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無事であればいいのですが...

既にこのブログを検索している人がいるように,昨日,黄柳野高等学校で火災が発生しました.

ショックです.
どうやら遺体も出た模様で,今現在,身元確認が急がれています.
行方不明の生徒でなければいいのですが.

この火事で燃えてる寮,私の住んでいた部屋ですし.
あぁ,こんな形で自分の第二の故郷が燃えるとは.

出火の原因はまだ分かっていません.
でも,例の件があるから世間では「喫煙」が疑われるんじゃないでしょうか?
喫煙ルーム(黄柳野高校のこと)

原因の特定がされていないのでなんとも言えないんですけど.

それでも...,
かなりデリケートな話ですが,(再度)この機会に敢えて申し述べたいと思います.
(以下,過去の記事の続きです.今回の出火原因を推測したりするわけじゃないので,誤解なきよう)

ニュースでこの校長先生の顔を見ると,いたたまれない気持ちになります.
「昨日の夜,校舎の裏でタバコの吸殻を拾った.君たちはタバコによる火事の恐ろしさを考えなければいけない.これは健康だとか,他人の迷惑だとか,そんなことより大事なことだ.火事になったら取り返しのつかないことになるんだ」
私が生徒だった十数年前,全校集会で烈火の如く怒っていた校長先生の姿を,今も鮮明に思い出せます.

まだ出火原因がわかりませんが,そのタバコによる取り返しのつかない状況と,同じ状況になってしまいました.

もし生徒による “隠れ喫煙” が原因の出火であれば,数年前に「喫煙室騒動」で黄柳野高校を叩きまくっていた人は,どの面下げて論じるんだろうと.

厳罰化すれば,事は潜伏し,不可視化する.
学校教育は,法律と生徒との信頼のギリギリのところでやり取りしている.
行儀の良い学校しか知らない人はどうだか分かりませんけど,多くの学校の普通の感覚なら,分かりそうなものです.

つまり,喫煙を厳罰化することで,隠れて吸う生徒が出てくるのは当たり前だし,それによって指導もしにくくなるわけです.
思い出してください.この高校が「禁煙指導室」を用意していたのは,禁煙指導と隠れ喫煙による火災を防ぐためのものだったのですから(上記の過去記事を参照のこと).

「そもそも,喫煙する方がおかしい!」
とでも言うのでしょうか?
あ,ちなみに私も高校生の時はそう言ってましたよ.
でもね,こういう物言いって自分のことしか考えていないガキなんです.

「憲法9条を守って,“私たちは戦争しない” と宣言すれば,日本に戦争は起きない」
と言ってる人たちと思考が同じなので腹が立つんです.
「優等生発言してる俺って,かっこいい」
と言っているに等しいからムカつくんです.今はね.

例外もあるだろう,学力や能力に差もあるだろう,どうにもできない状況もあるだろう.
そういった現実と全体を見通して,学校とはどういうところか?を考えてほしいんですよ.

例えば,
「現実に戦争が起きたらどうするの?」
(実際に喫煙している生徒が目の前にいるのはどうするの?)
と問えば,
「戦争をすること自体があり得ないのだ.そんな日本は滅亡した方がいい」
(子供が喫煙すること自体があり得ないのだ.そんな生徒は退学した方がいい)
というステレオタイプ.

世の中を見てください.
戦争したくなくても戦争は起きているし,隠れて喫煙する子供がどれほどいるか.
問題は,どうやってその状況に対処するかでしょう.

「憲法(法律)で決まっているんだ.あり得ない,あり得ない.え?起きたらどうするか?あり得ないんだから僕知らない.その時は滅亡(退学)すればいい」
じゃ困るんです.

「喫煙して退学になるんだ.その子の自己責任だろう」
などと無責任なことをおっしゃる方もいます.
「他の生徒への悪影響がある」
などと冷酷なことをおっしゃる方もいます.

本気でそう考えているのなら,何も言いません.
ただし,おおよそ上記のような物言いから「日本人」を育てるための教育哲学を引き出すことはできないと,私は思っております.
心の奥でつぶやけど,声に出すことではないでしょう.

繰り返しますが,目の前に起きている問題にどうやって対処するかに心血を注いでいるのが現場の教師です.
いじめ問題への対処にしたってそうなのですが,学校には表向き(世間向き)の顔と,生徒と向き合うための顔があります.

私自身が教員ということもありますので,敢えて教育現場を庇護する立場を取らせてもらいましょう.そうした上で申しますと,世論が納得するであろう対処だけで学生を指導することなどできません.
これも敢えて言えば「絶対」です.絶対にできません.

黄柳野高校は全寮制の高校だから,門を出たら学校としての指導責任は終了,というわけにはいかないのです.
喫煙する生徒であっても,全寮制の教育体制で頑張って指導しよう,というのが特徴の学校なのですから.

学校での喫煙問題にしても(いじめ問題も同様だが),水面下で生徒と教師が向かい合う方法が主になるのですが,これは「隠蔽」とか「アカハラ」などと世間の目が厳しすぎます.

だからと言って新しい方法があるわけじゃないので,学生指導の得意な先生が活きる状態を模索することが大事なのですが.
ただ,それって “説明責任” だの “透明性” だのといった,“水面上” での指導じゃないんですよ.

「いや,本当に有能なら出来るはずだ」とか世間は言うのかもしれませんが,そんな先生,そうそうたくさんいるわけじゃありません.
結局,対処できる先生の絶対数が減って,事はさらに悪化していくんじゃないかと.
で,世間は「無能な教師が増加している」などとボヤくんです.

優秀な先生が活きない職場環境にしたのは,その「世間の目」でしょ.今さら被害者・評論者ぶってなにを言うのか,と.
教師の側は「私の能力が足りなかったんです」としかコメントを残せない立場なのに.

学校の教師に,どこまで求めるのか?
これが放ったらかしなままだと,際限なく世間の要求を聞くことになってしまいます.
反論できる立場にない学校や教師に,どこまでも甘える構図になるのです.
その甘えを抑える役は誰かというと,「それは先生の仕事じゃないでしょう」という,それこそ世間の空気なわけで.

例えば
大津いじめ問題で大衆の愚かさに絶望しています
でも書きましたが,「いじめ問題」であれば,教師や学校だけじゃなくて,周りの生徒が対処すべき問題ではないですか?
いじめを目撃した周りの生徒が「おい,お前らやり過ぎだろが!」といって喧嘩になり,それを止めに入るのが「教師」ではないですか?
そういう生徒同士の喧嘩になる状況にもっていくことが大事で.
(「今の子供は喧嘩しない」の問題の本質はここにあると思うんです)

とにかく,現場の先生方を見たり話を聞いたりする中で思うのは,先生が生徒指導しやすい環境を取り戻す(もしくは新たに作る)ことです.
そして,今の流れは,そうではないと思います.


・・・,しかし,
同時にその限界が,黄柳野高等学校の限界も見えてきたところでもあります.

「世の中,理屈や正論だけじゃ通用しねぇよ」

という言葉自体が通用しなくなってきている流れです.
この時代の流れに逆らわない形をとることも,今は必要とされているのかもしれません.

難しいですね.

いろいろ書きましたが,なんにせよ今回の黄柳野高校の火事と犠牲は,それこそ取り返しのつかないことであり,どのような出火原因であったとしても責任は消えません.
自分の母校がこんな形でニュースになっていくのは悲しいことです.