わったり,報道姿勢が変わったりするのでしょうか? こういうのは,まさしく選挙という政治をスポーツ観戦と同じものとして捉えているとしか思えません. 近代政治は近代スポーツの影響を受けているというのが私の持論ですから,これこそ政治のスポーツ化が如実に現れている典型だと思われます. スポーツという活動の本質的姿の一つに,真善美を徹底的に追求する姿勢があります . ※これについての詳細は■ 井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」 を御覧ください. 人々がスポーツや優れたスポーツ選手に向けている眼差しとは,こうした「何か(真善美)」を損得勘定なしに徹底的に追求するという姿勢ではないかと思うのです. 近代スポーツでもこの姿勢が残ってはいるのですが,これに加えてスポーツはより大衆化,エンターテイメント化してきていると考

井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」

これまでにも, 「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」 という視点を取り上げてきましたが, ■ 人間はスポーツする存在である ■ 井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」 今回はこの点について,もう少し具体的に井戸端会議をしてみたいと思います. 政治を見る(観戦する)目は,スポーツのそれと親和性が高いのではないか?という点です. 「そもそも,“政治を観戦する” という評し方に違和感がある」 というところかもしれません. なぜこんな表現をするかというと,今回の問題提起が, 近現代のスポーツが「観戦」されるものとして高度に発達してきたことと,現代の政治の捉えられ方が無縁ではないのではないか? というお話しだからです. かつてのスポーツ(前近代スポーツ)の多くは,自分達自身がその競技や活動に取り組むものであり,参加しないにしてもその結果は自身の有り様とシンクロするものでした. ここら辺の細かいことは■ 人間はスポーツする存在である を読んでもらうとして,現代においてスポーツと呼ばれるものの多くが,かつては「祭り」とか「儀式」の要素を多分に含むものだったことと無関係ではないと考えられます. 「祭り」や「儀式」としてのスポーツは,貴族であれ庶民であれ,自分自身にとって重要な価値を持っていたわけです. そのようなスポーツは,現代においては「観戦」という形で消費される存在になっているのです.当たり前のことですけど,こうしたスポーツを観戦と言う形で消費するのは限られた人々ではなく,多くの一般大衆です. 「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」 という立場からしますと,スポーツを観戦という形で消費する人々の有り様が,政治を見つめる一般大衆の有り様と非常にシンクロしたものに見えるのです. 例えば,どこかのスポーツチーム(野球でもサッカーでもいい)が,リーグなどで無様な結果を残したとします. そのチームのファンはどのような態度をとるでしょうか. きっと, 「監督を変えろ!選手の年俸も下げてしまえ!そもそもオーナーの方針が気に入らない!」 などと言い出します. 感情剥き出しで,おおよそ上品とは言えない物言いですが,彼らファンの気持ちも分からないではないですし.いや,む

続・女性の成功

ブログ更新頻度が下がっております.時間がとれないんです. なので,以前書いたことがある記事に付け足すものはないかと思案してみました. ということで,今回は「女性の社会進出」に関する記事を掘り起こしてみることにします. 4年前(2010年)に, ■ 女性の成功 という記事で書いていた「女性の社会進出」というテーマについて,先般,評論家の佐藤健志氏が『女性閣僚と風俗嬢の間』と題して考察していました.これが非常に面白いんです. 有料コンテンツですが,よかったらこちら↓をどうぞ. ■ちょくマガ(角川): http://chokumaga.com/magazine/free/152/8/ 佐藤氏の評論に注目している一人ですので,私は有料であっても読んでみました(安いし). 私が書いた上記の2010年の記事というのは,晩酌しながら酔っ払って書いていた覚えがあり,次の日になったら「ありゃちょっと言い過ぎだったかな」と反省した記憶もあります. 2010年と言えば大学で教鞭をとり始めた時期でもあり,「じゃあお前,社会進出を目指して学費を払っている女子大生にそんなこと言えるのか」って感じでもありますしね. ここ最近はクオータ制やらなんやらで女性の社会進出がにわかに話題となってきたところでもあり,私としても「なんだかなぁ」と感じていたところへ佐藤氏の評論はストンとハマった思いがします. 女性の社会進出を推し進めようとするところに垣間見える不自然さと無理矢理感を論じたのが以前の私のブログ記事です. どういう事かまとめて言いますと, 昨今喧しい「女性の成功・社会進出」とはつまり, 女性もこれからは男社会,男の論理,すなわち経済的成功,社会的権力や威信を獲得することによって評価されることを求めること に他ならないということを意味しており・・,いやでもチョット待ってくれ, あれだけ「男社会」や「男の論理」を批判していたのに,その男性中心主義の上に乗っかった成功を喜ぶんですか? それって女性の価値を高めていることになっているのですか?  ってことなのです. 佐藤氏はこれについて,そうした不自然で無理矢理な「女性が輝く未来」を求めた先には,とうてい「女性が輝いている」とは言いがたい状況を作り出す未来があるのではないかと論じます(もう既にそうなっている).

井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」

大学の後期授業が始まりましたし,科学研究費補助金の申請書類を作成したりで忙しく,あんまりブログの方に頭が回っておりませんでした. 未だに回っていないのですけど,10月の記事をもう少し書いとかないとと思い,スポーツネタを一つ. さっき,こんな記事を読みました. ■危機に瀕する日本の選手育成 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141021-00000007-goal-socc 将来のサッカーA代表候補である,ジュニア世代の日本代表がアジア大会やワールドカップ予選で敗退したということでして. 日本サッカーのジュニア世代の育成が危機に瀕しているのだそうです. どれどれ,なにがどうなっているから危機に瀕しているのかなと思って読んでみますと, >日本の若手は球際や寄せの激しさ、ボールへの執着心、勝利への強い意欲などで相手より見劣りしている部分があったと言わざるを得ない。(上記記事より) という点なのだそうです. なんだか,いきり立った内容の記事ですね. 一応,私もそれなりに競技スポーツの専門家ですので,それなりの立場から言わせてもらうと,ジュニアだけでなくA代表の能力にしたって,一昔前(私たちが子供の頃)と比べたら雲泥の差があるだろうことは明らかです. 着実に日本代表はレベルアップしている と言って良いと思いますよ. 技術は良くても最近の子供は体力が落ちている? いえいえ. 残念ながらどこのデータなのかは言えないのですが,ユース代表選手の体力測定結果を見させてもらったところ,彼らは成人アスリート顔負けの体力レベルにあります. これにもう少し付け加えれば, 他のアジアの国もジュニア育成に力を入れているからじゃないですか?  というところですかね. 以前は,周りが50点だった時に自分達が60点で優位性があった. 最近は自分達は70点なんだけど,周りが80点をとっている. そんなところではないかと. それでも,どうやら危機に瀕しているのだそうです. 私としましては,そこまで悲観的にならなくてもいいじゃないか.子供たちをもっとじっくり見守りましょうよ.死ぬわけじゃないし.というところです. 上手くなれば球際の強さやボールへの執着心も上がりますよ.勝利への意欲なんて,もとよりあるでしょ. こ

続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権

前回, ■ 細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権 の続きです. 上記の記事では,今どきの大学ホームページで時折見かけるイタい「最近のニュース」とか「トピック」欄のタイトルをご紹介しました. 「分かる人だけが楽しんでもらえれば・・」ということで閲覧数には期待していなかったのですけど,予想外にもたくさんのアクセスがありました. なので,その続きを企んだわけです. 今回はと言うと, 今後,近い将来目にすることになるであろう大学HP「最近のニュース」欄のシュールな姿 に重点をおいて「将来」を予想するものであります. きっと将来このような状態が生まれてしまうであろう原因としては,HP担当者の目的不明瞭な姿勢と立場,そして昨今のFacebookおよびTwitter文化によるものだと推察しています. 「とにかく何でもいいから「最近のニュース」欄を更新したい」 「こういうものは頻繁に更新することが大事なんだ」 という,よくよく考えれば大学HPとしてはキチ◯イ以外の何物でもない事に全力をかけなければならなくなるHP担当者の徒労を今のうちから楽しもうというものです. ここでの見どころは,そうした「 とにかく更新!」 を至上命題にいつも業務をしているが故に, 思わず以下の様なものまで掲載しちゃった・・. でもアットホーム感もあって良いっすよね,多分・・. という, 疲労と責任 ,それに機械的な業務処理への妥協といったものが十二分に予想できちゃうことにあります. そこにシュールな笑いがあるのです. では, 続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権 をどうぞ 1)本学職員が大阪プロレスでプロデビュー! 2)台風の中,バスで学生を送り届けました! 3)事務の◯◯先生,永年勤続で表彰! 4)今日の寮食のメニューは朝◯◯,昼◯◯,晩◯◯です! 5)本学教員の◯◯先生が還暦を迎えました! 6)新年を迎えるにあたり,朝礼で理事長からのご挨拶がありました 7)みんなで体育館を掃除しました! 8)授業でダグラスバッグを体験しました 9)バスケットボール部の◯◯さんが青年海外協力隊に参加しています! 10)学内で無線LA

細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権

今日は,かなり需要の小さいニッチな記事です. 大学ホームページの「最近のニュース」において,なさそうで実際のところ類似したものが多々見受けられる「ちょっとイタい」ものをリスト化してみました. 今後はこういった「最新のニュース」をアップする大学が増える可能性もありますので,そういう見方をしてもらっても良いかもしれません. なお,大学ホームページ全体のことであれば, ■ こんなホームページの大学は危ない をご覧ください. ちなみに,今回は「危ない大学」を炙り出すためのものではありません. 単に「シュール」であることを楽しもうというものです. 我々としては,大学HPのこういう「最近のニュース」を見るたびに,何とも言えない面白さが込み上げてくるのであります. この面白さが全くわからない人もいるでしょう.いえ,圧倒的多数の方々が「へ?だから何?何が面白いの?」ってなるものです. でも,これらを見るたび笑いを堪え切れない人もまたいることは事実であります. それって大学HPで出すことなの? 誰に需要があるの? どうせ「『最近のニュース』の更新頻度を上げろ」って言われたから,無理やりネタを放り込んでみたんじゃないの? 自己アピールのためとは言え,いくらなんでもやっつけ過ぎだろそれ. というシュールさを醸しています. つまり広い意味において, 「どのような意図があってその記事を書いたのか」を推測したり追体験するところにその面白さがあるのです. 以下に示しました,大学HPにおける「最近のニュース」のタイトルで笑えた人は,きっと一緒に良いお酒が飲めると思います. 逆に,「何がどう面白いのか全く分からない」という人は,頭の中がまだ「民間感覚」だったり「Facebook的」なのだと思います(批判してるわけじゃないですよ!). では, 『細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権』 1)学内のトイレがすべてウォシュレットになりました ※写真付きだとなお面白い 2)耐震化工事業者に関する入札情報を更新しました 3)特大バスが納入されました ※内装の写真があればなお面白い 4)バスを本学のカラーに塗り替えました ※撮影角度が異なる写真が2枚以上だとなお面白い 5)公用車にプリウ

昨今の大学用語辞典

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最近, 適菜収 著『日本をダメにしたB層用語辞典』 というのを読んでみました. 何から何まで首肯できるということではありませんが,なかなか面白いものでしたよ. この本を読んだだけでは,適菜氏が言いたいことは伝わりにくいかもしれません.その他の著書も合わせて読んでみることをオススメします. 文章をそのまま受け取ると,「茶化してフザケてる」と思われてしまうかもしれないので. そんなわけで,私もこれをマネて「昨今の大学用語」に関する辞典を作ってみました. 全部書ききれた感は無いので,また続編を出すかもしれないです. 以下の記事だけ読んでも私が言いたいことは伝わりにくいかもしれません.最下段に示した記事も合わせて読むことをオススメします. ※謝辞 この辞書を作成するにあたって,何名かの大学教員の協力を得ました.記して感謝の意を表します.     『昨今の大学用語辞典』 【ICT】 (1)授業の質を上げることができるツールだと勘違いされているもの.(2)糖質制限ダイエットや風船ダイエット等に取り組む人と類似した議論が展開されているもの. 【アクティブラーニング】 (1)学生の思慮または自己言及の機会を奪うための手段.(2)何かが積極的になったように見える消極的な学習. 【危ない大学】 学生を「顧客」,教職員を「社員」と見做す大学.経営難の大学とは同義ではないことに注意. 【アメリカからの圧力】 言い訳.その実,できればいっそアメリカ化したいという屈折した願望があったりする. 【一流大学】 何がどう一流なのか示されることはないが,なんとなく偏差値と入試倍率で片付けられる概念. 【一本釣り】 公募にかけずにコネと人脈を通じて採用すること.大学側としては最も安全で能率的な教員採用方法であるが,大局が見れない者からは妬みを買う. 【イノベーション】 (1)後になってみたらプラマイゼロ,たんなるバカ騒ぎ・から騒ぎだったという評価がつくだろう事について,現在進行時においてその事を高評価する言葉.(2)「フランス革命」と同様,いつからか無条件に「良いことだ」と勘違いされた言葉.(3)どこかで誰かが言ってたから,つられてとりあえず言ってみた言葉.意味もわからず多用される. 【英語教育】 (1)各大学・各教員

危ない大学に奉職してしまったとき「授業評価アンケート対策」

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ついにこれを取り上げる日が来ました. 学生からの授業評価アンケートに悩んでいる人は参考にしてみてください. 特に危ない大学にお勤めの方々におきましては,お客様である学生からの評判が良くないとペナルティが設けられている場合もありますよね. 繰り返しアンケート結果が芳しくなかったりすると,つまりイエローカードが累積すると,「研修」とか管理職からの「叱責」を受けることになります. それが任期付教員であれば,契約更新をしてくれない大学もあるでしょう. 「えっ.それって大学の授業の質を高めることにつながるからいいじゃん」 という人もいましょうが,残念ながらそうはなりません. 詳しくは■ 反・大学改革論2(学生からの評価アンケート) を読んでもらえればと思いますが,今回はタイトルの通り, 授業評価アンケートが教員の評価につながる危ない大学に奉職している先生方 に向けた記事です. どうしていいか分からず,困り果てて思わずググってこの記事を見つけた人もいるのでしょうか. ※本記事は,要領のいい先生にとっては「そんなの誰でも知ってるよ!」という内容ですが,まぁ,要領が悪くて困り果てている先生向けということで.     以下を読んでいただく前に私から一言. まず, 「魅力ある満足度の高い授業」という授業を目指すことは教員として当然のこと です.私も頑張ってこれを目指しています. ところが,この「魅力ある満足度の高い授業」というのは,そうした授業を展開する上での哲学・思想がズレていると,「今そこで受講している学生」が,「今そこで満足する授業」になってしまいやすいのです. (ま,以下ではその方略を紹介するわけですが・・・) 今そのときは「つまらないなぁ」とか「納得できない」と思っていても,時間が経つことで「あっ,そうか.あれってこういうことか」となることは多いものです. さらには,その時には内容を受け入れることすら出来きず,聞き入れることなく完全に内容を忘れてしまう授業だってあるでしょう. でもそれは,学生の側にその授業から発せられる内容を受け取るための準備(レディネス)が不十分であったという場合も多いと思います.私自身,今思えばそうだったと自覚できるものもたくさんあります. でも,そうした授業が「本当にダメな授業」と一緒くたにされて「魅