2014年12月28日日曜日

危ない大学におけるバスの想ひ出

過去記事でも何度か登場したことのある,(危ない)大学経営の切り札である「バス」.
危ない大学においては,この「バス」は重要なキーワードと考えられています.

今回はこの「バス」について,“その経験” がある大学教員のインタビューをお届けしたいと思います.

「大学(教員)とバス」について,過去記事をご覧になりたい方は以下のリンク先から振り返ることができます.
「教職員用」危ない大学とはこういうところだ
細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権
続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権

では,危ない大学の教員にとって「バス」がどのようなものなのか,その生々しい実態をどうぞ.

私:今回のインタビュアー
X:大学教員・X氏

私:今日はインタビューにお応え頂きありがとうございます.X先生は現在の勤務校では「バス」の業務をされていないということですが,前任校は「バス」の業務があったそうですね.早速ですが,そのときのお話しを聞かせてください.

X:バスに必要な免許にはいわゆる大型免許と中型免許というのがあります.大型免許はいわゆる路線バスサイズのものをさします.このサイズのバスを運転するには大型免許が必要なんです.中型免許は主にマイクロバス等(29人以下だったかな?)が運転可能な免許です.これは一昔前の普通免許で運転できるんですけどね.
大学によっては教員採用にあたって,もしくは任期更新のためにこの「大型免許の取得」が条件(脅迫めいたもの)になるんです.博士の学位よりも優先されます.

私:危ない大学における教員は,博士の学位よりも大型免許の方が重要ということですか?

X:そうです.今となっては興味深い “想ひ出” ですが,よくよく考えてみると背筋が凍る話ですね.ですが,経営難の大学としては大学教員らしい人材が採れれば,あとはバスの運転をさせてバス運用費用を浮かせる戦術に出ることが多いと思います.
ちなみに,免許を取るのは自費ですよ.

私:やっぱりバスの運用はお金がかかりますからね.教員にやらせれば一石二鳥ということですね.日本のテレビ局が不況になってから,女子アナをタレント扱いし始めたことと一緒ですかね.

X:まさにそういうことだと思いますよ.特に長距離運転なんかはツラい想ひ出がたくさんあります.

私:そうは言っても,バスの運用・運転を担当していて良かったことはありましたか?

X:普通車でも安全に気を使うようになる.というところでしょうか.
とにかくデカイので,こすったりしないように気をつけないと行けません.でも気をつける作業をコツコツとやっていくと,ある種の合理的な考え方というか感覚を身につけることができます.
普通車の運転では狭い道や離合では何となくの感覚で運転を行うことが多いと思いますが,バスの場合は,ここを無事に通過するにはこのくらいゆっくりとしたスピートで,まずこのハンドルさばきを行わなければならないという具合になります.
これは逆に言うと,ここの部分が通れば絶対にその後もうまく運転できるといいう感覚が養えるのです.空間的な取捨選択と,ゆっくりとした時間の確保ができるということですね.
ボディーがでかい分,視野が広くとれることもこの術を身につけることができる要因の1つでしょう.具体的には左折の場合だと左後輪が抜ければ大丈夫,とか,右折の場合だと左前と右後輪に気をつけるとか.ケースによって異なりますがそんな感じです.
ちなみに,この内輪差ですけど,バスは内輪差がでかいので,ロータリーのようなところを転回する時が典型なのですが,運転席からだと横にスライドしている感覚になります.これが何とも不思議な感覚でしたね.かなり個人的ですけど.

私:なるほど,かなり実際に役立つものですね.それ以外には?

X:普通車にはない「一手間」に優越感を感じるようになります.
大型バスは普通車と違って,まず自動扉を開けなければなりません.その開け方なのですが,たいていはバンパーの奥にレバーがついておりまして,そこを操作すると開くようになっています.
空気圧で作動しますので,何かの間違いで空気圧が低下しているとしっかりした開閉ができないことがあるので注意です.エンジンスタートも単純にキーを差し込んでひねるというわけではなく,その前に諸々のスイッチを入れないとスタートしないのです.
このような普通車よりも一手間かかる操作性は面倒な点もありますが,なぜか「オレは知っているぜ」という感覚にもなるのです.不思議ですね.
ちなみにマイクロバスで乗客用扉をあける場合,運転席の右上にあるバーを押さないと開閉できません.さらに言うと,マイクロバスの乗客扉の下のロックを外せば,運転席の右上のバーが無効となり,普通車の開け閉めと同じような状態になります.
これが原因で数年前に中国道だったか山陽道だったかで小学生が道路上に放り出されたという事故が起こりましたね.気をつけたいものです.

私:専門外のところも専門的に知っている,というところに優越感があるのですね.世間からすれば,まさか大学教員がバスのことを詳しく知ってはいないだろう,と思われているでしょうからね.だからこそ,そこをアピールしたくなってしまうのでしょう.例えば,最近の大学教員の中には経営スキルとか事務処理能力をシタリ顔でアピールする人がいますが,あのイタさ加減と似ているんですかね.

X:今となっては私もそう思います.大学の価値や意義とは全くベクトルが違いますよね.
それに,こういう無意味な専門性に優越感を持つようになると,それが大学ホームページとかパンフレットにも現れるようになります.
ズバリ,新車納入とか外装・カラー変更なんかを「最近のニュース」みたいなコーナーでアピールしちゃうようになるんですよ.
でも,あの気持ちは分からなくはないですね.本人たちは,至って身近で重要,且つ,自慢話であることに違いはないんです.

私:バスの運転業務をしていて悪かった点などはありますか?

X:悪い点ではないですが,マイクロと違って大型の場合は非常に疲れます.大型バスは普通車やマイクロとは運転後の疲労感がまるで違うんです.特に精神的な疲労ですかね.それくらいエンジンが動いている間は注意を張り巡らせているということなのでしょう.

私:他には?

X:世間の認識とは逆に,学生からは「運転できて当然」と思われる,というところです.
たいてい,強化クラブの教員(のみならず福祉系の先生も若干持っていましたが)は,皆バスを運転できるし,学生もそういう認識ですので学生というのは全く違和感を持っていません.当然そういうものだと思っています.
これは高校時代の監督さんも同様に運転していたというケースが多いからだと思われますが,こちらとしては何ともやるせない.
それに,こちらとしても「実はこれは異常なのだ」とも叫べないのです.
あと,それに付随して学生たちも前述の「一手間」を割と知っていたりします.少なくとも強化クラブに所属する下級生は,だいたい扉の開け方を知っています.

私:「先生」なんだから,なんでも知っているんでしょ.みたいな雰囲気が学生間に漂うんですよね.そしてまた大学(組織)としても,こういう絶妙な雰囲気を利用して,「教員は学生のために,なんでもできなきゃダメだ」みたいな空気が流れ出しますよね.そしてまたさらなる非常識業務が増えていく,その繰り返し.

X:そうなってきたら,その大学は先が見えてきたと言って良いでしょう.
大学教員のことを「学者」や「研究者」ではなく,「センセー」だと見做しているということです.もはや「先生」ですらない.そういうことです.

私:バスの運転をしていて,危険な事などは無かったですか?

X:強風の日は橋の上で風に煽られます.あれは物凄くビビリます.特に瀬戸大橋と鳴門大橋がヤバい.

私:やっぱり普通車よりも車体が大きいからですか?

X:はい.ですけど,台風の中を運転して学生を送り届けたこともあるんですが,その時は逆になんとも言えない高揚感がありました.達成感とも違うんですよ.
なんというか・・,そうですねぇ.さっき言ったように,バスって車体が大きいでしょ.その車体の大きさが,ある種の力強さの象徴,父性的な自信というか,そんな感情を生み出すんです.「強風を物ともしない,学生たちを護る鋼の城」,その主が自分だ,という感じでしょうか.

私:では最後に,バスの運転で気をつけていたことなどはありますか?もしこれからバスの運転業務をすることになる大学教員にアドバイスなどがありましたらお願いします.

X:バスの性能にもよりますが,上り坂に注意したほうがいいでしょう.
パワーのないバスは高速道路の上り坂は途中で失速してしまいます.そうすると50キロくらいでのろのろと登らないと行けない羽目になるので,かなり前方から加速して一気に駆け上がります.これができるとかなり楽な運転ができますね.
あと,「初台交差点」です.新宿付近に初台という交差点があります.免許取りたての時に,左車線から合流して300メートル位の間に右折車線へ入らなければならないというタスクを成功させました.5車線またぎくらいやってやりましたが泣きそうでした.

私:業務上のアドバイスなどはありますか?

X:基本的なことですけど,バスの運用業務において事故やトラブルを起こした際の責任がどこにいくか,という点は非常に重要です.
教員にバスの運転をさせるような危ない大学ですから,何かあったら,おそらくは教員に責任をなすりつけてくるはずです.
どうすれば責任を軽くすることができるか,その比率を小さくするには,といった対策を常日頃から想定しておく必要はあるでしょう.そうじゃないと,どこまでも蹂躙されます.

私:X先生,今日はありがとうございました.



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2014年12月25日木曜日

センター試験の廃止について述べておく

センター試験が廃止になるという件について,先日ニュースになっていたので取り上げておこうと思います.

Yahooニュースはこちら.

文科省のHPではこんな感じ.

どうしてこんなにツボを外した提言ができるのだろうかと不思議でなりません.
でも,大人になって心穏やかな私としましては,いろんな人のいろんな妥協の産物なんだろうなと微笑ましく見ております.

が,そんな悠長なことを言ってられない身でもありますので,私の真面目な “保身” のためにも声を上げておきたいと思います.

正直言って,頭がどうかしてんじゃないかと疑うような提言です.
「却下」ですよ,こんなの「却下」.

まぁ「センター試験を廃止する」っていうのは良しとしましょう.
んで,代わって実施しようという「学力評価のための新たなテスト(仮称)」における「高等学校基礎学力テスト(仮称)」っていうのと,「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」ですが,これが結構問題です.

文章だけだと説明が面倒なので,文科省のHPから当該資料の【別添資料2】の画像を引っ張ってきました.それが以下のもの.
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/12/22/1354191_1.pdf
この手のニュースでも触れられていますが,ようするにこれまでの,
「センター試験,一発勝負」
から,
「総合的な評価,テスト」
という方向に舵切りされたということです.

ちなみに,この考え方ですけど私としては比較的賛同するところでもあります.
これまでの「知識・技能」の評価に偏重しているところを反省し,「思考力」「判断力」「表現力」も評価するようにしよう,ってことです.
答申の文章をそのまま引けば,
大学入学者選抜においては、現行の大学入試センター試験を廃止し、大学で学ぶための力のうち、特に「思考力・判断力・表現力」を中心に評価する新テスト「大学入 学希望者学力評価テスト(仮称)」を導入し、各大学の活用を推進する。
ってことですね.
うんうん,なかなか良いじゃないか.

・・が,問題はその評価方法です.
これがまた見事に “日本教育界らしい” 「大衆ウケ」するようなものなのです.
さすが「スーパーグローバル」,さすが「スーパー・サイエンス・ハイスクール」,さすが「生きる力」.

つまりですね,これ以外にも「主体性・多様性・協働性」ってのを追加して評価するんですって.
この点について言及された文章,および別添資料を以下に示します.
具体的な評価方法としては、下記2に示す「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」 の成績に加え、小論文、面接、集団討論、プレゼンテーション、調査書15、活動報告書、 大学入学希望理由書や学修計画書、資格・検定試験などの成績、各種大会等での活動や顕彰の記録、その他受検者のこれまでの努力を証明する資料などを活用することが考えられる。「確かな学力」として求められる力を的確に把握するためには、こうした多元的な評価尺度が必要である。各大学はその教育方針に照らし、どのような評価方法を組み合わせて選抜を行うかを、応募条件として求める「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」 の成績の具体的提示等を含め、アドミッション・ポリシーにおいて明確に示すことが求 められる。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2014/12/22/1354191_1.pdf
「いやいや,それは各大学における個別選抜だから,そこは各大学が自由にできるのでは?」
なんて思うかもしれませんが,(センター試験が代表的ですが)足並み揃えることについては自信のある日本教育界です.そういう「各大学の自由」になる可能性は低く,全国一律で「主体性・多様性・協働性」をテストし始める危険性の方が高いのです.

理由・根拠ですか?それもこの答申の中に隠れています.その文章を以下に引きますね.
高等学校教育については、生徒が、国家と社会の形成者となるための教養と行動規範を身に付けるとともに、自分の夢や目標を持って主体的に学ぶことのできる環境を整備する。そのために、高大接続改革と歩調を合わせて学習指導要領を抜本的に見直し、育成すべき資質・能力の観点からその構造、目標や内容を見直すとともに、課題の発見と解決に向けた主体的・協働的な学習・指導方法であるアクティブ・ラーニングへの飛躍的充実を図る。
高校ではそういうふうに教育しているんだ.だから大学はそれを評価してくれ.ってことになるのが日本教育界です.
これまでのセンター試験や各大学入試もそうなのですよ(高校の授業内容以上のことは試験問題には出せないのです).

だから,高校での評価方法を踏襲したものが大学入試での評価方法として採用されることになります.
十中八九,現実的なものとして「小論文」と「集団討論」が採用されるんじゃないでしょうか.
つまり,各大学が “自由に” 他大学と同じ評価方法を採用するだろう,ってことです.

だから頭を抱えているんです私は.
また面倒な大学入試にしやがって.って.

そりゃもちろん,外部の人達からすれば「それくらいの労力を大学も負うべきだろ」って言い出すかもしれませんが.
ここで私が言いたいのは,そんなにテスト方法をいじくったところで,その労力に見合った人物を発掘できるのか?ってことです.

できません.

元来,ありとあらゆる「テスト」っていうのは,そういうものだからです.
どれだけ緻密に複雑にしたところで,的確な人物だけを(しかも大量に)掬い取ることは不可能です.それができるんなら人類はこんなに苦労していません.

それに加えて,そもそも「表現力」だとか「主体性」「多様性」なんて曖昧なものを客観性高く定量化できようがありません.
これを「高い←→低い」という一方向的な評価でもって大学入試にしようって事自体,キ◯ガイじみた話じゃないでしょうか?
教育を舐めてませんか?大学というところを何だと思ってるんでしょうか?

長くなってしまいました.とりあえずこの記事としての結論を述べておきます.
大学入試については,これまでのセンター試験のノウハウがあります.これは非常に客観性の高い優れた試験方法です.これを引き継がない手はありません.
それに,国際学力調査でも採用されている「PISA」なんかでは,思考力とか判断力をテストするものがあります.これも比較的客観性の高いテストと言えるでしょうから,どうしても「思考力」とか「判断力」を評価したいっていうんなら,それを参考に作成しても良いかもしれませんね.

こうした試験問題を,各大学独自に入試問題として採用するわけです.
つまり,あの全国一律一斉で機械的なセンター試験はやめちゃう,ってことで.
今の段階においては,それくらいの改革で良いのではないでしょうか?
(決してセンターの業務が面倒だから,ってことではありません!)
このままだと,骨折り損のくたびれ儲けな大学入試改革になる気がしてならないのです.

答申にあるようなシステムになるくらいなら,今のセンター試験のままで十分です.

2014年12月23日火曜日

続々・STAP細胞研究の件

例のSTAP細胞研究の調査が終わったようです.
これまでにも,
STAP細胞研究の件について
続・STAP細胞研究の件について
ということで感想を述べてきたところですので,改めてここに書いておくことにします.

ここにきて,ようやく研究チームを堂々と非難することができます.
※実際のところ,まだ完全な事態把握ができているわけではないですけど.

「やっぱり結局,あいつはウソをついていたんじゃないか!」
と言いたい人たちもいるでしょうが,こういうのは「科学的な批判」ではありません.
とっても情緒的で微笑ましい批判・反応です.「そうだね,君の予想,当たったねぇ(頭ポンポン)」てしてあげたいとこです.

信じる信じないとか,陰謀があるんじゃないかとか,不道徳だ,あいつムカつく,みたいな話で盛り上がっていた日々が懐かしいですね.
「やっぱり結局,多くの一般人ってウソに惑わされるんだなぁ」
というのが私の言いたいことです.これも科学的な批判じゃないですけどね.

世間が騒ごうがどうしようが,「STAP細胞研究」に関する論文というのは科学的に葬られているはずの研究と論文だったのです.
それをただバカ騒ぎしただけのことです.
で,こんなにも騒いだ理由は,研究リーダーのキャラクターとメディアに祭り上げられた状況によるものということでした.

他の研究(本件のような不正・捏造)では騒いでいないのですから,つまり「よく事情が分からない人たちにも明確に叩ける材料が揃っていて,しかもなんせ面白かった」というだけの話です.
ペナントレースの予想とか選手の評価みたいな居酒屋談義が,科学界を舞台に行われた,というだけの話ですね.
科学者のひとりとしては,特に興味深いことはありません.

しいて興味深かったこととを挙げるとすれば,過去記事でも繰り返しているように,なんぼ言うても “こんなにもいきり立って騒いだ世間の人々” の方です.
なんだか,発狂しながらコンクリの壁に頭を連打して血まみれになっている集団を見ているようで,ある意味 “興味深かった” です.ドン引きしたというのが素直な感想です.
こういうのって,学校のいじめ問題で騒いだ人たちと似ています.
参考記事■大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています

そう言えば,iPS細胞研究で有名な山中先生がこんな事を言っています.
STAP問題 山中教授「生データ保存の大切さ学んだ」(←Yahooニュース)

山中先生には悪いんですけど,これって別にノーベル賞研究者ならではの発言ってわけじゃなく,つまり特段に重要な提言じゃなくて,普通の研究者教育を受けてきた人なら(実験調査系の授業を受けた学生なら)誰しもが知っていることです.
(山中先生も高尚で特殊なことを言いたいつもりはないはずで,普通のことを普通に答えているのでしょうけど)

科学という活動もある種の「スポーツ」ですから(しかも,その競争を煽っているふしもありますし),こんな競争が激化すれば当然,どこかの誰かが不正やファール,ドーピングをやりだすでしょうね.
矩(ルール)を越えて成果を得ようとする人が現れる.そんなの当たり前です.
その参考記事としては■人間はスポーツする存在であるをどうぞ.
科学も,そういう目で見ておかなければなりません.

科学とスポーツは同様に,参加者の道徳性や倫理,互いの示し合わせで行われているものであって,その中において優れた成果を得ようとする活動です.決して不正やドーピングを容認しているわけではありません.
もし不正をしたことが明らかになれば,粛々と追放処分になるのです.

科学とスポーツが同じ倫理観や価値判断で組織・運営されていることが分かるかと思います.
(それだけに,最近の科学は近代スポーツ化してきていると考えられなくもありませんが)

だからこそ,やっぱり結論としては特に興味深い事件ではなかったんです.今回も科学の手順と判断がきちんと機能したからです.
金メダルを獲った選手が,あとになってドーピング検査に引っかかった.それと似たような話です.

私としては,スピード違反で捕まるドライバーを見るように「ああ,あいつイカれよったなぁ」という目で見てはおります.こういう目で見ている事自体,科学が近代スポーツ化してきているとも言えるでしょうけど.

あっ,でも一つ気になるのは本件における理化学研究所(りけん)の対応の仕方です.こういうのに慣れていなかったからかもしれませんが,あまりにも不手際が多過ぎやしませんか.
陰謀論めいた話(そこまで大げさじゃないけど)ですが,理研って,やっぱり何か隠していると思いますよ.もしくは,他にも怪しい奴がいるとか(実際いたし).

洗いざらい全部開示するわけないだろ,ってのが大人の見方かもしれませんけど,ちょっとね・・.今回のSTAP細胞研究について,他にも “関係者” がいるんじゃないかと・・・.
ま,これはよくあるトカゲのしっぽ切りを,“どこで切るか” っていう組織の話ですから,これ以上は触れません.

いやあ・・,でもねぇ.
こういったしょーもない話で狂ったように騒ぎ出す・・,しかも「正義」とか「道徳」「倫理」「権力」「威信」といった観点から猛烈に騒ぎ立てる人が多い社会の性分をなんとかできないものかと考えさせられます.

あぁ,でもそれが大学教育をやっている我々の使命なのかな・・,という感じです.

じゃあその「大学の使命」とは何か?っていう人は,こちらをどうぞ.
大学について2

2014年12月20日土曜日

井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

なぜ障害者スポーツへの関心が低いのでしょうか?
この問いに対し,今回も「人間は『身体』を通して理解する」という観点から考えてみたいと思います.
過去記事は,■井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」です.

「日本人は障害者スポーツへの関心が低い」
などと自虐的に言われることもありますが,実のところ諸外国においてもこれは変わりありません.

以前,NHKの調査で以下のようなものがありました.太字のとこだけ読んでもらうだけでもOKかと思います.
『日本での障害者スポーツの関心の低さ明らかに』2014年11月25日 NHK
日本で障害者スポーツを観戦したことがある人は海外に比べて少なく、6年後の東京パラリンピックを観戦したいと考えている人もオリンピックの半分にとどまることが「日本財団」の調査で分かりました。
公益財団法人「日本財団」は、ことし9月から先月にかけて日本をはじめドイツやアメリカなど6か国で、障害者スポーツへの関心についてインターネットを通じてアンケート調査を行い、4200人余りから回答がありました。
このうち、6年後の東京パラリンピックを会場で観戦したいか日本で尋ねたところ、観戦したいと答えた人は15.4%で、30.2%が観戦したいと答えたオリンピックのおよそ半分にとどまりました。
また、これまでに障害者スポーツを観戦したことがあるか尋ねたところ、ドイツは18.9%、アメリカは17.9%、オーストラリアは13.9%、韓国は12.6%、フランスは10.8%と、海外の5か国ではいずれも10%を超えたのに対し、日本は4.7%と最も低く、関心の低さが浮き彫りになりました。
いやチョット待ってくれ,と言いたいところです.(調査方法の妥当性はさておき)まず,これで明らかになったのは「障害者スポーツへの関心の低さは世界共通である」ということでしょう.
「障害者スポーツ」という大枠でみても,諸外国の8〜9割の人が障害者スポーツを見ていないわけです.
障害者スポーツへの取り組みが活発な国々ですらこの状態です(ちなみに日本は極めて活発な国の側にあります).他の国での関心も図り知れるものですね.

障害者スポーツの “世界的な” 関心の低さを示すものとして典型なのが,障害者スポーツのオリンピックである「パラリンピック」への関心度です.
最近では,冬季パラリンピック・ソチ大会がありましたが,やはりオリンピックと比べて格段の差があります.現地を見てきた人の話では,そりゃもう閑散とした会場だったようです.

ところで,日本の障害者スポーツは非常に進んでおり,世界的にも恵まれた環境にあるのが現状です.
障害者スポーツを取り巻く予算元やシステムは複雑なので,各国の「障害者スポーツの優遇度」を国際比較することは難しいのですが,私もかつて障害者スポーツの場に身を置いていた者として,そして,現在その身を置いている方々から聞くところからすれば,日本は非常に恵まれているというのが実感です.
(それは国際大会やパラリンピックでの日本選手勢の活躍にも現れています.やっぱり支援金が物を言うのがスポーツの成績だったりしますんで・・)

それでもなお日の目を見ることの少ない障害者スポーツに対し,その普及と発展を目指す方々は「支援体制」ではなく,「周囲の関心」を今後の課題として扱いだしたのが実情ではないでしょうか.
私はこの点について,「なぜ障害者スポーツへの関心は低いのだろうか?」という疑問から先に考えてみようということです.
それを先に考えてみることで,障害者スポーツのより良い普及と発展が望めるのではないか,そう思うからです.

長々と綴るのもなんですから,先に結論からいきましょう.障害者スポーツへの関心が低い理由,それは,
健常者の多くが障害者スポーツに「身体性」を見出すことが困難だからです
人間は身体を通して理解する,というお話を以前の記事で,そしてロボットアニメ(ガンダム)を使って前回まで説明してきたところですが,それは障害者スポーツにも同じことが言えるのではないか?ということなのです.
つまり,SF作品のマシンですら人型で表現したくなるほどなんですから,身体を用いた表現・競技,すなわち「スポーツ」においては尚の事,多数派である「普通の身体」に魅力を感じ,関心は向くだろう.そういうことです.

健常者と障害者の比率から言えば,圧倒的に健常者の方が多いのは自明のことと思います.故に,「人間は身体を通して理解する」という観点からすれば,「多くの人が関心を持つ(持てる)モノ」というのは,いわゆる障害の無い「平均的な人体」ということになるわけです.

脚が無い,目が見えない,耳が聞こえない,そうした身体性を理解しようと務めることはできますが,やはり「(障害者を含め)そうでない人」にはそれをダイレクトにその身を通して理解することはできません.
健常者が障害者スポーツを見ても,せいぜいが「障害を持っているのに頑張っている」とか,「◯◯に障害があるのに,よくあんな動きができるなぁ」と関心(感心)の気持ちを抱くことくらいではないでしょうか.

私はここに,障害者スポーツがエンターテイメント性(強い魅力的な関心)を見出すことができない絶対的境界線があるのではないかと考えています.

つまり,
「障害者スポーツをエンターテイメント性の強い観戦スポーツとして発展させることは不可能だし,目指すべき方向ではない可能性が高い」
というのが私の結論めいたものになります.

こんなこと言うと,正義感がやや強めのトチ狂った人が,
「それは差別だ!障害者のスポーツも多くの国民から等しく関心を寄せられるべきなんだ!」
などと詰め寄ってくるかもしれません.
しかし,冷静に読んでくれた人なら分かってくれるかと思いますが,私はそういう健常者上位な差別的主張をしたいわけでも,障害者スポーツに未来が無いなどと言いたいわけでもありません.

私はエンターテイメント色が強い観戦・商業スポーツにやや否定的でもありますし・・・,
だからということでもないのですが,障害者スポーツは「周囲からの関心」とは別のところにエネルギーを向けるべきではないかと考えています.

それは,スポーツの本質に立ち戻ることです.健常者であろうと,障害者であろうと,スポーツすることの本質においては変わりません.過去記事にも書きましたが,■人間はスポーツする存在であるからです.
そう考えながら障害者スポーツの未来を展望してみれば,障害者スポーツが目指すべきところというのは,「障害者スポーツ」と呼ばれるものが無い時代を目指すことではないか,そして,「障害者」と呼ばれる者がいない時代を目指すことにあるのではないか,そう思うのです.

難しい話になっていくので,今回はここまで.

その他,この記事に関係する過去記事を並べてみました.

障害者スポーツの将来については以下の記事.
障害者スポーツを考える

スポーツをすることの本質については以下の記事.
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」

なぜ健常者は障害者スポーツを理解できないのか?の基本的な部分は以下の記事.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

人体(人の形)を通さなければ人間は理解できない,という点は以下のマニアックな記事.
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」

2014年12月19日金曜日

人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

人間は身体を通して理解する,ということについて「ガンダムで言うと」シリーズの第3弾です.
以下の2編もよかったらどうぞ.
「ファーストガンダム編」
「Zガンダム編」
もともとの記事は,体育・スポーツの記事である.
人間は『身体』を通して理解する
ですので,そちらもどうぞ.

さて,第3弾では『新機動戦記ガンダムW』を取り上げてみようと思います.
この『ガンダムW』のストーリーは,「人間は身体を通して理解する」ということについて,SFロボット作品としてある意味忠実に「解説」した作品だと見ることができます.
つまり,非常に分かりやすく描かているんです.

その最たる例,象徴的な登場キャラクターがトレーズ・クシュリナーダです.
彼の発言や思想を追っていけば,おのずと「SFロボット作品とは,人間は身体を通して理解するということに依っている」に行き着くかと思います.

典型的なのが,彼の戦闘スタイルや美学,彼自身が決戦用として設計したモビルスーツ(ロボット兵器)の武装です.

彼の戦闘スタイルと美学とは,ひとえに「格闘戦」,可能であれば生身の身体での格闘戦,できれば1対1の格闘戦なのです.それが騎士道精神などでエレガントに装飾されて描かれています.
細かいところは作品を見てもらうとして,これはしつこいくらい強調されており.
「閣下,いくらなんでもそれはエレガント過ぎです」とツッコミを入れたくなるほどです.

彼の格闘戦の美学は,ロボット同士での戦いであるモビルスーツ戦にも持ち込まれます.
普通,マシン兵器を使った「格闘戦」というと,例えば現代の戦闘機でいうところのドッグファイトのようなものですよね.機関銃やミサイルの打ち合いです.

ところが,彼の格闘戦はロボット同士が剣を交える格闘戦,つまり生身の身体での格闘戦の延長なのです.
それは彼自身が設計したロボット兵器にも反映されていて,彼が決戦用として作った「ガンダムエピオン」は,なんと火砲兵器が一切取り付けられていません.武装と言えるものは巨大なビームで出来た剣と,発熱するムチのような兵器だけです.
これも「閣下,いくらなんでもそれは戦術上極めて不利です」と言うところですが,まぁそれくらいの描き方で表現したいほどにトレーズ・クシュリナーダという人物の思想・哲学が,この作品において重要な位置づけになっていると見ることができます.

すなわち,「戦争は人と人とが対峙して行うべきである」ということです.
彼のセリフである「礼節を忘れた戦争は殺戮しか産まない」とか,「人間に必要なのは絶対的な勝利ではなく,戦う姿,その姿勢」といったように,「姿・形」にこだわりがあるわけでして,そしてこの姿形を象徴するのが「ロボット同士であっても格闘戦」なのです.

なぜなら,ロボット同士での剣を交えた格闘戦であれば,パイロットが何かをしようとすれば,おのずとそのロボットの姿形から読み解くことができます.この時ロボットは,パイロットの「身体」の延長として機能しているのです.ロボットという「身体」の動きによって,パイロットの意志が見えるわけですね.
トレーズは,パイロットの意志が外から見える戦いこそが重要だと考えていると言えるでしょう.

これを彼はさらに発展させ,戦争そのものにも「身体性」を求めているようです.
つまり,姿形(身体性)が失われた戦いには,勝利も敗北もないということです.
彼いわく,その時「(勝者にも敗者にも)神は手を差し伸べてはくれない」のです.
「姿形へのこだわり」,それがガンダムWというSFロボット作品においてトレーズが(そして制作者が)「ロボット(モビルスーツ)」によって表現しているものではないか,と思えるんです.

それだけに,だからこそ彼は,味方陣営が開発した「無人ロボット兵器」である「モビルドール・システム」に頑なに反対します.
これについて誤解を恐れずに言えば,人の意志が通っていないロボットがSFロボット作品に登場してはいけない.ということではないでしょうか.
それをダイレクトに,かつエレガントに批判したのがトレーズです.
人の意志が通っていない「人型のモノ」を見ても,誰も感動しない.ましてや,そんなモノがSFアニメで「戦争」をすることがあってはならない.ということです.

『ガンダムW』というSFロボット作品において,トレーズ・クシュリナーダが言わんとするものとは,人型ロボットであるからには「人の意志」が入っているべきであり,人の姿・形をしたモノ,つまり身体によってこそ人間は理解できるということなのです.

ところで・・・,
彼はこう言います.「かつて,ボタンひとつで全ての戦いに決着がつく時代があった.その忌まわしい精神の根源がモビルドール(無人兵器)だ」と.
きっと「核兵器での睨み合い」とか「ハイテク兵器での一方的な戦争」といったものを指しているのだと捉えられます.

これをトレーズ・クシュリナーダの思想・哲学から読み解けば,
姿形,つまり身体性(人の形)を失った戦争をしてはいけないし,それには誰も感動しない.
もっと言うなら,人の形がない戦争とは,まさに「誰も見ることができない戦争」なのだ,ということではないでしょうか.
そこでは,勝者にも敗者にも神は手を差し伸べてくれない.
現代の戦争に照らしてみると,なんとも痛烈な皮肉ではないでしょうか.

参考記事
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」

2014年12月16日火曜日

人間は『身体』を通して理解する「Zガンダム編」

前回の,
人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」
の続きです.
これについてより基本的なことについては,
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
を御覧ください.

今回は前回記事である「ファーストガンダム編」の続きとして,ガンダムシリーズとしての続編でもある「Zガンダム」を引き合いにしてみましょう.

今回の話では,前々回の井戸端スポーツ会議の方で取り上げた,
人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」
つまり,
「我思う.故に我あり」という,デカルトが提唱したあの有名な命題では不十分であり,「我がある.故に我思う」というのが,人間を理解するためにはより適切であろう
ということを思い出して貰う必要があります.

このことについて,今回も機動戦士ガンダムシリーズ,その二作目である「Zガンダム」のストーリーにおける最終話から解釈してみよう,ということです.

ネタバレにもなりますが,Zガンダムの最終話を思い出してみて(視聴してみて)ください.
主人公であるカミーユ・ビダンは,宿敵パプテマス・シロッコが駆るロボット兵器「ジ・オ」との決戦において,自身の駆る「人型ロボット」の「Zガンダム」ではなく,その変型形態である飛行機型での突進攻撃をしています.
それによってジ・オとシロッコを倒して決着が着くわけですが,ここにおいてSFロボット作品として違和感があるのは,
ロボット作品,それも人型ロボットのエンターテイメント作品なのに,なぜ最後のシーンが人型ロボットによる華々しい大立ち回りではなく,飛行機形態による突進なのか?
というところではないでしょうか.

SFロボット作品において人型のロボットが登場する理由の1つが,「人間は人型のものを通すことで作品の解釈がしやすくなる.作者の意図が伝わりやすくなる」ということだったと思いますが,これに照らしてみると『Zガンダム』のラストシーンはどう解釈できるのでしょうか?

実は,『Zガンダム』のラストシーンこそが「人間は身体を通して理解する」ということを,逆説的に示している例の1つであると私はみています.上記の『身体の感覚』というところにつなげて考えることができるのです.

前々回の繰り返しになりますが,その点についてもう一度おさらいしておきます.

「私」の存在は「身体」を抜きに「私」とはならず,どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられます.
自分の身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでした.

すなわち,「私」という存在は,私という身体固有の感覚として存在しているということを意味するわけでして.つまり,人間の心とはこのような「人の形」をしたものに宿っていると言えなくもない.さらに言うなら,この私の身体だからこそ私が存在してていると捉えることもできるということです.

その上で,機動戦士Zガンダムの話に戻りましょう.
カミーユとシロッコの決戦の最終局面でどのようなやり取りが成されていたか.それはこのようなものでした.
カミーユ「俺の体をみんなに貸すぞ!」
・・中略・・
シロッコ「Zが・・,どうしたんだ.私の知らない兵器が内蔵されているのか?」
カミーユ「分かるまい.戦争を遊びにしているシロッコには,この俺の体を通して出る力が」
シロッコ「体を通して出る力・・.そんなものがモビルスーツを倒せるものか!」
取り巻き「カミーユは,その力を表現してくれるマシーンに乗っている」「Zガンダムにね」
ということで飛行機形態で突進するわけですが.
カミーユが突進するにあたって,過去に戦死した人々が幽霊のように取り巻くシーンが象徴的に描かれます.その彼女ら/彼らの思念をまとめ,それをシロッコにぶつけようというものです.
だからこそ「俺の体をみんなに貸すぞ」なのでしょうが,つまりこの時,複数の人々の思念の「依代」としてZガンダムは機能し,そしてZガンダムはその思念の集合体として突進しているのです.

そもそも,特に機動戦士ガンダムのような作品においては,ロボット兵器・モビルスーツというのは,パイロットの意志や想いを表現する「依代」として描かれていると考えることができます.
この場合,パイロット一人の「意志」であれば.人型で表現するほうが適切です.モビルスーツの一挙手一投足というのは,パイロットである人物の意志を表現しているものだからです.

ところが,『Zガンダム』におけるラストシーンでは,Zガンダムは主人公カミーユだけの意志を表現する存在ではありません.過去に戦死した人々の思念が合成された状態が作り出されているわけです.
その時カミーユは,「分かるまい.戦争を遊びにしているシロッコには,この俺の体を通して出る力が」と言っていますが,その「力」というのはカミーユ一人のものではないのです.

とするならば,その時のカミーユは,カミーユであってカミーユではない存在なのです
つまり,それまでのカミーユを表現していた「人型のZガンダム」では表現しきれない存在に,その時のカミーユはなっている,と考えることができます.

カミーユであってカミーユではない者がパイロットとして搭乗している.だからあの時,Zガンダムは「カミーユを表現する人型のZガンダム」ではなく,思念の集合体である飛行機形態にならざるを得なかった(飛行機形態として表現せざるを得なかった),ということなのです.

様々な人の思念を合成した時,それはパーソナルな形,「人の形」ではなくなってしまう.ということを暗示するものとして『Zガンダム』のラストシーンは興味深いものなのです.

参考記事
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

ガンダムWでも考えてみました
ガンダムW編

ファーストガンダムでも考えています
ファーストガンダム編

2014年12月15日月曜日

人間は『身体』を通して理解する「ファーストガンダム編」

前回の,井戸端スポーツ会議である
人間は『身体』を通して理解する
の続編です.

上記の記事では,「人間は身体を通して理解する」ということに対する現代文化・芸術の典型がSFロボットアニメだということを取り上げました.
SFロボット作品においては,人型ロボットが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれているというものでした.
こうした作品では,人型ロボットが主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか.

それは,人間が「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなるということであり,SFロボット作品であればつまり,人型ロボットを「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすい,ということでした.

アニメ『機動戦士ガンダム』シリーズにもそれが現れているという話をしていましたが,今回はこれについて,もう少し具体的に解釈をしてみようというものです.

機動戦士ガンダム・シリーズの第一作目,ファーストガンダムと呼ばれる作品の最終話では,「人間は身体を通して理解する」ということについて非常に興味深い展開があります.

ネタバレも含めて解説すると,このファーストガンダムガンダムの最終話では,主人公のアムロ・レイと宿敵シャア・アズナブルは,SFロボット戦争作品であるのにロボット同士での決戦では決着がつかず,なんと最後はコクピットを降りて生身の格闘戦(フェンシング)を始めます.

そのフェンシングで決闘をするときの二人のセリフが意味深長です.
シャア「分かるか?ここに誘い込んだわけを」
アムロ「ニュータイプでも体を使うことは,普通の人と同じだと思ったからだ」
シャア「そう,体を使う技は,ニュータイプと言えど訓練をしなければな」
「ニュータイプ」というのは,ロボット兵器であるガンダム等のモビルスーツを操る技術が極めて高い能力者のことです.つまり,「ニュータイプ」というのはパイロットである「自分の意思」をロボットで的確に表現できる人と捉えることができます.
この「ニュータイプ」というのは,その他のガンダムシリーズにおいても重要な役回りをするキャラクターなのですが,その意味するところというのは「ロボットに命を吹き込むことができる者」であり,より具体的な解釈をすれば「ロボットを通して“も”自分の意志が表現できる者」ということでしょう.

そんなわけで,モビルスーツ・ガンダムと呼ばれるロボット兵器を操ることに主眼を置いて進んできたストーリーになっています.タイトルもずばり「機動戦士ガンダム」ですから.
ところが,このファーストガンダムではニュータイプであるライバル二人は,最後の決着をロボット兵器・モビルスーツのコクピットから降りて,生身の身体でつけようとします.
ここに機動戦士ガンダムの面白さが見えます.

まず,このライバル二人のフェンシング対決での会話は,多くのSFロボット作品において「人型ロボット」が人の意志を表現する依代であることを逆説的に示しているシーンと見ることができるでしょう.
すなわち,生身の身体の操作(表現)とロボットの操作(表現)は違うものだろう,という趣旨のもとに展開されているのです.少なくとも登場人物であるシャアはそう考えているようです.
しかし,そうではない事を暗示する結末を迎えます。

そもそも「ニュータイプ」とは,あたかもロボットを自分の身体のように操れる能力者でしたよね.
ですので,その決着がどうなったか?というところもまた意味深長なのです.
結局,ロボット同士の決戦と同様,決着はついていません.いえ,どっちかというと宿敵シャアのセリフにあるように,
「ヘルメットがなければ即死だった」
ということで,主人公アムロが優勢だったと見ることもできるでしょう.
(しかもご丁寧にも,先立ったロボット同士での決着と同様に,剣はアムロの体をかすめ,シャアは頭部に当たっています)
ちなみに,物語終盤においては,主人公であるアムロは宿敵シャアを凌駕するパイロットになっていました.それに焦ったシャアだからこそ,フェンシング対決に持ち込んだ,という流れです.

シャアにしてみれば,ロボット戦においても生身の格闘戦においても負け気味で終わっているんです.
つまり,人の「想い」や「意志」の表顕というのは,「ニュータイプ」をもってすれば生身の「身体」であっても,その身体の延長線とも見做せる「人型ロボット」であっても結末に違いは無い,ということを示しているのかもしれません.

これは体育学や身体論,神経生理学,ロボット工学という観点からも非常に興味深い考察ができそうなテーマでもあります.
その続編については,また機会があれば記事にしたいと思います.


Zガンダムでも考えてみました.
Zガンダム編

ガンダムWでも考えてみました.
ガンダムW編

参考記事

2014年12月10日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」

「大学に『体育』の授業があるのはなぜか?」
という話が出ることがあるんですけど・・,
大学に限らず,そもそも学校教育に『体育』がなぜ存在するのか?存在する価値はあるのか?という点を考えない教育者はけっこう多いものです.

そんな話を直接的に愚痴っても,ブログを読んでくださっている皆さんは面白くないと思いますので,別の観点から話をしてみます.

人間は身体を媒介して物事を認識する
という,ちょっと仰々しいお話です.

難しそうなことに思えますが,逆に言えば「人間は自分の身体を通したものしか認識できない」ということです.
でも実はこれ,デカルトが思惟の末に見つけ出した,あの「我思う.故に我あり」(心身二元論)に対する反論でもあり,けっこう重要な人間論でもあります.
と同時に,スポーツ科学や体育学を考える上でも重要なテーマでもあるのです.
ここらへんのことについては,アントニオ・ダマシオ 著『デカルトの誤り』が詳しいので,そちらをどうぞ.

一方の心身二元論の立場をSFタッチで考えてもらうには,士郎正宗 作『攻殻機動隊』とか,そのアニメ映画である押井守 監督『攻殻機動隊』を見てもらえればと思います.あと,ハリウッド映画の『マトリックス』も,そういうことを下敷き的なテーマとして描かれています.

「我思う.故に我あり」ではなく,「我がある.故に我思う」というところでしょうか.そしてその「我」の存在は「身体」を抜きに「我」とはならない.
どこまでも心と身体は分離不可能なものと考えられるのです.
ダマシオ氏が述べるところの,人間は「思う」に先立って,まずは「見る」「聞く」「触る」「味わう」といった『身体の感覚』があり,それに対して人間は「思っている」のです.

さらに言うと,この『身体の感覚』というのは,自分の身体ならではの感覚として認識されているのですから,『自分の身体ならではの感覚』として形成されていきます.
例えば,「私の足に何かが触れた」とすれば,それは私の「足」という空間的位置と形状のものに「何か」が触れたことを意味します.
つまり,私が「足に何かが触れた」と感じることというのは,私という身体固有の感覚として何かを感じている,ということを意味するわけです.
もっと言うと,人間の心とは,このような人間の形をしたものに宿っていると言えなくもない.そういうことです.

私たちは,このような(自分の)身体があるから自分として成り立っていられるわけで,この身体から離れてしまうと,もはやそこでは,今,私が私として認識している私(人間)はなくなってしまうということでしょうね.

このようにして考えていきますと,人間が物事を理解するプロセスについてもう一つのテーマが浮かんできます.
それはつまり,
人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする
ということです.

ハリウッド映画によくある,
「あれだけ銃弾をバラ撒いて,ドッカンドッカン爆破しまくっていたのに,結局最後は肉弾戦で決着がつく」
というアクション映画の鉄板的な流れは,人間が身体を通して物事を理解しようとするところを,エンターテイメントとして掬いあげているからではないかと考えられます.

つまり,「悪党をぶっ潰すカタルシス」を味わうためには,心理・精神的なものを描写するよりも,身体的な理解を促す描写を採る方が大衆娯楽作品としてはヒットしやすいわけです.

より典型的なのがSFロボットアニメなどでしょう.
むしろ,SF作品においては身体,もとい「人型」のモノが,作品のメッセージを増幅させるための「依代」として描かれています.
古くは『フランケンシュタイン』の「怪物」や「『われはロボット』の「ロボット」,日本では『鉄腕アトム』や『機動戦士ガンダム』のような作品です.
こうした作品では,人型のロボットが登場人(?)物や主役のように描かれていますが,そもそも彼らはなぜ「人型」として描かれるに至ったのか.というところが興味深いところなのです.

これにはさまざまな要因が複合的に折り重なっているのでしょうが,その一つに上述した
「人間は身体というモノを依代として物事を理解しようとする」
があるのではないでしょうか.

こういうことです.
「人間は身体を媒介して物事を認識している」とすれば,人間は「人型」のモノを通すことで,そこで起こっていることを理解しやすくなる.
これはつまり「人型」の登場人物や象徴をある種の「依代」とすることで,そこに作者が作品で訴えたいことがより伝わりやすいのです.これを逆に言えば,作者が訴えたいことを伝えるための手段として「人型」のモノを象徴としたくなる.ということです.

例えば機動戦士ガンダムなんかを,各シリーズの最後のシーンだけでもいいので視聴してみてください.
そのほとんどが,ロボット同士の戦いなのに肉弾戦で決着をつけようとしています.
作者のメッセージがどのようなものかは様々でしょうが,人型のモノによるぶつかり合いは作者の意図が表現しやすいという点はあるはずです.

難しそうなことを考えてきましたが,「体育」という教育が存在する価値の一つに,上述してきたようなことがエッセンスのように混ざっている可能性があります.
身体を通した教育」という,分かりそうで分からない,場合によってはスポ根・スパルタ教育じみた話に受け取られかねないものですが,「身体を通した教育」すなわち「体育」の意義とは,そこにこそあるような気がするのです.
人間とはなんだろうか?
それを問い学ぶ.分からせないにしても埋め込ませる機能が体育教育にあるのではないかと思います.

 

「人間は身体を通して理解する」について,ガンダムで考えてみました
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は身体を通して理解する「ガンダムW編」

障害者スポーツについても考えてみました
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」

2014年12月8日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 10「スポーツをすると勉強ができるようになる」

もっとブログ更新頻度を高めようということで,パソコンの中に入っている資料・データから面白そうなネタを出していくことにしました.

今回は,「スポーツをすると頭が良くなる」という,たまに耳にする話がどれだけ科学的根拠があるのか,その研究報告をご紹介します.

図1 中学時代の運動部入部率と進学した高校入学偏差値
有名なのが,平成19年度の文部科学省学校基本調査で上がってきたデータです(図1).
中学校の運動部入部率(縦軸)と進学した高校入学偏差値(横軸)に正の相関があるというものです.

もちろん例外はあるものの,文部科学省のようなお固い(最近はチャラいけど)省庁が,このような事を言い出しました.

「でもこれって,その入部率の話でしょ.環境や個人の議論になってきたら違ってくるのでは?」
というのが真っ当な疑問だと思います.

運動やスポーツによって学習能力が高まるという点を研究したものは結構あります.
その中からいくつか引っぱってみました.

まず,「体力が高い子供は勉強ができるか?」という点です.
その調査結果が図2です.体力が高い・低い子供たちに同じ学習課題を課して,そのテスト結果を比較しています.
図2
やはり高体力群の方が成績が良いとのこと.興味深いのは,毎回の勉強においてテスト課題を課さずに行った場合に差が現れやすいという点です.
つまり,模擬テストのような勉強方式ではなく,普段の何気ない学習のようなところにおいて体力の有る無しによる影響が出てきやすいかもしれないわけです.

次は「スポーツや運動をしてから勉強をすると良い」という可能性を示すものです.
以下の図3は,20分間の歩行運動後15分ぐらいしてから勉強をさせた群と,運動せずに勉強をした群のテスト結果を比較したものです.
図3
20分間の歩行運動でも違いが出てきます.その違いは特に「読解力」に現れてくるようですね.
この研究では認知機能の調査も行われておりまして,そこでも運動の効果がみられています.
Modified Flanker Taskというテストを行った結果が,以下の図4.
※フランカータスクって何ですか?という場合はこちら→http://en.wikipedia.org/wiki/Eriksen_flanker_task
図4
学校とかでの休み時間にはスポーツをさせると良い,ということを支持する研究です.

そんな事を聞かされていたら,「子供じゃなくて私達大人も運動をすることで勉強できるようになるのでしょうか?」という期待をしたくなるものです.
その期待に沿う結果を示すのが,以下の図5です.
図5
テスト課題は語彙記憶です.記憶力を評価しています.
高強度運動(筋力トレーニング,ダッシュなど)をしてから勉強した方が,中等度運動(ジョギングなど)や安静にしてから勉強するよりも記憶力が高まるという結果となりました.

高強度運動の方が効果的な理由としては,その方がBDNF(脳由来神経栄養因子)が増加しやすいから,ということが考えられています.
以下は高強度運動によってBDNFが増加することを調査したものです.
図6
ただし,運動直後や運動しながら勉強すると学習効果が低下することも知られていますので,そこらへんは勘違いしないように気をつけてください.

具体的な記憶力アップの提案としては,全力運動がちょいちょい含まれるような各種スポーツ(フットサルやテニス,野球など)や,密度の濃ゆい筋力トレーニングを日々の生活に入れていくことが推奨されます.

また,一日のどこかで長めの階段を素早く駆け上がるような運動を入れるのも効果的かもしれませんね.
皆が見ている前だと恥ずかしいでしょうから,誰もいないところで密かに階段ダッシュをするのはオススメです.

私は授業やなんかで,「テスト期間前になったら,マサイ族のように連続リバウンドジャンプをしなさい.もう跳べない,というところまで続けたら,しばらく休憩してから勉強すると良いですよ」と学生たちにアドバイスしています.
そのうち,7月中旬および1月中旬頃になると,本学の至る所で学生が飛び跳ねている光景が風物詩になる日も近いかもしれません.
そうなったら面白いな,って思っています.

毎日キツい運動をやれというのは現実的ではありませんが,そうした運動習慣,スポーツライフをすることで,皆さんの認知機能や頭の回転も高まっていくことが期待されるわけです.

もう少し詳しく知りたい人は,以下の本がオススメです.


井戸端スポーツ会議

2014年11月30日日曜日

井戸端スポーツ会議 part 9「スポーツ分析のような選挙分析」

今回の記事は,
井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」
とか,
人間はスポーツする存在である
を合わせて読んでもらえると良いかと思います.

今回もスポーツの視点で政治現象を解釈してみたいと思います.

先般,衆議院が解散し,街で選挙カーが走り回る日々が始まりました.
こうなるとニュースやブログ等でも取り上げられるようになるのが,
「◯◯党は議席をどれだけとれるのか?」
という話です.

“より厳密なルール下でスコア獲得を競う”
それだけでも近代スポーツらしさ満載の話ではありますが,ここで取り上げたいのは,そんなスコア獲得競争 “そのもの” を外から興味深く眺める(言うなれば,楽しむ)ことが,あたかも価値の高い興味のように扱われていることです.

端的に言えば,「票を読む」ということですけど.
これって,ふと我に返ってみますと,こう言ってはなんですけど非常に卑しく醜い思考です.
「票を読む」,・・これを選挙に出る人達が言うならまだわかります.
票を読めなければ選挙に出ることによるコストパフォーマンス(これも卑しく醜いけど)が分からないということになりますから,現実的なところでは仕方がないということもあるのでしょう.

ですが,投票する側・報道する側が「票を読めた」「票を読んだ」として何があるのでしょうか?
票を読むことによって投票対象が変わったり,報道姿勢が変わったりするのでしょうか?

こういうのは,まさしく選挙という政治をスポーツ観戦と同じものとして捉えているとしか思えません.
近代政治は近代スポーツの影響を受けているというのが私の持論ですから,これこそ政治のスポーツ化が如実に現れている典型だと思われます.

スポーツという活動の本質的姿の一つに,真善美を徹底的に追求する姿勢があります
※これについての詳細は■井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」を御覧ください.
人々がスポーツや優れたスポーツ選手に向けている眼差しとは,こうした「何か(真善美)」を損得勘定なしに徹底的に追求するという姿勢ではないかと思うのです.

近代スポーツでもこの姿勢が残ってはいるのですが,これに加えてスポーツはより大衆化,エンターテイメント化してきていると考えられます.
近現代においてスポーツがダメになってきているとは言いません.ですが,こうした大衆化とエンターテイメント化の弊害が至る所で出てきており,政治もまた同じ道をなぞっているとも言えるのではないかと思うのです.

「票を読む」というのは,まさに政治をスポーツ的なエンターテイメントとして楽しんでいることの象徴です.
もちろん,票を読んでいる本人は至ってマジメな活動だと認識自覚しているのでしょうが,それはスポーツ的な目線で見れば,プロ野球のリーグ中,
「今年のペナントレースの順位はどうなりますかねぇ?」
なんていう質問に
「ハイ!私の予想はコレ(・ω<)」
などとワイドショーで語っている引退選手や野球好きタレントと変わらないものです.

えーっと,ちょっと何が言いたいのか難しかったかと思いますが,刺激の強い言い方をすればつまり「お前がそこでペナントレース結果を予想したところで,これから繰り広げられる各チームの戦果には影響しないだろ」というところです.
ついでに言えば,「それを一般の皆様が受け取ったとして,それで何がどうなるというのでしょうか?」という感じ.
もっと言えば,「へぇー,それで1つの情報コンテンツとして成り立つんだぁ〜」ってことです.

どのような野球をすれば得点力が上がるのか?どういうピッチングをすれば防御力が高まるのか?という話ならまだしも,順位予想や優勝予想をするだけなら「だから何?」感が止まらない,ってことです.

スポーツの楽しみ方は人それぞれですし,その認識は違っていて当然なのでしょうが,スポーツに人々が魅了される理由というのは,各選手,各チームが繰り広げる強く美しいプレーによる勝負だという点は一致しているところでしょう.

一方で,スポーツを「観戦する」という楽しみ方がここまで発展してきたのは,近代スポーツの特徴の一つです.
勝った負けたも大事ではありますが,そこで繰り広げられている流れの中でのアナログなプレーに,強さや美しさを観るのがスポーツの醍醐味と魅力です.
球速を1km/hでも上げる,ジャンプ力を1cmでも高める,重量を1kgでも多く持ち上げる,狙った所に1mmでも近づける.そうしたプレーをどのように鍛錬するか?実現するか?というところに,スポーツ本来の魅力があるはずなのです.

ところが近現代スポーツでは,結果を生み出すはずの「プレー」をすっ飛ばした予想や統計学的な予測によって「戦績(競争結果)」を分析しようとしたがります
強く美しいプレーとは何か?それこそがペナントレース結果予想よりも重要なはずなのですが,近現代スポーツにおいてはそうではなくなってきているのが現実です.

選挙や政治にしてもそうで,問題になるのは各政党や政治家が「この国をどうしようとしているのか?」という点であるはずなのです.
ところが,どこが・誰がどれだけ票を獲得できるのか?という話で盛り上がり,「票を読む」ことや「政局」が政策議論と同等,場合によってはそれ以上に重要なテーマだと認識されるこの社会は,政治のスポーツ化が色濃く反映されていると見做せるのではないでしょうか.

つまり,スポーツにおいて「プレー」ではなく「戦績」を重要視するようになってきた現代人は,選挙においても「プレー」ではなく「戦績」に興味を移し始めているのではないかと解釈できるわけです.


井戸端スポーツ会議

2014年11月19日水曜日

井戸端スポーツ会議 part 8「スポーツ観戦のような政治観戦」

これまでにも,
「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」
という視点を取り上げてきましたが,
人間はスポーツする存在である
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
今回はこの点について,もう少し具体的に井戸端会議をしてみたいと思います.

政治を見る(観戦する)目は,スポーツのそれと親和性が高いのではないか?という点です.

「そもそも,“政治を観戦する” という評し方に違和感がある」
というところかもしれません.
なぜこんな表現をするかというと,今回の問題提起が,
近現代のスポーツが「観戦」されるものとして高度に発達してきたことと,現代の政治の捉えられ方が無縁ではないのではないか?
というお話しだからです.

かつてのスポーツ(前近代スポーツ)の多くは,自分達自身がその競技や活動に取り組むものであり,参加しないにしてもその結果は自身の有り様とシンクロするものでした.
ここら辺の細かいことは■人間はスポーツする存在であるを読んでもらうとして,現代においてスポーツと呼ばれるものの多くが,かつては「祭り」とか「儀式」の要素を多分に含むものだったことと無関係ではないと考えられます.
「祭り」や「儀式」としてのスポーツは,貴族であれ庶民であれ,自分自身にとって重要な価値を持っていたわけです.

そのようなスポーツは,現代においては「観戦」という形で消費される存在になっているのです.当たり前のことですけど,こうしたスポーツを観戦と言う形で消費するのは限られた人々ではなく,多くの一般大衆です.
「スポーツの在り方を分析してみたら,その時の社会が分析できる」
という立場からしますと,スポーツを観戦という形で消費する人々の有り様が,政治を見つめる一般大衆の有り様と非常にシンクロしたものに見えるのです.

例えば,どこかのスポーツチーム(野球でもサッカーでもいい)が,リーグなどで無様な結果を残したとします.
そのチームのファンはどのような態度をとるでしょうか.
きっと,
「監督を変えろ!選手の年俸も下げてしまえ!そもそもオーナーの方針が気に入らない!」
などと言い出します.

感情剥き出しで,おおよそ上品とは言えない物言いですが,彼らファンの気持ちも分からないではないですし.いや,むしろファンの気持ちは大事にされて然りではないか,などと(マスコミをはじめとして)周囲も囃し立てるのかもしれませんね.

ですが,考えてみればこれは道理が通らないことです.

もしファンが本当にその「チームのことを考えている」のであれば,安易に「監督を変えろ」とか「選手の年俸を下げろ」とか「オーナーの方針が気に入らない」などとは言えないはずだからです.
まぁ「監督を変えろ」はまだしも,選手の年俸を下げたら優秀な選手は残らない(獲得もできない)ですし,オーナーが出資してくれているからこそのチームなんですから,頭ごなしに批判するのもおかしな話です.
彼らファンの主張は,応援しているはずのチームを明らかに弱くする方向に導いていることになります.

もしオーナーがファンの意見を聞き入れてしまったらどうでしょう.
そんなチームがチャンピオンフラッグを手にすることはできませんよね.

これと同じことが現代の政治にも見えます.
例えば政治家や公務員,官僚を叩く姿がその典型ではないでしょうか.
無様な政治を見せてしまったり,不況が続いたりすると,多くの一般大衆はこう言い出します.
「議員数を減らせ!公務員の給料を下げてしまえ!そもそもこの国の方針が気に入らない!」

たしかに感情的には分からないではないですし,程度の問題というところもあるでしょう.
ですが,こうした政治の有り様は,私には現代のスポーツを消費する一般大衆とダブって仕方ないのです.
※見方によっては,「社会の有り様がスポーツにも現れている」とも捉えられるでしょうが,私は “逆”,少なくとも相互関係にあると考えております.詳しくは■人間はスポーツする存在であるをどうぞ.
これはつまり,その国の政治の有り様は,国民がスポーツをどのように見ているのか?(マスコミがどう報じるか?)ということと相関するのではないかということなのです.

政治家や公務員を削減したり給料をカットすると,自分達の意見が吸い上げられなくなったり,優秀な人材が採用されなくなったりするわけですから,国家の運営をしていく上ではマイナスになることは自明のことです.
(繰り返しますが,“程度の問題” はあれど・・)政治家や官僚,公務員が何かしらの評価によって次々と異動・交代するような状態になったら,とてもじゃないですけど彼らからしたら「自身の生活」を優先するようになってしまうでしょうから,皮肉にも「国民の生活」は優先されなくなります.
自分自身の身に置き換えて考えれば分かることです.

ところが,国民の感情がそれよりも優先されてしまう,つまり「罰を与えたい」という気分が持ち上げられてしまう上に,それがあたかも正論かのように捉えられてしまう,そう報じられてしまう,というのが現代スポーツとそっくりなわけです.

本当のファンであれば,チームのためになることを考えます.なぜなら,贔屓のチームの成績は,そのファンにとっては単なる「消費物」や「レジャー」ではないからです.
優秀な選手が獲得できないのであれば,有志を募って獲得金の募金活動なんか始めちゃうかもしれませんよね.でもそれが熱心なファンというものです.

ですが,少なくとも現代スポーツにおいてそれは見られません.もちろん現代人の一人である私も,スポーツをそのように捉える態度や思想が根付いておりませんし.
現代の政治に見られる上記のような現象は,人々がスポーツを「自身とシンクロするもの」ではなく「観戦して消費する」ようになったことと無縁ではないのかもしれない,と考えてみることも面白いものです.


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」
井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
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エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ

2014年11月8日土曜日

続・女性の成功

ブログ更新頻度が下がっております.時間がとれないんです.
なので,以前書いたことがある記事に付け足すものはないかと思案してみました.

ということで,今回は「女性の社会進出」に関する記事を掘り起こしてみることにします.

4年前(2010年)に,
女性の成功
という記事で書いていた「女性の社会進出」というテーマについて,先般,評論家の佐藤健志氏が『女性閣僚と風俗嬢の間』と題して考察していました.これが非常に面白いんです.
有料コンテンツですが,よかったらこちら↓をどうぞ.
■ちょくマガ(角川):http://chokumaga.com/magazine/free/152/8/
佐藤氏の評論に注目している一人ですので,私は有料であっても読んでみました(安いし).

私が書いた上記の2010年の記事というのは,晩酌しながら酔っ払って書いていた覚えがあり,次の日になったら「ありゃちょっと言い過ぎだったかな」と反省した記憶もあります.
2010年と言えば大学で教鞭をとり始めた時期でもあり,「じゃあお前,社会進出を目指して学費を払っている女子大生にそんなこと言えるのか」って感じでもありますしね.

ここ最近はクオータ制やらなんやらで女性の社会進出がにわかに話題となってきたところでもあり,私としても「なんだかなぁ」と感じていたところへ佐藤氏の評論はストンとハマった思いがします.

女性の社会進出を推し進めようとするところに垣間見える不自然さと無理矢理感を論じたのが以前の私のブログ記事です.
どういう事かまとめて言いますと,
昨今喧しい「女性の成功・社会進出」とはつまり,女性もこれからは男社会,男の論理,すなわち経済的成功,社会的権力や威信を獲得することによって評価されることを求めることに他ならないということを意味しており・・,いやでもチョット待ってくれ,あれだけ「男社会」や「男の論理」を批判していたのに,その男性中心主義の上に乗っかった成功を喜ぶんですか?それって女性の価値を高めていることになっているのですか?
 ってことなのです.

佐藤氏はこれについて,そうした不自然で無理矢理な「女性が輝く未来」を求めた先には,とうてい「女性が輝いている」とは言いがたい状況を作り出す未来があるのではないかと論じます(もう既にそうなっている).
男性中心主義での勝者・権威者の要件とも言える,
(1)経済活動への参加度
(2)金稼ぎの効率性
を求めて(求めさせて)いくと,女性はとある効率性の高い経済活動へと参加する心理的ボーダーラインが下がっていくのではないかというのです.
それが水商売であり,特に風俗業だということを中村淳彦 著『日本の風俗嬢』を紹介しながら話を展開しています.

自分らしい生き方,夢,自己実現などという “まとも” な言葉で飾られてはいるものの,その「成功」の本質とは「効率よくお金を稼ぐ」ことと「周りから羨ましがられるポストに就く」ことに収斂される.それが「輝く女性」「女性の成功」なんだということになります.
ところが世の中そんなに甘くはないわけです.「男性のように輝きたい女性」が羨む男性だって,そんなに簡単にこの2つが手に入るわけではありません.
であるならば,その2つを求めるために「女性」を売ることだって,「輝いている女性」とは言えないだろうか.水商売や風俗嬢こそ,効率よくお金を稼ぐという成功モデルの要素を持った手段じゃないか.
そんなふうに,あたかも自己弁護のように割りきって,もう一つの輝くための要素である「羨ましがられるポストに就く」ための助走,準備,修行だということにして風俗嬢へと身を投じる女性が増えているというわけです.その最たる例が女子大生です.

佐藤氏は,最近の女子大生には,大学生活を継続するために風俗嬢になる人がいることも紹介しています.別に贅沢品や遊ぶ金欲しさのためではなく,まじめに勉強するために風俗嬢をやる人が増えているのです(特に下宿をしている地方出身者に多いとのこと).

はい.これはどうやら本当のようです.本学の学生たちからも聞きました.
ついでに,「先生,絶対に風俗とかに行っちゃダメですよ.学生がいるから」というアドバイスも頂きました.

遊ぶ金欲しさにやっている人もいなくはないでしょうが,たしかに今どきの女子大生には少ないでしょうね.贅沢に遊んでられるほど余裕が無いのが今どきの大学生なんです.
逆に,もう少し余裕を持てないものかと可哀想になったりもします(まぁ,私達の時くらいから言われていることですけど).

ということで,「よーっし,これからは女性を真に輝かせる教員になってやるぞ」と意気込んでみましたところ,来年の私のゼミを履修希望する学生は全員男子になるようです.





2014年10月21日火曜日

井戸端スポーツ会議 part 7「ジュニア世代の育成」

大学の後期授業が始まりましたし,科学研究費補助金の申請書類を作成したりで忙しく,あんまりブログの方に頭が回っておりませんでした.
未だに回っていないのですけど,10月の記事をもう少し書いとかないとと思い,スポーツネタを一つ.

さっき,こんな記事を読みました.
■危機に瀕する日本の選手育成
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141021-00000007-goal-socc

将来のサッカーA代表候補である,ジュニア世代の日本代表がアジア大会やワールドカップ予選で敗退したということでして.
日本サッカーのジュニア世代の育成が危機に瀕しているのだそうです.
どれどれ,なにがどうなっているから危機に瀕しているのかなと思って読んでみますと,
>日本の若手は球際や寄せの激しさ、ボールへの執着心、勝利への強い意欲などで相手より見劣りしている部分があったと言わざるを得ない。(上記記事より)
という点なのだそうです.
なんだか,いきり立った内容の記事ですね.

一応,私もそれなりに競技スポーツの専門家ですので,それなりの立場から言わせてもらうと,ジュニアだけでなくA代表の能力にしたって,一昔前(私たちが子供の頃)と比べたら雲泥の差があるだろうことは明らかです.着実に日本代表はレベルアップしていると言って良いと思いますよ.
技術は良くても最近の子供は体力が落ちている? いえいえ.
残念ながらどこのデータなのかは言えないのですが,ユース代表選手の体力測定結果を見させてもらったところ,彼らは成人アスリート顔負けの体力レベルにあります.

これにもう少し付け加えれば,他のアジアの国もジュニア育成に力を入れているからじゃないですか? というところですかね.
以前は,周りが50点だった時に自分達が60点で優位性があった.
最近は自分達は70点なんだけど,周りが80点をとっている.
そんなところではないかと.
それでも,どうやら危機に瀕しているのだそうです.

私としましては,そこまで悲観的にならなくてもいいじゃないか.子供たちをもっとじっくり見守りましょうよ.死ぬわけじゃないし.というところです.

上手くなれば球際の強さやボールへの執着心も上がりますよ.勝利への意欲なんて,もとよりあるでしょ.
こう言っちゃ悪いですが,ジュニアを含めサッカー日本代表のレベルを買いかぶり過ぎです.

それよりも,アジア全体のサッカーのレベルが上がっているというのは喜ばしいことです.
私としましては(というか,これは業界では常識かも知れないが),アジアのレベルが低かったから,日本を始めとするアジア勢はワールドカップで活躍できないのだ.と考えています.
70点,80点で争っているのがアジアなら,他は100点,200点で争っているのですから.
ライバルと目される相手が韓国,北朝鮮とかイランとかだったんですよ今までは.そりゃ強くならんでしょ.
サッカー日本代表がこの20年ほどで急成長したのも,ヨーロッパや南米勢と親善試合をたくさんするようになったからです.

強い相手と実際に戦うことが,最も優れた練習になります.
(やや皮肉交じりに)日本サッカー協会風な言い方をすれば「経験」です.
最終的にはワールドカップでベスト4とか優勝を目指すっていうのであれば,そのライバルであるアジア勢がワールドクラスになってもらうことは非常に重要なことでしょう.

上記の記事を書いた記者,
>日本サッカー協会が出している指導指針に準じたトレーニングや選手選考を進めることも大切ではあるが、選手の可能性はどこに隠されているか分からない。それを念頭に置き、画一化された視点を変えていってほしいものである。
とも述べます.まぁ確かにそういう視点も無視してはいけないのですが,概ねこれには同意できません .

サッカーを楽しみましょう,というならまだしも,日本代表選手を育成してワールドカップを目指そうというなら,ある程度画一化された強化方針に従った方が良いのです.

他の競技団体,他の国でもそうですけど,ジュニア世代からトップ代表までの一貫した指導システムや指針を作らなければ,全国の指導者や選手がどこを目指せばいいのか分からず,あっちゃこっちゃしてしまいます.
というか,あっちゃこっちゃしてた選手たちを寄せ集めた集団だったのが過去の日本代表です.

それじゃいかん,ということで一貫指導体制を作ってきたのです.
相対的な戦果が悪かったからと右往左往してはいけません.日本サッカーのレベルは着実に上がっています.
※とは言え,ドーンと構えといてほしいA代表監督の選定なんかが一貫性を欠いているんじゃないかと思わされることもあったりしますが,まぁ,そこらへんの細かい事情や思惑は分かりませんけど.

一貫指導体制が望まれる理由は,ジュニア世代の競技成績に右往左往せず,将来を見据えた育成事業ができる点にあります.
それだけにやっぱり,「こういうサッカーを日本は目指す」という指導理念・哲学が極めて重要になってきますが.

以前の記事,
井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
で紹介したエピソードを,もう一度ここでも書いておきます(以下,ほぼコピペ).
男子テニス界の王者として君臨していたロジャー・フェデラーが,ジュニア選手だった頃のエピソードです.

ジュニア時代,彼はたしかに強い選手ではありましたが,目立った戦績は残せないでいました.
大きな大会にエントリーすれば一回戦負けが当たり前だった頃,とある人(故人・日本テニス界の大御所)が,そんなフェデラーの試合を見て「彼は将来,きっと大物になる」と評します.

その後の大化けっぷりは言わずもがなですが,その人がフェデラー少年の何に注目していたかというと,彼がやろうとしていたプレースタイルです.
ショットの正確性やフットワークの悪さは発育発達途上のジュニア選手であれば仕方がないことですが,やろうとしていたプレースタイルは抜群に優れたものだったと言うのです.

おそらくですが,コーチが将来トップレベルで戦うことを前提としたテニスを彼に教えていたのではないかというのです.
※というか,一貫指導体制の中でやっているので当たり前だけど.
例えジュニア時代に負けが重なったとしても,トップレベルで戦う選手になった際に必要となってくる判断力や戦術を,ジュニア期のその身に叩き込んでおくことを優先した,ということです.

どうしても選手やコーチは,目の前の勝利を優先してしまいがちです.
それが全て悪いというわけではないですし,スポーツにおいてはその勝利を追うこと自体が重要であることに違いはないのですけど,より指導のクオリティを高めようというのであれば, やはり将来を見据えた選手の育成プランというものが大事になってきます.それが一貫指導体制の考え方です.

技術や体力というものは,練習を重ね,成長してくれば自ずと高まってきます.ですが,その場面でどのようなショットを打つべきか,どう動けば良いか,という判断力や戦術というのは,一朝一夕に身につくものではないのかもしれません.
となると,その時に満足な技術や体力がなかったとしても「やろうとする」というトレーニングが必要であることが考えられます.

それが例え,目の前の試合には勝てる可能性が低くなるものであったとしても,です.
(日本のジュニア選手は世界大会でよく活躍しますが,シニアでの活躍が振るわないのは,こうしたことが背景になるのかもしれません)

これはサッカーにも,他の競技におけるジュニア育成にも同じことが言えるのではないでしょうか.

テレビゲームにしたって,イージーモードばかりやっていても上手くはなりません. ハードモードで苦労しないと,スキルは上がらないのと一緒です.
これを,「せっかくのゲームなんだから,やっぱり勝たないと」ということで,イージーモードにして勝利する喜びばかり味わっていてもいけないのです.

将来,ハードモードでプレーしなければならないのであれば, 今イージーモードをやるにしても「縛りプレー」でやるべきなんです.例えそれでクリアできないことがあったとしても,です.
そうしないと,いつかくるハードモードに対応できないのですから.
それがスポーツの一貫指導体制ということです.

そこまでしてサッカーの勝利を目指すことにどこまでの意味がある?ジュニア世代で勝たせてあげることこそが重要では?
という意見があって然りでしょう.
ただ,そこの議論はやや複雑になってきますので別の形でお話したいと思います.


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」
井戸端スポーツ会議 part 6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
浅田選手への森元首相の発言
いい人達なんだそうです
スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
スポーツで土建国家を復活できる
スポーツは健康になるためのツールではない
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ


2014年10月1日水曜日

続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権

前回,
細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権
の続きです.
上記の記事では,今どきの大学ホームページで時折見かけるイタい「最近のニュース」とか「トピック」欄のタイトルをご紹介しました.

「分かる人だけが楽しんでもらえれば・・」ということで閲覧数には期待していなかったのですけど,予想外にもたくさんのアクセスがありました.
なので,その続きを企んだわけです.

今回はと言うと,
今後,近い将来目にすることになるであろう大学HP「最近のニュース」欄のシュールな姿
に重点をおいて「将来」を予想するものであります.
きっと将来このような状態が生まれてしまうであろう原因としては,HP担当者の目的不明瞭な姿勢と立場,そして昨今のFacebookおよびTwitter文化によるものだと推察しています.

「とにかく何でもいいから「最近のニュース」欄を更新したい」
「こういうものは頻繁に更新することが大事なんだ」

という,よくよく考えれば大学HPとしてはキチ◯イ以外の何物でもない事に全力をかけなければならなくなるHP担当者の徒労を今のうちから楽しもうというものです.

ここでの見どころは,そうした「とにかく更新!」を至上命題にいつも業務をしているが故に,思わず以下の様なものまで掲載しちゃった・・.でもアットホーム感もあって良いっすよね,多分・・.という, 疲労と責任 ,それに機械的な業務処理への妥協といったものが十二分に予想できちゃうことにあります.
そこにシュールな笑いがあるのです.

では,
続・細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権をどうぞ

1)本学職員が大阪プロレスでプロデビュー!

2)台風の中,バスで学生を送り届けました!

3)事務の◯◯先生,永年勤続で表彰!

4)今日の寮食のメニューは朝◯◯,昼◯◯,晩◯◯です!

5)本学教員の◯◯先生が還暦を迎えました!

6)新年を迎えるにあたり,朝礼で理事長からのご挨拶がありました

7)みんなで体育館を掃除しました!

8)授業でダグラスバッグを体験しました

9)バスケットボール部の◯◯さんが青年海外協力隊に参加しています!

10)学内で無線LANが使用できるようになりました!

11)体育の授業がフットサルで盛り上がりました!

12)フランス文学の授業でスイーツ・パーティーを開催しました!

13)◯学科の3年次合同ゼミ企画でキャリアセミナーを開催しました!

14)10月生まれの人を集めて誕生日会を開催しました!

15)◯号館で火災が発生しました!

16)現在,◯号館が燃えています.原因は不明です.

17)水道管が破裂しています!

18)アルコールの飲み過ぎに注意しましょう!

19)昼休みに軽音部がミニコンサートを開催しました!

20)放課後の中庭でダンスサークルのパフォーマンスがありました!

21)本学学生の◯◯君が◯◯銀行に就職できました!

22)本学学生の◯◯さんが◯◯指導士の資格を取得!

23)就活戦線に突入!がんばれ学生たち!私たちは応援しています

24)「効果的な授業の聞き方」をテーマとしたセミナーを開催しました!

25)本学オリジナルボールペンが完成しました!

26)学生がデザインしたオリジナルTシャツが完成しました!

27)教員同士でクリスマス懇親会が開催されました!

28)◯◯温泉への旅:教職員の絆が深まりました!

29)図書館の貸出数の低下に歯止めがかかりました!

30)食堂のメニューにコーンスープが加わりました!

31)キャンプ実習でウサギさんに出会いました!

32)海外研修プログラム:学生たちはご当地アイスクリームに夢中です!

33)速報!本学バドミントン部が2回戦に進出!

34)今年も留学生が入学してくれました!

35)オープンキャンパス大盛況!◯◯地区での瞬間参加者数は最大!

36)授業改善セミナーへの参加教員が増加しています

37)新入生オリエンテーション合宿:イチゴ狩りで大盛り上がり!

38)事務室に大型電子レンジを導入:お昼時に大活躍!

39)◯◯試験を目指した学生たちが休日返上で勉強しています!

40)コピー機の業者が変更になりました

41)今年の通学バスのドライバーは◯◯先生と◯◯先生です!

42)学生たちが花壇に水を撒きました!

43)ここからオープンキャンパスで使えるクーポン券がダウンロードできます!

44)受験対策講座実施中!

45)同じ高校から2名以上受験する場合はご連絡ください!

46)今年は4名の編入生を迎えました!

47)教職員バッジが新しくなりました!

48)特別セミナーを聞いた学生たちに福祉マインドが芽生えました!

49)不審な不動産(マンション)販売にご注意ください !

50)オープンキャンパスの様子を動画でご覧になれます!

上記のようなタイトルの「ニュース」をアップした大学ホームページを見つけたら,事情を察した上で,そっと微笑んであげてください.
よろしくお願い致します.


2014年9月27日土曜日

細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権

今日は,かなり需要の小さいニッチな記事です.
大学ホームページの「最近のニュース」において,なさそうで実際のところ類似したものが多々見受けられる「ちょっとイタい」ものをリスト化してみました.
今後はこういった「最新のニュース」をアップする大学が増える可能性もありますので,そういう見方をしてもらっても良いかもしれません.

なお,大学ホームページ全体のことであれば,
をご覧ください.

ちなみに,今回は「危ない大学」を炙り出すためのものではありません.
単に「シュール」であることを楽しもうというものです.

我々としては,大学HPのこういう「最近のニュース」を見るたびに,何とも言えない面白さが込み上げてくるのであります.
この面白さが全くわからない人もいるでしょう.いえ,圧倒的多数の方々が「へ?だから何?何が面白いの?」ってなるものです.
でも,これらを見るたび笑いを堪え切れない人もまたいることは事実であります.
それって大学HPで出すことなの?
誰に需要があるの?
どうせ「『最近のニュース』の更新頻度を上げろ」って言われたから,無理やりネタを放り込んでみたんじゃないの?
自己アピールのためとは言え,いくらなんでもやっつけ過ぎだろそれ.
というシュールさを醸しています.

つまり広い意味において,
「どのような意図があってその記事を書いたのか」を推測したり追体験するところにその面白さがあるのです.

以下に示しました,大学HPにおける「最近のニュース」のタイトルで笑えた人は,きっと一緒に良いお酒が飲めると思います.
逆に,「何がどう面白いのか全く分からない」という人は,頭の中がまだ「民間感覚」だったり「Facebook的」なのだと思います(批判してるわけじゃないですよ!).

では,
『細かすぎて伝わらない大学HPオモシロ「最近のニュース」選手権』

1)学内のトイレがすべてウォシュレットになりました
※写真付きだとなお面白い

2)耐震化工事業者に関する入札情報を更新しました

3)特大バスが納入されました
※内装の写真があればなお面白い

4)バスを本学のカラーに塗り替えました
※撮影角度が異なる写真が2枚以上だとなお面白い

5)公用車にプリウスが追加されました
※環境に配慮している文言があればなお面白い

6)学園祭が無事終了しました
※開催案内はされていないことが面白いための条件

7)公開セミナー「◯◯」が無事終了しました
※事前の開催案内はされていないことが面白いための条件

8)体育館の照明がLEDになりました
※体育の授業風景写真があるとなお面白い

9)学生が校内の大掃除をしてくれました
※エプロン姿にホウキを持っての集合写真があるとなお面白い

10)学生が禁煙キャンペーンで学内を練り歩いています
※ノボリを掲げて歩いている写真があるとなお面白い

11)本学学生が◯◯町の◯◯祭りにボランティアとして参加してきました

12)本学学生が◯◯町の◯◯祭りに参加して感謝状をいただきました
※感謝状を手にした学生の写真があればなお面白い

13)本学教員◯◯先生が,◯◯市より感謝状をいただきました

14)短期留学プログラムに学生が参加しています
※観光旅行記のような本文であればなお面白い

15)留学体験報告会を開催しました

16)福祉実習で本学学生が車椅子を体験しました

17)防災訓練が実施されました
※満面の笑顔で逃げまっている写真があるとなお面白い

18)◯◯入試の受付が始まりました
※推薦型の入試であることが面白い条件

19)本学バレーボール部がインカレ出場決定!
※インカレの仕組みを知っていることが面白い条件

20)本学ダンスサークルがYouTubeで人気です

21)youtubeに本学のCM動画が掲載されています

22)◯号館のトイレは現在使用できません

23)◯号館と◯号館の間は工事中につき通行できません

24)学内水道工事が始まりました

25)◯号館の窓の修理が終わりました

26)本学のTVCMが完成しました

27)本学学生の手でTVCMが作られました!

28)本学学生の◯◯君が◯◯ボランティアで感謝状をもらいました

29)本学卒業生の◯◯氏が◯◯で入賞しました

30)本学卒業生である◯◯氏がテレビに出演します!

31)本学卒業生である◯◯氏がテレビに出演していました!

32)就活セミナーへの参加学生数が増加しています!

33)就活セミナーが盛況でした!

34)インターンシップ報告会を実施しました

35)学内ファッションショーを開催しました
※掲載している写真に学生の顔が写っていないければなお面白い

36)学生たちがネイルアートに挑戦しています!

37)皆既日食観察会を開催しました
※近所の小中学生を招いているとなお面白い

38)図書館では便利な使い方を優しく説明してくれます
※そのくせ時間帯指定されているとなお面白い

39)オープンキャンパスが盛況のうちに無事終了しました

40)オープンキャンパス来場者数が◯◯人を突破!

41)オープンキャンパスで◯◯氏のトークショーが開催されます

42)運動会を開催!教員チームが優勝しました

43)FD活動が実施されました
※教員がグループワークをしている写真があるとなお面白い

44)授業評価アンケートで「プレミアム」レベルの教員が20%増えました

45)学内サーバーのトラブル復旧を学生がサポートしました

46)業務用製氷機が業者から納入されました

47)本学オリジナル・ドリンクを販売中!

49)MOS(MSオフィスの資格)のセミナーが開催されました

50)MOSの取得者が20%増加しました!

51)MOSの受験生が40%増加しました!

52)本学学生のMOSの合格率が激増!

53)スポーツリーダー資格取得3年連続20名以上!

54)地域の方から大きくてかわいいテーブルを頂きました
※そのテーブルを前にして集合写真を撮っているとなお面白い

55)迷子の子猫がキャンパス内で人気です
※写真が掲載されていなければなお面白い

56)◯号館にあったツバメの巣からヒナが飛び立ちました!
※なんの脈略無くアップされるとなお面白い

57)本学オリジナルキャラクター「◯◯」のきぐるみが完成しました
※そのきぐるみを着てポーズをとった写真があるとなお面白い

58)本学オリジナルキャラクター「◯◯」が皆さんをお迎えします
※たとえばオープンキャンパスとか

59)図書館の書庫が増築されました

60)講義中に倒れた教員を学生がAEDで助けました


とまあ,そんなところでしょうかね・・.
大学のホームページの「最新のニュース」を,こういった視点から眺めてみるのも面白いものですよ.


2014年9月20日土曜日

昨今の大学用語辞典

最近,適菜収 著『日本をダメにしたB層用語辞典』というのを読んでみました.
何から何まで首肯できるということではありませんが,なかなか面白いものでしたよ.


この本を読んだだけでは,適菜氏が言いたいことは伝わりにくいかもしれません.その他の著書も合わせて読んでみることをオススメします.
文章をそのまま受け取ると,「茶化してフザケてる」と思われてしまうかもしれないので.

そんなわけで,私もこれをマネて「昨今の大学用語」に関する辞典を作ってみました.
全部書ききれた感は無いので,また続編を出すかもしれないです.
以下の記事だけ読んでも私が言いたいことは伝わりにくいかもしれません.最下段に示した記事も合わせて読むことをオススメします.

※謝辞
この辞書を作成するにあたって,何名かの大学教員の協力を得ました.記して感謝の意を表します.

『昨今の大学用語辞典』

【ICT】(1)授業の質を上げることができるツールだと勘違いされているもの.(2)糖質制限ダイエットや風船ダイエット等に取り組む人と類似した議論が展開されているもの.

【アクティブラーニング】(1)学生の思慮または自己言及の機会を奪うための手段.(2)何かが積極的になったように見える消極的な学習.

【危ない大学】学生を「顧客」,教職員を「社員」と見做す大学.経営難の大学とは同義ではないことに注意.

【アメリカからの圧力】言い訳.その実,できればいっそアメリカ化したいという屈折した願望があったりする.

【一流大学】何がどう一流なのか示されることはないが,なんとなく偏差値と入試倍率で片付けられる概念.

【一本釣り】公募にかけずにコネと人脈を通じて採用すること.大学側としては最も安全で能率的な教員採用方法であるが,大局が見れない者からは妬みを買う.

【イノベーション】(1)後になってみたらプラマイゼロ,たんなるバカ騒ぎ・から騒ぎだったという評価がつくだろう事について,現在進行時においてその事を高評価する言葉.(2)「フランス革命」と同様,いつからか無条件に「良いことだ」と勘違いされた言葉.(3)どこかで誰かが言ってたから,つられてとりあえず言ってみた言葉.意味もわからず多用される.

【英語教育】(1)各大学・各教員が必要に応じてやればいいこと.(2)植民地化政策のこと.宗主国からの支配を求めて股を開くことと同義.(3)日本の教育界のコンプレックスの現れ.

【AO入試】一般に流布されているほど悪い入試ではない.

【FD】(1)成果が出ない労力の意.「骨折り損のくたびれ儲け」とも言う.(2)自分たちの大学の強みと弱みを見つめる行為.(3)学生に私語をさせないために行う教員対象の勉強会.

【オープンキャンパス】お見合いと同義.相手の本当のところは知り得ないイベント.

【おみやげ】オープンキャンパスでもらえる物.毎度,オープンキャンパスのアンケート等で「参加して良かったと思ったもの」の上位に必ず入るコンテンツ.よって大学としてはそこに注力を始めるが,まともな頭脳があれば「おみやげ」によって学生募集につながるわけがない事くらい分かりそうなもの.

【学生目線】(1)学生の現役就職を目指すこと.(2)その場の盛り上がり,賑やかさを考えること.⇒本来は「学生の将来を考えること」であったもの.

【カタカナ】(1)日本の教育者が好むもの.(2)当人としては使用するたびバカにされている自覚は若干あるが,それでも思わず口から出てしまう強力な依存性を有する.

【きぐるみ】「危ない大学」では教職員が着用することが多い.各種イベントで学内を走り回っている.

【キャリア教育】利己主義者養成教育のこと.

【教員評価制度】(1)運営陣に気に入られていると高くなるもの.(2)運営陣に気に入られていると気にしなくていいもの.(3)運営陣を気にしなければならないもの.(4)大学に愛着がなくなれば気にならなくなるもの.

【グローバル化】(1)文部科学省に言われたから取り組むこと.(2)隣の大学がやってるから取り組むこと.(3)一般人にとっては大した関心事ではない.というか実際のところは知られていない.(4)「世界」に追いつけ追い越せとばかりに,反グローバリズムが芽吹いた「世界」に向けて日本の大学が今さら食いついてしまった周回遅れの残念な思想.

【研究】論文数のこと.

【高校訪問】(1)約3年後に学生募集を停止することになるであろう大学しか効果のない営業活動.(2)情緒不安定な経営陣から言われたから取り組むこと.(3)隣の大学がやっているから取り組むこと.(4)小旅行のこと.

【個人研究室】職員室を採用している危ない大学においては,大学監査があった時だけ用意されるモデルルーム.

【コストパフォーマンス】[ 就職率 ÷ 学習時間 ]のこと.これが高いほど喜ばれる.[ 生活時間 ÷ 学習時間 ]を指す場合もある.

【最近のニュース (new!)】大学ホームページのトップページに置かれている「最新情報」が掲載されるコーナー.更新頻度が高い大学ほどイタいとされる.

【3月末入試】経営難大学において実施される,浪人予備軍・残党狩り.主だった大学が合格発表を終えきる3月末に行う入試を指す.

【資格・免許】「足の裏の米粒」とよく言われる.取らないと気持ち悪いが,取ったからといって食えるわけではない.

【自主的に学ばせる授業】矛盾.

【実践力】(1)指導者が学習者に対して行う洗脳活動であり,ある行為について,近い将来に役立つという期待値を増大させ,かつその場でわかった気になれる危険ドラッグ.(2)実践すれば身につく力.

【質保証】もはや保証したいものが「質」ではなく「量」になっているもの.

【社会的要望】無視したところで何か問題が起こるものではないが,なぜか無視せずにはいられない者が「対処」「お応えする」と称して暴れまわることで,結局は中長期には社会のためにならない結果を生み出している昨今の流れの原因.

【就職活動】椅子取りゲームのこと.ノリとタイミングを大事にしないとツラくなる.

【授業評価アンケート】全国一斉に莫大な量の上質紙をムダにすること.製紙会社と印刷会社を潤すための公共政策的な思惑があると信じたい.

【情報公開】自慢と言い訳を足して2で割って,その平方根をとったもの.

【STAP問題】類似したことをやらかしている研究者は多いはずなので,全国的に戦々恐々としているであろうこと.

【スパイ】(1)大学の経営者や管理者が,学内情報を集めるために放っている者.教職員だけでなく,学生もその役を担わされていることがある.(2)大学経営陣に擦り寄るために,自主的に行う教職員も多い.

【世界基準化】(1)教育レベルを世界基準まで下げること.(2)新自由主義的な大学経営にとって都合のいい国のシステムに限って採用すること.

【説明責任】非論理的な論理.

【ゼミ活動】学生と教員が一緒になってなにかしらの甘いモノを頬張る行為.

【戦略】キャッチコピーのこと.「戦略」と銘打った委員会やプロジェクトチームをつくるのが昨今の流行.

【卒業論文】大学らしい教育,最後の砦.

【対案を出せ】頭の弱い人が考え練り上げることを放棄した際に用いるセリフ.

【体育】強い理念のもと指導する教員が多いわけではない,学生にとっての休み時間.本来は大学教育において重要な科目.

【体育会(運動部)】(1)学生募集の特効薬.(2)学内イベント要員.(3)地域貢献イベント要員.

【体育館】危ない大学や経営難の大学のホームページやパンフレットで,なぜか過度にアピールされる大学施設.

【大学案内(パンフレット)】読みにくく文字数が多いほど優れた大学であることを示す.

【大学改革】(1)50年後の「一億総白痴化」を目標とした活動.(2)現役の教員や官僚が責任をとらなくてよい合法的破壊活動.

【大学ポートレート】出会い系サイトの「プロフィール」のようなもの.

【朝礼】毎朝行われる謀反者を取り締まる活動.

【哲学】大学で最も学ぶべきこと.現在ではまともに勉強することはなくなったこと.それが何なのかすら説明できなくなった学生や教員も多い.

【図書館】漫画喫茶.

【任期付】2〜5年の任期を用意した教職員のこと.見えにくいところでルサンチマンを生み出し,学生指導にも悪影響を及ぼしている仕組み.

【認証評価】傷の舐め合い.

【博士号】「足の裏の米粒」とよく言われる.取らないと気持ち悪いが,取ったからといって食えるわけではない.

【バス】「危ない大学」を炙り出す象徴.

【バスの免許】危ない大学においては「博士号」と同等の価値を持つ.

【反転授業】 自然科学者からみればただの後出しジャンケン.

【ビジョン】そう言ってる人こそ見えてないことが多い.

【フランス革命】(1)意味もわからずバカ騒ぎをすること.(2)もう既に現代の大学において,「人類史上屈指の愚行」という認識を持っている人は希少.(3)「イノベーション」と同様,いつからかその本質が勘違いされて「良いこと」なっている事.

【プロデュース】「学生指導」をカタカナ語にしたもの.

【フロンティア】「とにかくなんでもいいから何か新しそうな事をアピールしなければならない」という議題で悩んだ末に出した,その答えをカタカナ語にしたもの.

【ホームページ】読みにくく文字数が多いほど優れた大学であることを示す.

【マインド】「〜〜マインド」などと使用される.さして考える力がなくても何か意義深いことを言った気になれる便利な言葉.

【民主主義】(1)無条件に「良いこと」になっている事の一つ.(2)一昔前であれば,脳筋・バカ野郎が集う体育系大学ですら,その禍々しい欠点について学んでいた政治体制の一つ.むしろ,外野からは「体育バカは身分制が好きで,民主主義を知らない」という周回遅れの文句すら聞かれた.今の大学では,よほど意識的な学者が担当する授業でなければ,その本質が説かれず「マンセー」することが多い.

【喜ぶ顔】「学生の――が見たい」などと使用される.おおよそ教育者の,まして高等教育機関に属する者の発言ではない.

【世論】大学経営の方針を決めるもの.本来は無視すべきもの.

【輿論】大学経営の方針に生かされていないもの.本来は耳を傾けるべきもの

【若い力】学内の政治的シワ寄せにより引っ張り上げられた助教や講師のこと.



2014年9月12日金曜日

危ない大学に奉職してしまったとき「授業評価アンケート対策」

ついにこれを取り上げる日が来ました.
学生からの授業評価アンケートに悩んでいる人は参考にしてみてください.

特に危ない大学にお勤めの方々におきましては,お客様である学生からの評判が良くないとペナルティが設けられている場合もありますよね.
繰り返しアンケート結果が芳しくなかったりすると,つまりイエローカードが累積すると,「研修」とか管理職からの「叱責」を受けることになります.
それが任期付教員であれば,契約更新をしてくれない大学もあるでしょう.

「えっ.それって大学の授業の質を高めることにつながるからいいじゃん」
という人もいましょうが,残念ながらそうはなりません.
詳しくは■反・大学改革論2(学生からの評価アンケート)を読んでもらえればと思いますが,今回はタイトルの通り,
授業評価アンケートが教員の評価につながる危ない大学に奉職している先生方
に向けた記事です.
どうしていいか分からず,困り果てて思わずググってこの記事を見つけた人もいるのでしょうか.
※本記事は,要領のいい先生にとっては「そんなの誰でも知ってるよ!」という内容ですが,まぁ,要領が悪くて困り果てている先生向けということで.

以下を読んでいただく前に私から一言.
まず,「魅力ある満足度の高い授業」という授業を目指すことは教員として当然のことです.私も頑張ってこれを目指しています.
ところが,この「魅力ある満足度の高い授業」というのは,そうした授業を展開する上での哲学・思想がズレていると,「今そこで受講している学生」が,「今そこで満足する授業」になってしまいやすいのです.
(ま,以下ではその方略を紹介するわけですが・・・)

今そのときは「つまらないなぁ」とか「納得できない」と思っていても,時間が経つことで「あっ,そうか.あれってこういうことか」となることは多いものです.
さらには,その時には内容を受け入れることすら出来きず,聞き入れることなく完全に内容を忘れてしまう授業だってあるでしょう.
でもそれは,学生の側にその授業から発せられる内容を受け取るための準備(レディネス)が不十分であったという場合も多いと思います.私自身,今思えばそうだったと自覚できるものもたくさんあります.
でも,そうした授業が「本当にダメな授業」と一緒くたにされて「魅力のない満足度の低い授業」として断罪されているのが実際のところではないでしょうか.

大学の授業で学生が学ぶことは,各教員が授業で扱うモノに対する「考え方」です.
「経済学」であれば,その教員が「経済」や「経済学」というものをどのように捉えているのか,その「考え方」を学ぶのです.
ときどき,「大学で学んだことは実社会では役に立たない」とか「5年もすれば価値は下がる」などと言われることもありますが,これこそ大学の授業を「何かに役立てるための “パッケージ” を手に入れる場」だと勘違いしている典型です.

大学教員が学生に受け取ってもらいたい事とは,この世界を見つめる上での羅針盤となる「モノの考え方」なのです.
具体的な例で言えば,学生が将来一人で,もしくは誰かと或る “それ” について議論しなければいけない際に,より正しい結論や答えを紡ぎだすための体力をつける時間が大学の授業と言えるでしょう.
それはどのような科目であれ関係ありませんし,何年経っても価値は下がるものではないのです.

誤解を恐れずに言えば大学の授業に「答え」はなく,「考え方」が問われているのであって,それゆえ「教師」ではなく「(答えを探し求めている者)研究者」が授業を行っているのではないでしょうか.

はい,前置きが長くなりました.
「そんな誰でも分かってる事をドヤ顔で言われたところで,授業の評判が芳しくないと先が無いんだ」という先生方にとっては,昨今の大学を取り巻く空気は毒ガスのように感じることでしょう.
というわけで,上の話が無かったかのような「授業評価アンケート対策」を以下よりどうぞ.

授業評価アンケート対策のコンセプト
アンケート項目はいろいろありますが,結局は,
・分かりやすい
・居心地が良い
・受講した成果を実感できる
ことが重要だと思われます.

1)アンケートをとる時の授業は楽しくする
普段の授業とあまりに差をつけてはいけませんが,学生が比較的「有意義だった」「楽しかった」と思える取って置きの内容にして,その直後にアンケートをとれば高得点が期待できます.
感のいい学生は「アンケートがあるから今日の授業は楽しかったんだ」と思うでしょうから,そのさじ加減には気をつけてください.逆効果になってしまうかもしれません.
ちなみに,私は敢えてこの作戦とは逆のことをしています.というのも,それを狙っているんじゃないかと思われるのが気に入らないからです.
でも,特にそこら辺を気にしないのであれば効果的であることに違いはないです.

2)すぐに役立つ内容を盛り込む
硬派な先生からしたら「ふざけんな!」というものでしょうが,今の大学教育では「すぐに役立つ授業」に対する魅力は大きいのです.
とにかく授業を「すぐに役立つ」ものになるよう気を配ります.もの凄く気を配ります.とことん気を配ります.めちゃめちゃ気を配るんです.
これについては,「そうなんでしょうけど,私が受け持っているタイプの科目では無理なんですよ」というステレオタイプな言い訳をする先生方がたくさんいます.
はい.それは全くもって正論ですが,残念ながら危ない大学では通用しません.
無理やり「すぐに役立つ」ネタで授業を埋め尽くすのです.今どきの大学では学術性よりも目先の利益が優先されるのですから.

3)就活に役立つ内容を盛り込む
すぐに役立つだけじゃなく,就活に役立つ内容にすると学生の食いつきは抜群です.
例えば私の場合はこんな感じ.
体育の授業では,何かのタイミングに学生を1人〜3人ほど皆の前に出てきてもらって話す機会を作ります.準備体操とか仕切り役とか,優勝者の一言コメントみたいなヤツです.
もっと具体的に言えば,例えば脈略無く前に出てきてもらって突然「はい.なにかやって」って言います.たいてい,学生は気の利いた事をやることはできません.そこですかさず用意しておいたネタを放り込みます.
鉄板はジャンケンゲーム(詳細はレクリエーション系のサイトや書籍で).「大勢の前に立たされて,『なにかやって』って言われることだってあるぞ.そういうの聞いたことあるだろ.そんな時のために,これを覚えておくといいぞ.何の準備も用意も無くても,その場を盛り上げられるからな」って.
それで学生は,「へぇー.おもしろーい.しかも役に立つぅ.覚えとこぉ」って.
そういうのをちょいちょい挟んでいくんです.授業への満足度は高まります.
※なお,「先生,あの時に教えてもらったやつが役に立ちました.ありがとうございます」ってことになったのは本当です.あながち悪いことではないのかもしれません.

4)笑っちゃうくらい簡単な内容にする
ある意味で究極の「この授業の内容が理解できた」です.
元来,理解できたかどうかに度合いとか尺度なんか無いはずですよね.「理解できた」と感じたとき,それはその人が考えることをやめたときに他ならないのですから.そうでしょ.
マジメな話はさておき,授業評価アンケートに困っている先生方って,大学の授業を難しく考え過ぎなんです.
学生が理解しにくい,もっと言うなら,危ない大学に来ている学生なんかでは「理解しようとすらしない」内容を授業で展開してもダメです.
「おいおい,それってヤバくね?」って思うくらい簡単にするくらいがちょうど良いのです.
「これがテストに出まーす」って言いながら,さも重要そうな事のように演出して,めっちゃ簡単なことを覚えさせるのです.あっ,これが最重要ポイントですね「演出をする」.
理解できた気にさせればOKです.自分が本当に理解できているかどうかなんて,学生の側が判断できるわけないでしょ.
「いやいや,それじゃそもそも大学に来た意味が・・」
というところでしょうが,危ない大学でそれを言ってはいけません.

5)笑っちゃうくらい簡単な小テストにする
最終テストはどうでもいいです.授業評価アンケートには関係ないから.
授業期間の途中で行われる簡単な小テストは,学生に「この授業の内容が理解できた」と思わせる具体的な作戦です.
記述式のテストが良いでしょう.選択式問題は作るのが大変です.穴埋め問題だと点数を誤魔化すことができないので却下.レポートだと学生の負担が大きいので,授業評価アンケートに響きます.
ということで,なんとでも書けそうな記述式問題に回答させて,ガッカリさせない程度にそれっぽい点数をつけて返却するのです.

5)日常的に触れる事と授業内容をリンクさせる
「すぐに役立つ」とか「就活に役立つ」と似ているのですが,つまり,今そこで展開されている授業が,今の学生自身にとってどういう価値があるか認識できる伝え方にする,ということです.
授業で扱われている知識が自分自身の事として認識できないと,授業を聞く価値がないと思うようになり,何をやっているのか意味不明ということになって,結果,授業評価アンケートに響きます.

6)断定する
ようするに「答え」を教えていくのです.これが唯一絶対的な「答え」だ,と.
もっとも,冒頭でも述べたように大学の授業は「答え」としての知識を伝えるところではありません(一部の授業を除く).
それがなんとなく身に沁みている先生方としては,どうしても “言い切る” ことができない.すると学生からは「なんだか回りくどいし,モゴモゴした感じがする面倒くさくて分かりにくくて眠い授業をする先生」という評価になります.
少々オーバーなくらいに面白おかしく断定的な物言いをするのです.
お手本はワイドショーなんかによく出ているタレント教員達です.彼らのようにいい加減な物言いをします.

7)グループワークをさせる
履修者の人数にもよるのですが,グループワークは授業評価アンケートの点数を高める上で効果的です.
やり方についての詳細は,それを扱ったウェブサイトや書籍にあたってください.
と言っても,肝心の大学・高等教育ならではの学びはほとんど期待できないのですが,この際どうでもいいでしょう.
そもそもグループワークが注目されているのは「授業評価アンケート的」なもののスコアを高めることができるからです.授業評価アンケートの点数アップに効果があるのは当然です.

8)雑談できる時間を設ける
90分間,ずっと講義をすることで授業評価アンケートの点数を高めることは困難です.
グループワークにも通じることですが,ようは学生自身が自由にできる時間が確保されれば,授業の居心地が良いことにつながります.
「ちょっと休憩」と言って5分くらい普通に雑談させるも良し.
テーマを与えておいて「それについて隣の人と話し合って,この用紙に書いて提出してくれ.一緒に話し合った者の名前を書いて出すように.点数に影響するぞぉ」と言って小規模グループワークをさせるのも良し.この場合,その場で簡単に発表させてもいいですし,次回に優れたものを公開してもいいでしょう.
私語ではなくワイワイガヤガヤできれば,それだけで授業評価アンケートには好影響です.

※ここで,「私語」を止める方法をご紹介しておきます.私語に悩む先生も多いでしょうから.
「静かにしろ!」と叱っても学生は私語をやめません.叱ってもダメなんです.
一番最初(第一週の開始時)が極めて肝心です.「初回だから・・」とか,「まだ気にならない程度の私語だから・・」と甘く見てはいけません.
私語だと気がついた時点で,“叱らずに”,黙って私語が収まるまで待ちます.例え小さな私語であったとしてもです.
私語をしている学生の方を向いて,10秒くらいなら黙っておきましょう.
どうしても収まらない場合,「おい.気づいてくれ」と落ち着いた口調で言います.
これを2〜3週ほど繰り返せば,大抵の私語はなくなっていきます.
多くの先生方はこの「黙って待つ」ことができないのです.10秒って以外に長いですからね.
私も当初は,わざとらしさと恥ずかしさ,それに手持ち無沙汰を感じていたのですが,そこを我慢してやります.
私語がダメな理由をその都度説明するとウザい先生ですし,威嚇するような態度をとる必要もありません.
私語がやんだら,抑えた笑顔で「ありがとう」と言えば,逆恨みされることも少ないです.

9)映像メディアを乱用しない
なにかにつけてビデオ上映をしたがる先生がいます.自分で説明することに自信がない先生がやってしまいがちな罠です.
あと,60分もののビデオを流しておけば,残りの時間は感想文的なレポートを書かせて授業1時間分を楽できるっていう算段もあるのでしょう.
ですが,何の脈略もないビデオ上映は授業評価アンケートには逆効果ですので,大変かもしれませんが通常の授業のほうが安全です.
むしろ,動画を使用するのであれば,以下のようにします.

10)授業内容と合致した非常に短い動画を利用する
その時間の授業で取り扱う内容と合致した動画を,数分程度に短く編集or操作して見せます.動画はダラダラと流しっぱなしにするのではなく,授業の進行に沿ってピックアップしていきます.
故に,自作映像の場合は動画編集技術がないといけないですし,既存メディアであれば予めどこをどう見せるか周到に準備しなければいけません(っていうか,それが教員の務めか).
私がやってみた例で言えば,「身体」とか「人間」に関するテーマを授業で取り上げた時は,『イノセンス GHOST IN THE SHELL 2』というSFアニメ映画のワンシーンを見せて,その難解なセリフ回しに関する解説をしながらSF映画と体育スポーツとの関連を楽しんでもらいました(我ながらこれは結構イケました).
他にも,私が学生の頃にお世話になったスポーツ史の先生の場合は,古代ローマの剣闘士の様子について映画『グラディエーター』を見せながら “演出して観客を魅了する仕掛けとは何か” を解説していました.やっぱりこういう方法はウケがいいです.
先生方のなかには,映画1本120分丸々全部,2週間かけて上映し,そこで考えたことをレポートさせる方法をやってしまう人がいますが,これは最近の学生にはマズいです.
ポイントとしては,あくまで動画は授業を進めるツールとして利用することです.その動画(映像作品)自体を楽しませようとすると,見透かされたり,その思惑とは逆の効果が出てしまいます.

11)しゃべり方,板書やスライドの示し方も一応気をつける
なんだかんだで重要です.授業評価アンケートの項目になっている場合も多いですから.
気にしておくと良いでしょう.
まあ,これについてはいろいろな書籍が出ているので,それを参考にしてください.


真っ当な授業をしたい.出来ている.という人にとっては全く意味のない記事だったかと思いますが.
それでも,上記のようなことに手を出さなければいけない人がいるようでしたら,参考になれば幸いです.


授業評価アンケート対策のための書籍
     


その他の危ない大学対策は,
危ない大学に奉職してしまったとき「スパイ対策法」
危ない大学に奉職してしまったとき「イベント企画対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「高校訪問対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「教員評価制度対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「新学部・学科名の候補を出せと言われたとき対策」
危ない大学に奉職してしまったとき「本気の高校訪問対策」

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そんなフザけたことより大学教育とは何かを知りたい場合はこちら
  

2014年9月8日月曜日

井戸端スポーツ会議 part6「スポーツとニーチェとドラゴンボール」

男子テニスの錦織選手がUSオープンの決勝戦まで駒を進めたというニュースが入ってきました.
しかも現世界ランクNo1のジョコビッチを破っての決勝進出.これも凄い.
決勝の相手はチリッチ選手とのこと.ぜひとも好勝負を期待したいものです.

ということで,というわけでもないのですが,今回は井戸端スポーツ会議といきましょう.

過去記事でもちょっとだけ触れていたことを少し詳しく云々してみたいと思います.
過去記事の内容がなければチンプンカンプンの記事になりますので,端折って説明しておきます.
ヨハン・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス」で述べた,
「人間は遊ぶことで文化を発展させてきた.文化が発展していく原動力は「遊び」である」
という議論について,「スポーツ」の要素を抽出して話をしてみると,
「人間はスポーツすることでも文化を発展させてきた.そして近年はこの「文化のスポーツ化」が,良くも悪くも「文化を遊ぶ」こと以上に強まっている」
という議論ができるのではないか.
で,この「文化のスポーツ化」の喫緊の例としてグローバリゼーションがあり,そもそもスポーツという活動の本質に「グローバリズム」があるという話が,
です.こちらもどうぞ.

ここで気になるであろう「遊びとスポーツの違い」ですが,実は専門家の方々の中でも猛烈に難しいテーマでして.
ではこのブログ,つまり私はどのように捉えているかというと,両者を厳密に区別しているわけでも区別できるものでもなく,「スポーツ」は「遊び」という営みを構成する仕組みの一つと考えています.
過去記事においても,スポーツとは「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」活動であると書きました.
これはつまり,スポーツとは遊びの中でもこうした「なにかしらのルールを作って,そのルールのなかでスコア(順位・得点)を獲得する」という要素を抽出した活動だと捉えられるわけです.

故にスポーツは,「遊びでやってんじゃないんだよ!」言いつつ,冷静にそれを眺めてみたら極めて「遊び」にしか見えないという矛盾を抱えた営みになっています.

長い前置きでしたが,ここから記事タイトルの話に入ります.

「遊びでやってんじゃないんだよ!」と言いつつ遊びにしか見えないもので,ただひたすら強くなろう,相手(過去の自分)より上を目指そう,技や身体を究極まで高めようという活動.それがスポーツです.
遊びでやってないはずなのに,「お金のため」「有名になりたいから」「権力が欲しいから」といった発言は厳に慎まれます.スポーツはお金や名声のためにやっているものではないことが求められるからです.
たしかに,現実問題としてお金や名声を得ている場合もありますが,これはメジャースポーツやビジネスとして成り立つスポーツ競技においてのみ言えることです.
多くの場合,自分の生活や経済状態を犠牲にしてでも,アスリートは自身の能力の限界に向けて邁進しています.そうした生活に不安を抱くアスリートもいましょうが,それでも納得してやっている.そういう人の方が圧倒的に多いのです.
「力」をストイックに,且つ,貪欲に求めながらも,本人たちは至って楽しんでいる活動.それがスポーツなのです.

こうした姿は,マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で述べた,「禁欲的だとされるプロテスタントが,なぜ金儲けに走るのか」という論点を,これをさらに逆さまにして「スポーツ」の観点からも説明できるのではないかという野心も出てきます.
スポーツとは「統一ルール下におけるスコアの獲得」でしたね.つまり資本主義とは,獲得すべきスコア(金)に正当性が見出されたことによって,彼らは至って禁欲的に「スポーツ」をやっていると言えなくないだろうか?ということです.

さらにもう一つ,こうした姿で連想するのが漫画・アニメの『ドラゴンボール』の主人公たちです.
※ドラゴンボールの詳細やあらすじは割愛します.国民的漫画だと思いますので.
彼らにとっては,「力」こそが全て.相手よりも上を目指そう.過去の自分よりも上を目指そう.技や身体を究極まで高めよう.という意思が作品の随所に散りばめられています.
そうした「力」への貪欲な姿が描かれる一方で,彼らは戦いを楽しんでいます.地球滅亡の危機や,残虐非道な敵であったとしても「フェアな戦いじゃないとダメだ」と言い出します.「えぇ!こんな場面でそんなこと言うの?」という描写がたくさんありますよね.
まさにスポーツの精神を濃縮したような光景が『ドラゴンボール』では展開されるのです.

さらに,彼らは当初は敵同士であっても仲間になっていきます.例えどんなに極悪非道なキャラであっても,しかもその素養が失われていなくとも仲間になっていくのです.「おめぇ,悪ぃ奴だけど強ぇな」と言って「また一緒に戦おうぜ」という流れになっていきます.これってスポーツでよく見る光景ですよね.
ただし,仲間になっていく条件が一つあり,それは「フェアプレーができる者かどうか?」です.
物語の進行上「善」とか「悪」とか言い出しますが,つまりは「フェアプレー」できるキャラは仲間になっていき,そうでない者は仲間にはならない.生死をかけた暴力的な戦闘や,「正義」から外れた理不尽な選択を主人公がとることもあるのですが,その主人公側に一貫して流れる思想は「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」なのです.
「飽くなき力の追求と,フェアプレーによる戦い」という思想が受け入れられるのであれば,人種や民族の壁を乗り越えられる.これもまさに「スポーツ」ですよね.

『ドラゴンボール』で描かれているのは,こうした人間が「スポーツ」を尊ぶ側面を抽出した姿ではないでしょうか.

ところが,ハリウッド版『ドラゴンボール』では,こうしたドラゴンボールらしさが全くと言っていいほど考慮されていません.
※そもそも私がこの記事を書こうと思ったのは,先日このハリウッド版『ドラゴンボール』を見る機会があって,その出来の悪さに驚愕したことに起因します.

ハリウッド版『ドラゴンボール』でも,主人公の孫悟空が登場します.
オリジナルの孫悟空と同様,どこか抜けていてバカっぽいところは一緒です.ところが,ハリウッド版孫悟空は本当にただのバカなのです.明らかにオリジナル孫悟空の「バカさ」を履き違えています.
ただひたすら力を追い求めようという「スポーツ」らしさは無く,ハリウッド版の彼が力を欲しがった理由は「女にモテたいから」でした.なんという卑しい理由でしょう.
さらにハリウッド版の主人公たちは,ただひたすら「悪」だとされるピッコロ大魔王を倒すという「正義」を貫きます.なんという勧善懲悪でしょう.
これは私が知っている『ドラゴンボール』ではありません.

たしかに,オリジナルの孫悟空は一見バカです.でも,彼やベジータといった「サイヤ人」に投影されているのは,ただひたすら力を求め続けるアスリートの姿のはずなんです.
悪を倒すためとか,正義とは何かといったことではなく,とにかく力を求めて生活していくこと,それ自体に価値があるという生き方です.
そうして彼らは「超サイヤ人」へと覚醒していくわけですが.

超サイヤ人ならぬ「超人」を目指したという意味において,さらには「スポーツ」との類似点が指摘できるのが,ニーチェの「超人思想」ではないでしょうか.
ニーチェは人間の本質の中にある「スポーツ」を尊ぶ精神を,別の形で汲みとったのではないかと思えるフシがあります.

ニーチェの「超人思想」.それは,人間本来が持つ根源的な欲望は「力への意思」だという考え方です.
ただひたすら強くなりたい,究極を得たいという「力」への素直な欲望が,人間の本質だとニーチェは説きました.
もちろん,ニーチェは髪や体が金色に光りだすまで力を求めよと言ったわけではありません.
「力を求める意思を自覚し,それから目をそむけない」という生き方をすべきだと説いたのです.

もし我々が「超チキュ―人」を目指すとしても,なにも10倍の重力下で修行したり,ハンマーを持ってサルを追いかけなくても構わないそうです.
ニーチェが説いたのは,絶え間ない自己研鑚です.ひたすら究極を目指して身体を鍛える.勉強をする.料理の腕を上げる等々.そういうことです.
それとは逆に,「弱くたっていいじゃないか,どうせ俺なんか・・」という着想になって手を抜いてはいけない.そういうことです.

「超人」であれば,たとえ正義や道徳といった価値観が崩壊してしまったとしても,たとえ「神が死んだ」としても,自分自身で生きる価値を見出だせるはずだ.それがルサンチマンに陥らず,前を向いて生きていくことが出来る人間なのだというのです.
これってようするに,毎日鏡の前で「なぜベストを尽くさないのか」って問いかけて生きましょう,ってことでしょうか.言うは易く行うは難しですね.

『ドラゴンボール』の孫悟空も,相手が悪でこちらが善だから戦っているわけではありませんでした.「魔」という字の入った道着を着た仲間がいるくらいですから.彼にとっては「力」を追い求めることが全てであり,そうした中にあって正義や道徳といったものは勝手についてくるものになっています.

スポーツとは,人間が純粋に「力」を求める本質が現れた活動と言えるのではないでしょうか.そこに「政治性」を入れたがらず,逆に「道徳性」を求めたがる理由も見出だせるかもしれませんが,それはまた別の機会に.

スポーツ指導者の方々におきましては,ニーチェの「超人思想」を引き合いに出して選手指導をしてみるのも面白いのかもしれませんね.


ニーチェの超人思想についてはこちらが参考になります


お時間があればこちら
 


井戸端スポーツ会議
■ 井戸端スポーツ会議 part 1「プロ野球16球団構想から」
■ 井戸端スポーツ会議 part 2「スポーツ庁の必要性」
■ 井戸端スポーツ会議 part 3「サッカー日本代表」
■ 井戸端スポーツ会議 part 4「自転車は車道を走らないほうが安全だろう」
井戸端スポーツ会議 part 5「グローバリズムはスポーツ」

過去のスポーツ記事
人間はスポーツする存在である
「負けたのに『楽しかった』」はダメでしょうけど.けどね.
簡易版・負けたのに楽しかったはダメでしょうけど.けどね
浅田選手への森元首相の発言
いい人達なんだそうです
スポーツによって災害に強靭な町をつくれる
スポーツで土建国家を復活できる
スポーツは健康になるためのツールではない
しかしもし,偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう
エクササイズからスポーツへ
コンクリートからスポーツへ